【対談連載】編集者 中林 傑(上)
【内神田発】今回の対談相手は、かつてBCNに在籍した中林傑さんだ。「なんだ、楽屋ネタか」と思われるかもしれないが、業界も会社も激動の草創期を経た後、企業体としてのBCNが社会的にも認められる組織になっていく過程で、紙面の充実のため大きな力となってくれた人物だ。44年前、お互い31歳のとき、ビジネス誌の編集者と執筆者という関係で出会い、それ以来、現在に至るまでその縁は続いている。あまりに近い存在ゆえ失念していたが、まさに「千人」の中の1人に数えるべき人だったのだ。(創刊編集長・奥田喜久男)
●木造アパートの一室で生まれた
わざわざ、木更津の田舎からこの大都会まで出てきてもらってご苦労さま(笑)。
いや、この「千人回峰」で奥田さんと対談するとなれば、どこにでも駆けつけますよ。
それはうれしいね。
われわれが初めて会ってから、もう40年以上経ちますね。
BCN、当時はコンピュータ・ニュース社と言っていたけれど、その創業が1981年8月で、その創業前に中林さんの在籍していた出版社から連載執筆の声がかかったんだよね。
私は営業マネジャー向けの雑誌編集部にいて、当時の編集部の先輩が奥田さんに執筆依頼をしたんです。企業にコンピューターが導入されはじめたものの、営業マンの多くはそれを苦手としていましたから、そうした人向けにわかりやすく書いてもらおうとしたわけですね。
オフィスコンピューター(オフコン)が普及しだした頃だね。当時、この業界ではオフコンについては相当詳しいと自負していたし、実際オフコンについてずいぶんと書いていたから、とてもいいタイミングだった。
実は、連載が始まったとき、私は入院中だったんです。
えっ、そうだったの?
それで職場復帰して、奥田さんの書いた記事を読んだのですが、それが衝撃的でした。「営業マネジャーのためのオフコン入門講座」というタイトルでしたが、こんなにわかりやすい記事は今までにないと思いましたね。
たとえば「OSは頭脳、アプリケーションは手足」というように、人の身体にたとえてやさしく説明する。それまで私は、コンピューターは理系の人しか理解できないと思い込んでいたので、この人はすごいと。
ずいぶん褒めてくれるじゃない。「衝撃的だった」という発言の活字を大きく目立つようにしてほしいな(笑)。
いやいや、本当のことですよ。それで、そんなことを編集部で話していたら、連載の2回目からはおまえが担当しろと。それが、この腐れ縁の始まりでした(笑)。
創業時は、大塚の三業地にある木造アパートを借りて、自宅兼事務所にしていたけれど、よく訪ねてくれましたね。
当時所属していた編集部は大阪にあったので、月に一度くらいの割合で取材のため東京に出張していました。その際には、必ず奥田さんのところに寄ったんです。情報収集の意味合いもあったけど、初対面のときから妙に気が合ったということもありました。たぶん、奥田さんが生来の「人たらし」だからというのもあると思うけど……。
2人とも昭和24年1月生まれの同級生というのも一つの縁だね。そんなこともあって、編集者と執筆者という関係がなくなった後も、対等の仲間としてのつき合いが続いたのだと思うね。
●「穴をあけるつもりか!」
でも、毎回の原稿のやり取りは、そんなにスムーズというわけではありませんでしたね。
えっ、そうだっけ?
