ほかの大勢とは比べものにならないくらいかわいらしい女童に出会い…(写真:Nori/PIXTA)

輝く皇子は、数多くの恋と波瀾に満ちた運命に動かされてゆく。

NHK大河ドラマ「光る君へ」で主人公として描かれている紫式部。彼女によって書かれた54帖から成る世界最古の長篇小説『源氏物語』は、光源氏が女たちとさまざまな恋愛を繰り広げる物語であると同時に、生と死、無常観など、人生や社会の深淵を描いている。

この日本文学最大の傑作が、恋愛小説の名手・角田光代氏の完全新訳で蘇った。河出文庫『源氏物語 1 』から第5帖「若紫(わかむらさき)」を全10回でお送りする。

体調のすぐれない光源氏が山奥の療養先で出会ったのは、思い慕う藤壺女御によく似た一人の少女だった。「自分の手元に置き、親しくともに暮らしたい。思いのままに教育して成長を見守りたい」。光君はそんな願望を募らせていき……。

若紫を最初から読む:病を患う光源氏,「再生の旅路」での運命の出会い

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若紫 運命の出会い、運命の密会

無理に連れ出したのは、恋い焦がれる方のゆかりある少女ということです。
幼いながら、面影は宿っていたのでしょう。

かわいらしい女童

春の日は長く、なかなか暮れず、することもなく退屈な光君は、夕暮れのたいそう霞かすんでいるのに紛れて、さっきの小柴垣のあたりに出かけてみた。惟光(これみつ)のほかはお供の者たちは帰してしまって、惟光とともに垣の内をのぞいてみると、すぐそこの西に面した部屋に持仏(じぶつ)を据えてお勤めをしている尼がいた。簾(すだれ)を少し巻き上げて花を供えているようである。中の柱に身を寄せて座り、脇息(きょうそく)を机がわりにして経巻を置き、大儀そうに読経(どきょう)をしている尼は、ふつうの身分の人とも思えない。四十過ぎくらいで、色が白く気品があり、ほっそりしているけれども、頰はふくよかで、目元のあたり、うつくしく切り揃えられた髪も、長い髪よりかえって洒落(しゃれ)た感じだと光君は感心して眺めた。こぎれいな二人の女房と、女の子が、出たり入ったりして遊んでいる。その中にひとり、十歳くらいだろうか、白い下着に山吹襲(やまぶきがさね)の着慣れた表着(うわぎ)を着て走ってきた女童がいた。ほかの大勢の女童たちとは比べものにならないほどかわいらしく、成人したらひときわうつくしくなるだろうと思えるほどの容姿である。髪は扇を広げたようにゆらゆらとして、泣き腫(は)らしたような顔は、こすったのか真っ赤になっている。

「何ごとですか。子どもたちと喧嘩(けんか)でもなさったの」と見上げる尼君と似ているところがあるので、娘だろうかと光君は思う。

「雀(すずめ)の子を犬君(いぬき)が逃がしてしまったの。籠を伏せてちゃんと入れておいたのに」と、さも残念そうに女童は言う。その場に座っていた女房が、

「またあのうっかり者の犬君が、そんないたずらをしてお叱りを受けるとは、しょうがない人ですね。雀の子はどこに行ってしまったのでしょう。だんだんかわいらしく育ってきていたのに、烏(からす)なんかに見つかったらたいへんですわ」と言い、部屋を出ていく。ゆったりと髪の長い、こざっぱりした人である。少納言の乳母(めのと)と呼ばれているところを見ると、この子の世話役なのであろう。


「若紫」の登場人物系図(△は故人)

深い思いを寄せている人に似ている

「なんてまあ子どもっぽい。聞き分けもなくていらっしゃること。私がこうして今日明日をも知れない命だというのに、なんともお思いにならず、雀を追いかけていらっしゃるなんて。罰が当たりますよといつも申しておりますのに、情けないことです」と尼は言い、「こっちへいらっしゃい」と呼ぶと、女童はそこに膝をついて座る。頰のあたりがまだあどけなく、眉のあたり、無邪気に髪を搔(か)き上げたその額、髪の生え際がなんともかわいらしい。これからどんなにうつくしく成長していくのだろうと、光君はじっと見入った。が、じつは、限りなく深い思いを寄せている人に女童がたいそう似ているので、目が引きつけられていたのだ、と気づいたとたん涙がこぼれてくる。

