代理店勤務・27歳の彼氏に疑惑の影。単なる「友達」と聞いていたのに、実は相手は…
◆これまでのあらすじ
遥香(27歳)は、時間にルーズでデートに毎回遅刻する。その待ち時間、恋人の拓司は、友人の勧めで読書をするようになった。次第に本の難易度が上がり、距離を感じ始めた遥香は、読書をやめるように伝える。すると拓司はジムでトレーニングを開始。遥香は焦りを感じ…。
▶前回:デートに毎回1時間以上遅刻する、27歳・金融OL。彼との関係に、ある不穏な兆しが…
時間の軸【後編】
「ごめ〜ん、拓司。遅れちゃった」
遥香は、待ち合わせ場所であるカフェの店内に入る。
しかし、拓司はテーブルの上をボーッと見つめたまま、すぐに返事をしない。
― あれ?怒ってる?
最近は遥香も、遅刻を改善しようと意識し始め、以前よりはマシになっている。
それでも今日も、待ち合わせの時刻から40分遅刻。
さすがに拓司も堪忍袋の緒が切れたのかと焦ったが、すぐに顔を上げて慌てた表情を浮かべた。
「あ、ごめん遥香!音楽を聴いててさ」
拓司は、耳からワイヤレスイヤホンを外した。
「なんだ。何を聴いてたの?」
遥香は、拓司の向かいの席に腰を下ろす。
「うん。ちょっとクラシックを…」
「クラシック!?そんなの好きだったっけ?」
今まで音楽を聴くにしても、流行りのものにしか興味を示していなかったため、驚いた。
「最近聴き始めたんだよ。ほら、前に話してた友だちに勧められてさ」
「ええ…。また…?」
学生時代から付き合いがあるというその友人は、最近、拓司との会話によく登場する。
時間を無駄にしないようにと、拓司に読書を勧め、スポーツジムでのトレーニングを勧めた人物である。
勧めに従い、素直に趣味の範囲を広げている拓司の姿を見て、遥香はどこか置いていかれているような気分になっていた。
「来週末、そいつの出るコンサートがあるんだけど。遥香、一緒に行かない?」
「コンサート?その人、音楽やってる人なの?」
「そう。フルート奏者なんだ」
拓司はスマートフォンで、その人物の所属するオーケストラのホームページを開いて見せた。
拓司が、ホームページに掲載された楽団員の紹介ページをスクロールしていく。
「あ、これこれ。こいつ」
前髪をセンターでピシッと分け、切れ長の目をした意志の強そうな女性を指さした。
「え、ちょっと待って。友だちって…女性だったの?」
「あれ、言ってなかったっけ?高校からの付き合いでさ。腐れ縁みたいなもんだよ」
「元カノ…とかじゃないよね?」
遥香が疑うような視線を向けると、「ないない!」と拓司が笑いながら答えた。
「だって、俺に超厳しいんだよ。『あんたみたいなのんびりした適当な奴は大嫌い』って、よく言われてるし」
遥香には、女性があえて「大嫌い」という表現を使っているようにも感じられ、疑念が残った。
「まあ、なんでもハッキリ言ってくれる人って少ないから。ありがたい存在ではあるけどさ」
拓司の口調から、女性とのあいだに信頼関係が築かれているのが窺い知れた。
◆
コンサート終了後、遥香は拓司に連れられて、会場から少し歩いた場所にある虎ノ門駅近くのレストランに入った。
「その人、本当に来るの?コンサート終わったばっかりじゃん」
遥香が訝しむように尋ねる。
拓司の友人のフルート奏者が、「合流したい」と言っているとのことだったが、遥香としては快く受け入れられなかった。
「うん、20時に来るって言ってた。でも、次の予定もあるらしくて1時間しかいられないみたい」
そのとき入り口のドアが開き、楽器のケースを持った女性が入ってきた。
拓司が手をあげて、「おう」と呼びかける。
「すげえ。20時ピッタリだ」
「でしょ。私は時間には厳しいの」
女性が、テーブルを挟んで遥香の向かいに立った。
「初めまして。拓司の高校からの友人の、矢沢千尋です」
背が高く、スッと背筋が伸び、聡明な印象を受ける女性だった。
どこか自信をみなぎらせた様子に、遥香は圧倒されながらも挨拶を返した。
「どうだった?こういうコンサートなんてあまり来ないでしょう?」
千尋は拓司の隣に腰をおろし、感想を求める。
「うん、感動したよ!あらかじめ予習をしてたのが良かったのかも」
拓司が以前にイヤホンで聴いていた曲が演奏されたようだった。
「遥香さんは?どうだった?」
「あ、はい。私も、とても胸に響きました」
「そう。良かった」
しばらく、食事をしながら会話が交わされた。
コンサートの内容に関するものから、拓司と千尋の高校時代のエピソードなどが語られる。
和やかな雰囲気だったものの、やはり遥香は口を挟むのがためらわれ、居心地の悪さを感じていた。
― ああ、早く帰らないかな…。
千尋に感じる疎ましさを表に出さないよう、遥香は気をつけながら会話に加わった。
そこで、拓司が立ち上がった。
「ごめん。仕事の電話がかかってきちゃった…」
スマートフォンを片手に持ち、店の外を指さしてドアのほうに向かっていった。
千尋と2人きりになる。
妙な緊張感が走り、体が強張る。
何か話そうと話題を探すうちに、千尋が先に口を開いた。
「遥香さんさぁ。今日、遅刻してきたでしょう」
「ええ…?」
実は遥香は、今日もいつも通り待ち合わせ時間に遅れ、開演から30分遅れて拓司と合流していた。
「席は、私が用意してるから。丸見えなのよ」
― そうか。バレてたんだ…。