ある号で、締切2日目になっても、いっこうに原稿が届かなかった。当時は、原稿用紙に鉛筆で手書きしたものが郵便で送られてきたのですが、それが来ないので「4ページ、穴をあけるつもりか!」と怒りの電話をしたら、「おたくにはファクスはないのか」と返してきた。
当時、うちにはファクスがあったけど、そちらにはなかったんだよね(笑)。
そう、なかった……。いまの若い人が聞いたら信じられないだろうけど、Eメールとかネットとかデータ通信なんていう概念がない時代だから、本当のメール、つまり郵便に頼るしかなかった。すると、奥田さんが「これから届けに行く」と。
新幹線に乗って、大阪の編集部まで行きました。私は記者としてはギリギリまで粘って、いいものを書こうというタイプだったから、つい締切に遅れてしまったわけです。でも、私も業界紙を出そうという立場だから、定期刊行物の締切の重要性もよくわかる。だから自分で届けるしかないと思ったんだね。
このときは、さすがにかわいそうだったから、ラーメン1杯おごってあげた。
ラーメン1杯おごっただけで、この言い方だもんね(笑)。
そんなこともあったけど、当時、奥田さんたちの仕事がとても輝いて見え、すごく羨ましかったんですよ。
81年に、それまで事務機器新聞にいた田中繁廣さん(後にBCN常務)と日高俊明さんに参加してもらったのだけれど、おそらくその頃の話かな。
そうです。あの頃読んだ椎名誠さんの『哀愁の町に霧が降るのだ』に、男たち4人の共同生活の話が出てくるのですが、その小説と同じように、生き生きと自由に仕事をしているみなさんの姿が、眩しかったんですね。
雑誌編集の仕事も面白かったけれど、出版社とはいえ会社としてはカチッとしているほうだったので、そういう思いを抱いたのかもしれません。
当時のコンピューター業界はまだまだ草創期で、BCNだけでなく、業界全体がマグマのように燃えたぎっていたからね。だから、何事も動きが速く、新たなものがどんどん出てきて、メーカーも小売店も群雄割拠の様相を示していた。その激動する業界にあって、BCNもまた、カオスの中にあった。だから、生き生きと自由に見えたのだろうし、実際、面白かった。
「ゼロイチ」を体現してきた奥田さんのような創業者はすごいと思うけど、業界そのものもまた「ゼロイチ」の世界だったということですね。
そう、大まかに言って80年代までは業界もマグマの時代で、「Windows 95」あたりから産業として確立していくイメージだよね。
もちろん創業経営者というのは、どの時代、どの業界でも、人並み以上のエネルギーを持つ異質な人間であることは間違いないし、そこには当然軋轢も生じる。事を起こすということはそういうことだと思う。
当時は朝令暮改も当たり前だったし、そうでなければ生き残れなかったかもしれない。
でも、あるときから、BCNも組織をきちんと確立して、社会に認められる存在にならなければいけないと思うようになった。そのキーパーソンの1人が中林さんだったんだよ。
ホント?
ホントですよ。ここでお世辞言っても仕方ないじゃない(笑)。紙面のクオリティを高めるためには、長い経験を持つプロの編集者の存在が不可欠だと思っていたんです。(つづく)
中林さんと奥田が知り合うきっかけとなった営業マネジャー向けの月刊誌。1980年4月号から81年3月号までのたった1年間、たった1本の連載が、40年余のつき合いに発展するのだから、人の縁というものはわからないものだ。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
●木造アパートの一室で生まれた
業界専門紙の奮闘ぶりに立ち会う
わざわざ、木更津の田舎からこの大都会まで出てきてもらってご苦労さま(笑)。
いや、この「千人回峰」で奥田さんと対談するとなれば、どこにでも駆けつけますよ。
それはうれしいね。
われわれが初めて会ってから、もう40年以上経ちますね。
BCN、当時はコンピュータ・ニュース社と言っていたけれど、その創業が1981年8月で、その創業前に中林さんの在籍していた出版社から連載執筆の声がかかったんだよね。
私は営業マネジャー向けの雑誌編集部にいて、当時の編集部の先輩が奥田さんに執筆依頼をしたんです。企業にコンピューターが導入されはじめたものの、営業マンの多くはそれを苦手としていましたから、そうした人向けにわかりやすく書いてもらおうとしたわけですね。
オフィスコンピューター(オフコン)が普及しだした頃だね。当時、この業界ではオフコンについては相当詳しいと自負していたし、実際オフコンについてずいぶんと書いていたから、とてもいいタイミングだった。
実は、連載が始まったとき、私は入院中だったんです。
えっ、そうだったの?