尼君は女の子の髪を撫(な)でながら、

「櫛(くし)を入れることもお嫌がりになるけれど、きれいな御髪(みぐし)ですこと。本当に子どもっぽくていらっしゃるのが心配でたまりませんよ。これくらいのお年になると、こんなふうでない人もありますのに。亡くなったあなたのおかあさまは、お父上が先立たれた十ばかりの時は、もうなんでもよくわきまえていらっしゃいましたよ。私があなたを今残していってしまったら、どうやって暮らしていかれるおつもりなのでしょう」と言ってひどく泣き出してしまうのを見て、光君もわけもなく悲しくなる。幼心にも、さすがに尼君をじっと見つめる女童の、伏し目になってうつむいたところにこぼれかかってくる髪が、つやつやと光っている。

生(お)ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむそらなき
(これからどうやって育っていくかもわからない若草のようなこの子を残しては、露のような身の私は消えようにも消える空がありません)

尼君が詠むのを聞いて、そばにいた女房が「本当に」と泣き、

初草(はつくさ)の生(お)ひゆく末(すゑ)も知らぬまにいかでか露の消えむとすらむ
(萌(も)えはじめたばかりの若草のような姫君のこれから先もわからないうちに、どうして露が先に消えることなどお考えなのでしょう)

と詠む。そこへ僧都(そうず)があらわれて、

「こちらは人目につきましょう。今日に限って端のお部屋においでなのですね。ここの上の聖の坊に、源氏の中将殿がわらわ病のまじないにおいでになっておられるのを、たった今耳にしました。たいそうなお忍びでしたので、存じませんで、ここにおりながらお見舞いにも参上いたしませんでした」と言う。

「まあ、たいへん。見苦しいところをどなたかに見られてしまったかしら」と、尼君は簾を下ろした。

ともに暮らせたなら


「世間で評判になっていらっしゃる光源氏の君を、この機会に拝見されたらいかがですか。俗世を捨てた法師にとっても、この世の悩みごとも忘れ、寿命も延びるかと思うほどのおうつくしさです。さて、ご挨拶に参りましょう」

と言って立ち上がる気配がするので、光君は急いでその場を離れる。なんと心惹(こころひ)かれる人を目にしたことだろう。こういうことがあるから、好色な連中はあちこち出歩いては、意外な女をうまく見つけ出すというわけか。たまにこうして出かけただけでも、思いがけないことに出会うのだから……と、光君はおもしろく思う。それにしても、なんとかわいらしい女童だったろう。どういう素性の人なのか。あのお方の御身代わりにともに暮らしたら、明けても暮れても気持ちがなぐさめられるだろう、という思いに深く取りつかれた。

光君が聖の坊で横になっていると、僧都の弟子が惟光を呼び出した。狭いところなので、会話は光君の耳にも届いた。

「こちらにいらっしゃっているとつい今しがた人から聞きました。何はともあれご挨拶に参るべきでございましたが、拙僧がこの寺にこもっておりますことをご存じでいらっしゃりながら、ご内密になさいましたので、何かわけがおありなのかと差し控えました。旅先のお宿もこちらに用意いたしましたのに。残念でございます」と弟子は言う。

「それが、今月の十日過ぎあたりからわらわ病を患ってしまって、度重なる発作にこらえかねて、人に教えてもらうままにこの山奥までやってきました。このように高名な聖ほどのお方が、もし祈禱の効き目もあらわさなかったら、世間体の悪さも並の行者以上だろうと憚(はばか)られまして、内密にしたのです。そのうちそちらにも伺います」と、光君は惟光を通じて答えた。

次の話を読む:周囲の人々を戸惑わせた、光君の「大胆な申し出」


*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです

(角田 光代 : 小説家)