先ほど感想を聞かれ、「胸に響いた」と答えてしまっただけに、気まずくて仕方がない。
「遥香さん。拓司からも聞いてるけど、ちょっと時間にルーズ過ぎない?」
「はい…」
「いい機会だから言っちゃうけど。あまり拓司の時間を無駄にしないでほしいの」
遥香は自分に非があることを重々承知しているため、千尋の言葉を黙って聞くよりほかなかった。
「拓司。穏やかでのんびりしているように見えるけど、とっても優秀よ。それはわかるでしょう?」
拓司は機転が利くし、理解力も優れている。それは遥香も認識していた。
「拓司はもっと上を目指すべき人よ。彼は優しいから、あなたのルーズさに付き合ってあげてるけど、それは彼にとってマイナスでしかないの。彼とあなたとでは、時間の価値が違うのよ」
千尋の言葉が、遥香の胸に重くのしかかる。
「だから、すぐにとは言わないけど。しばらくしたら、拓司から身を引いてちょうだい」
「でも私…。拓司とは性格も合うし、相性もいいし…」
遥香がようやく反論するも、千尋が嘲笑うかのようにフッと吹き出す。
「それだけ?私たち、もう子どもじゃないのよ」
「そうだけど…。私と別れたからって、あなたと一緒になるかどうかなんて、わからないよ」
すぐさま千尋が、「わかるわ」と返す。
「…現に彼は、私が勧めたものを受け入れて、取り組んでいるでしょう。彼が必要なものを、私はわかっているの。そしていずれ、彼は私を必要とする」
千尋が言うように、拓司は読書やトレーニング、音楽など趣味の範囲を広げ、知性を磨き、人間として成長を遂げていた。
少しずつ、拓司との距離を感じ始めていただけに、遥香は何も言い返すことができなかった。
「いやぁ、ごめん!ちょっと話が長くなっちゃって」
拓司が電話から戻ってきた。
遥香と千尋のあいだに漂う、不穏な空気を察する様子もなく、陽気に会話を始める。
千尋も、何事もなかったかのように会話に加わった。
遥香も、複雑な心境を悟られないようそれについていく。
偽りではあるものの、和やかな雰囲気に包まれる。
そして、千尋は宣言通り、到着してから1時間キッカリで帰っていった。
◆
遥香は気分がすぐれないこともあり、千尋が帰ってからさほど時間を置かず、拓司とも解散した。
タクシーを拾って自宅に向かっていたが、すぐに帰宅する気にはなれなかったため、途中で降りて夜風を浴びる。
千尋とのやり取りを振り返りつつ、ぼんやりと歩いていると、スマートフォンの着信に気づく。
母親の真澄からの電話だった。
『あ、遥香?何回かLINE送ったのよ』
「ママ、ごめん。気づかなかった。どうしたの?」
『メープル、死んじゃったの…』
「ええ…」
愛犬の死を伝えられ、遥香は声を詰まらせた。
小学6年生から飼い始めたシニア犬で、すでに病気がちだっただけに、いつそのときが来てもおかしくないと覚悟はしていたが、ショックは大きかった。
「わかった。すぐ帰るから」
電話を切ったところで、ふと、千尋に言われた言葉が脳裏によみがえった。
「時間の価値が違う」
遥香は、自分がメープルと同じように15年しか生きられないとしたら、どうだろうかと想像した。
― 今と同じようにルーズに過ごすかな…。
人に限らず、生きるものすべてに時間は与えられているが、平等ではない。
故に、それぞれに時間の価値が違う。
遥香としては、拓司と自分の時間に、どれほどの価値の差があるかはわからない。
ただ、自分の都合により拓司に時間を無駄使いさせてしまったことは事実であり、深く反省した。
◆
1年後。
拓司とは、千尋との件があってから1ヶ月ほどで別れていた。
千尋に指摘されたように、自分は拓司に相応しい相手ではないかもしれないという思いが大きくなり、多少未練はあったものの遥香からさよならをしたのだ。
そして、遥香にはすでに新しい年下の恋人もできていた。
今日も、カフェで待ち合わせをしているが…。
「ごめ〜ん、翔くん。遅くなっちゃった〜」
結局、遥香の時間のルーズさは改善されず、今日もまた待ち合わせ時刻から1時間ほど遅れていた。
「ううん。これやってるから大丈夫」
翔の手には、小型のゲーム機が握られている。
「遥香ちゃんがこれ買ってくれたおかげで、待つのも全然苦じゃないよ」
遥香には、拓司のときと同じ轍は踏みたくないという思いがあった。つまり、待ち時間に知性を磨かれたり、体を鍛えたりされては困る。
社会的ステータスが上がり、遠くに行かれてしまう可能性があるからだ。
だから翔には、ゲーム機を買い与えた。
― これなら、いくら夢中になっても、知性もステータスも上がる見込みはないよね。
「遥香ちゃん。見て見て、このスコア。世界のトップ10に入ってるんだよ」
遥香はゲーム機を覗くが、事情に詳しくないため「すごいね」とだけ返事をする。
「でしょ?でさ、俺ひとつ夢ができたんだ」
「夢?」
「俺、もっとゲームの腕を磨いて、eスポーツの世界大会を目指す」
「ええ…?世界…?」
「うん。今までフラフラ生きてたけど、夢に向かって努力する。こうやって目標ができたのも、遥香ちゃんのおかげだよ。ありがとう」
― また遠くに行かれてしまうの…?
思惑が外れた上に、礼まで言われてしまった。
遥香はエールを送りつつも、世の中うまくいかないものだと、首をかしげるのだった。
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