エリート街道とは異なる道のりで日本を代表する選手となった原修太

原修太インタビュー後編

 Bリーグを代表するプレーヤーとしての地位を築いてきた原修太(千葉ジェッツ)。昨年は日の丸を背負いパリ五輪出場権を獲得したワールドカップの舞台にも立った。今シーズンは自身の故障などもありシーズン序盤はチームの苦闘も続いたが、年明けから上昇気流をつかみ始め、自身もアジアカップ予選の日本代表に招集された。けっしてエリート街道を歩んでいたわけではない30歳の原に、Bリーグのこと、プロ入り以前のバスケットボールキャリアも含めて聞いた。

【シーズン序盤、危機感しかなかった】

――Bリーグについてお聞きします。今シーズンはケガ人の影響などもあり、なかなか波に乗れていなかったジェッツですが、1月に入って12勝を記録するなど調子を一気に上げてきました。原選手の故障からの復帰も大きいのではないでしょうか。

「今年に入ってアイラ(・ブラウン)のコンディションが目に見えてよくなっていますし、(金近)廉や(小川)麻斗ら若手も試合に慣れてきたこともあるので、一概にそうとは言えないんですけど、僕が戻ってきて逆に負け始めたら嫌だったので(笑)。僕が復帰するまでEASL(東アジアスーパーリーグ)を入れて5連勝していたので、その流れを切らさずに戻ってくることができて、ホッとしています」

――昨シーズンのジェッツはチャンピオンシップ・ファイナルで敗れて準優勝となってしまいましたが、公式戦ではリーグ記録の24連勝、リーグ史上最高勝率(53勝7敗、勝率88.3%)を記録し、総じてすばらしい1年となりました。今シーズンは一転、開幕からの数カ月は苦しんできました。それでも故障者が戻り、練習を重ねることでシーズンの後半には本来の実力を示せると考えていたのでしょうか?

「今シーズンはメンバーがすごく変わりました。あまり比べてしまうのも良くないですけど、昨シーズンは各々、"勝ちのスイッチ"というか、どんな劣勢でも我慢して、我慢して、最後に逆転っていう試合がたくさんあったんですけど、今シーズンは我慢しきれず離されてしまう。逆に20点勝っていても後半で追いつかれて逆転されたりというのがあって......だからもう、危機感しかなかったですね。

 自分も(足首の手術から)復帰してプレーできてはいたんですけど、11月下旬には骨折(左第4中手骨)して戦線離脱とチームにちゃんと貢献できているわけではなかった。コンディションも含めて、自分の中では歯がゆいというか、余裕はなかったです」

【直感でプロ入りを決断】

――Bリーグとなってから8年目(プロとして9年目)のシーズンですが、ここ数年は選手の移籍もかなり活発になっています。そのなかで原選手は出身が船橋で、しかもジェッツの本拠地・船橋アリーナの近くの中学校に通い、高校も千葉県内。そしてプロとなってもジェッツひと筋。そういう選手はリーグを見渡してもいないのではないでしょうか。

「最初に千葉(ジェッツ)を選んだ理由は、『地元だから』という軽い気持ちだったんですけど、8年間ここでやってきて愛着もありますし、地元の友だちもよく来てくれます。

 来シーズンからは(本拠地が新アリーナに)変わってしまいますが、船橋アリーナは幼い頃、親がバスケをしに行く時について行って遊んだ場所です。本当にもろ地元なので、ちょっと寂しいですけど、変わらず船橋のチームではあるので」

――原選手はBリーグが始まる前のNBL時代からジェッツでプレーしていますが、入団した当初はBリーグがここまで発展するとは考えていましたか?

「僕、入団する前に『プロバスケはどうなのか』といった趣旨の取材を、当時同じ大学生だった岡本飛竜(現・アルバルク東京)と加藤寿一(現・ライジングゼファー福岡)の3人で受けたことがありました。その当時は、プロに行くなら関東実業団に行ったほうが将来安定するという考え方が主流だったので、そのような内容の答えをした記憶があります(笑)。ですから、今こうやってみんなが当たり前のようにBリーグに挑戦する状況は、考えられなかったです。

 最初に千葉に入った時の年俸も、"よく(プロに)行ったな、俺"って思うくらい低かったので、めちゃくちゃ悩みました(苦笑)。正直、NBDL(NBLの下部リーグ)のチームで世間的に評価されている企業母体チームからの話も来ていたので」

――社員選手ということですか?

「そうです。親に話したら『そこは、いい会社だよ。そっちにすれば』みたいなことも言われていたので、ほぼそっちにしようかなと思っていましたが、最終的には直感で千葉に入りました。

 ただ、今現在のBリーグの状態を知らないとして、もう少し社会を知っていたとして当時にタイムスリップしたら、たぶん、こっち(プロ)に来なかったと思うくらいの感覚です。僕の大学(国士舘大)は1部校ではあったんですけど、そんなトップ選手ではなかったですし、4年生の時は学生の代表にも入らなかったので。いやあ、よくここまで来たなって思いますね」

【バスケは高校でやめようと思っていた】

――エリート街道を歩いてきたわけではないなかでプロ選手となり、ジェッツでは優勝、そして日本代表にも選ばれる選手となりましたが、これまでのキャリアでの大きな転機にはどのようなものがありますか?