それで職場復帰して、奥田さんの書いた記事を読んだのですが、それが衝撃的でした。「営業マネジャーのためのオフコン入門講座」というタイトルでしたが、こんなにわかりやすい記事は今までにないと思いましたね。
たとえば「OSは頭脳、アプリケーションは手足」というように、人の身体にたとえてやさしく説明する。それまで私は、コンピューターは理系の人しか理解できないと思い込んでいたので、この人はすごいと。
ずいぶん褒めてくれるじゃない。「衝撃的だった」という発言の活字を大きく目立つようにしてほしいな(笑)。
いやいや、本当のことですよ。それで、そんなことを編集部で話していたら、連載の2回目からはおまえが担当しろと。それが、この腐れ縁の始まりでした(笑)。
創業時は、大塚の三業地にある木造アパートを借りて、自宅兼事務所にしていたけれど、よく訪ねてくれましたね。
当時所属していた編集部は大阪にあったので、月に一度くらいの割合で取材のため東京に出張していました。その際には、必ず奥田さんのところに寄ったんです。情報収集の意味合いもあったけど、初対面のときから妙に気が合ったということもありました。たぶん、奥田さんが生来の「人たらし」だからというのもあると思うけど……。
2人とも昭和24年1月生まれの同級生というのも一つの縁だね。そんなこともあって、編集者と執筆者という関係がなくなった後も、対等の仲間としてのつき合いが続いたのだと思うね。
●「穴をあけるつもりか!」
原稿締切をめぐる丁々発止
でも、毎回の原稿のやり取りは、そんなにスムーズというわけではありませんでしたね。
えっ、そうだっけ?
ある号で、締切2日目になっても、いっこうに原稿が届かなかった。当時は、原稿用紙に鉛筆で手書きしたものが郵便で送られてきたのですが、それが来ないので「4ページ、穴をあけるつもりか!」と怒りの電話をしたら、「おたくにはファクスはないのか」と返してきた。
当時、うちにはファクスがあったけど、そちらにはなかったんだよね(笑)。
そう、なかった……。いまの若い人が聞いたら信じられないだろうけど、Eメールとかネットとかデータ通信なんていう概念がない時代だから、本当のメール、つまり郵便に頼るしかなかった。すると、奥田さんが「これから届けに行く」と。
新幹線に乗って、大阪の編集部まで行きました。私は記者としてはギリギリまで粘って、いいものを書こうというタイプだったから、つい締切に遅れてしまったわけです。でも、私も業界紙を出そうという立場だから、定期刊行物の締切の重要性もよくわかる。だから自分で届けるしかないと思ったんだね。
このときは、さすがにかわいそうだったから、ラーメン1杯おごってあげた。
ラーメン1杯おごっただけで、この言い方だもんね(笑)。
そんなこともあったけど、当時、奥田さんたちの仕事がとても輝いて見え、すごく羨ましかったんですよ。
81年に、それまで事務機器新聞にいた田中繁廣さん(後にBCN常務)と日高俊明さんに参加してもらったのだけれど、おそらくその頃の話かな。
そうです。あの頃読んだ椎名誠さんの『哀愁の町に霧が降るのだ』に、男たち4人の共同生活の話が出てくるのですが、その小説と同じように、生き生きと自由に仕事をしているみなさんの姿が、眩しかったんですね。
雑誌編集の仕事も面白かったけれど、出版社とはいえ会社としてはカチッとしているほうだったので、そういう思いを抱いたのかもしれません。
当時のコンピューター業界はまだまだ草創期で、BCNだけでなく、業界全体がマグマのように燃えたぎっていたからね。だから、何事も動きが速く、新たなものがどんどん出てきて、メーカーも小売店も群雄割拠の様相を示していた。その激動する業界にあって、BCNもまた、カオスの中にあった。だから、生き生きと自由に見えたのだろうし、実際、面白かった。
「ゼロイチ」を体現してきた奥田さんのような創業者はすごいと思うけど、業界そのものもまた「ゼロイチ」の世界だったということですね。
そう、大まかに言って80年代までは業界もマグマの時代で、「Windows 95」あたりから産業として確立していくイメージだよね。
もちろん創業経営者というのは、どの時代、どの業界でも、人並み以上のエネルギーを持つ異質な人間であることは間違いないし、そこには当然軋轢も生じる。事を起こすということはそういうことだと思う。
当時は朝令暮改も当たり前だったし、そうでなければ生き残れなかったかもしれない。
でも、あるときから、BCNも組織をきちんと確立して、社会に認められる存在にならなければいけないと思うようになった。そのキーパーソンの1人が中林さんだったんだよ。
ホント?
ホントですよ。ここでお世辞言っても仕方ないじゃない(笑)。紙面のクオリティを高めるためには、長い経験を持つプロの編集者の存在が不可欠だと思っていたんです。(つづく)
●1年間連載を続けた月刊『オールセールス』
中林さんと奥田が知り合うきっかけとなった営業マネジャー向けの月刊誌。1980年4月号から81年3月号までのたった1年間、たった1本の連載が、40年余のつき合いに発展するのだから、人の縁というものはわからないものだ。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。