「いくつかあります。まず、高校を決める時です。千葉県内の強い高校から話は来てはいたのですが、練習がきついのが嫌で(苦笑)。ちょうど進路を決める時におじいちゃんが亡くなってしまったのですが、そのおじいちゃんの麻雀仲間が前に市立習志野高校の監督をしていた人で、その人が請われてまた監督として戻ってくるタイミングでもあったんです。

 僕のおじいちゃんも習志野高に足を運んでいたようで、お葬式の時には卒業生の方含めて結構来ていただいたんですね。その印象で『習志野、行ってみるか』みたいな(笑)。だから、1度も練習も見ずに習志野高に入ったんです」

――成り行きに身を任せて、ですね。

「高校では県でベスト16とか32が最高だったと思いますが、バスケはそこでやめようと思っていたんです。結構、周りの意見に呑まれるタイプだったので、卒業後に柔道整復師やトレーナーの道に進む友人が多かったこともあって、僕もそういう方向へ行こうかなと考えていたら、高校最後の試合で、相手チームの監督から『バスケを続けたほうがいいよ。でも2部か3部の学校にしたほうがいい』と言われて、2部の大学を調べました。

 いろんな大学が高校に学校説明会で来てくれたんですけど、ちょうど体育館の入り口に国士舘の方がいて。『そういえば2部の大学だな』と。で、指定校推薦で行く道があったので、国士舘に決めたんです。

 それから国士舘の試合を見に行って監督さんに挨拶に行くと、『普通にやっていれば4年生でAチームに上げてあげるから最初はBチームで』と言われて。でも『まあ別にいいか』と。そこも転機ですね(笑)」

――プロ選手になるような道を辿ってきたわけではないですね(笑)。

「当時、福岡第一高校の試合を見に行ったことはありましたが、全中でトップレベルの活躍をしていた同級生の富樫勇樹すら当時は知らなかったほどです。それくらいバスケ(の情勢)に興味がなかった。大学に入ってやっといろんな人のことを知り始めました。比江島(慎/現・宇都宮ブレックス)さんとかも、大学の最後のインカレで見て『この人、うめえ』って思いながら知ったくらいで」


原修太は、自分らしくいられる環境で成長を続けてきた

【千葉で40歳まで】

――2020年に潰瘍性大腸炎に罹患していたことを公表されました(2018年に診断を受け入院。現在は寛解)。改めて、病気になったことはキャリアにどのような影響を与えましたか?

「病気に関しても人生の転機で、1カ月間、病院にいて何もできなかったので、バスケができることは当たり前じゃないと思いましたし、その時のことを考えたらどんなこともつらくないなと。今も、ちょっと落ち込んだりすることはあるかもしれないですけど、病気の前と比べて絶対的にポジティブになりました。

 社会貢献の大切さは、プロに入ってからフロントスタッフの方から言われてはいたのに、行動に移せていなかったのですが、自分が病気になって同じ病気の人や、入院しながら長期療養していける子どもたちのための社会貢献という形で行動に移すことができるようになりました」

――潰瘍性大腸炎は国が定めた難病指定ですが、啓蒙しようと考えたのは世の中にこの病気のことを知ってもらおうという気持ちがあったからですか?

「そうです。僕が病気を患った時に、調べたらオリックス(バファローズ)の安達了一選手が潰瘍性大腸炎にかかっていて、それで勇気をもらえたので、いずれ僕も同じようにほかの人に勇気を与えたいと思っています。

――現在、30歳ですが、今後のキャリアについてはどのように青写真を描いていますか?

「千葉(ジェッツ)で長く、目標は40歳まで戦力としてプレーできたら幸せだなと思っています。今、西村文男選手や荒尾岳選手を見ていて、ふたりとも出場時間が短くても、出ている時間帯は明らかに戦力となっているのが、めちゃくちゃかっこいいなと思っているんです。僕は今、25分とか30分出ていますけど、それが減ってきたとしても『この時間帯は原が必要だ』と思ってもらえるような選手でいたいですし、40歳までそうあり続けたいと思っています。

 まだ慣れていませんけど、オフコートでも、ベテランらしく後輩を指導したり、そういう立場としてやっていきたいです」

――「千葉で」40歳まで、なんですね。

「希望は(笑)。ちゃんと評価していただいているので、地元ですし、千葉に残りたい気持ちはあります。ただ、未来のことは分かりませんので日々、頑張るだけです」

――目下のところは今シーズンの残りをどう戦うかですよね。

「Bリーグ優勝はまだ1回。特に昨シーズンは公式戦で史上最高勝率を上げて、自信はあったのに、もちろん(チャンピオンシップ・ファイナルで対戦した)琉球さんは強かったんですけど、敗れた。今シーズンは序盤で苦労した分、まずは上位8チームに入ってちゃんとチャンピオンシップに出場して、そこから快進撃をして、優勝したいと思っています」

【Profile】原修太(はら・しゅうた)/1993年12月17日生まれ、千葉県出身。市立習志野高→国士舘大→千葉ジェッツ。身長187cm、体重97kg。高校までは全国大会で目立った活躍はなかったが、大学入学後から徐々に才能を開花しシューターとして活躍。大学卒業後に当時、NBLの千葉ジェッツに入団すると、プロ2年目、Bリーグ開幕の2016-17シーズンから徐々に出場機会を増やし、3年目からはチームの主力に定着。これまでBリーグ優勝1回、天皇杯優勝4回を経験。2022-23シーズンはリーグのベストディフェンダー賞、ベスト5にも選出され、2023年夏のワールドカップでは日本代表としてパリ五輪出場権獲得に貢献した。愛称は「ハラーニ」。