『始めるのはカンタン、でも終わるのは難しい――』

男女関係でよく言われるこのフレーズ。

でも…あなたは知っているだろうか。

この言葉が、“マンション売却”にも当てはまるということを。

悠々自適の東京独身生活を謳歌するために購入した“ひとりで住む家”。

それを“清算”して、“ふたりで棲む家 ”に移るのは、意外と難しい。

これは、東京でマンション売却に奔走する38歳女のストーリー。

◆これまでのあらすじ
真弓(38)は、浜松町のヴィンテージマンションに一人で暮らしている。婚約破棄の過去を経て、「生涯独身」も覚悟の上で手に入れたお気に入りの自宅。しかし、友人の紹介で出会った40歳の雄介とイイ雰囲気になり…。

▶前回:「一生独身だし」36歳女が7,000万の家を買ったら…




Vol.2 女38歳、思わぬ人生の転機


クリスマス目前の12月、土曜の夜。

私が雄介に誘われた店は、誰もが知る銀座の正統派グランメゾン、『ロオジエ』。

いつか行ってみたいと思っていたから、素直に嬉しい。

だから少し気合いを入れて、TADASHI SHOJIのブラックのワンピースに、Roger Vivierのパンプスを合わせた。

店内のウェイティングスペースで合流した雄介も、いつになくかっちりとしたジャケット姿だ。

「…なんか、ヘンな感じだね」

「本当。いつもパーカーにジーンズで、竹芝でお茶してるもんね」

先週、店のリンクが送られてきた時点で、なんとなく“予感”はしていた。いざ会ってみて雄介と目を合わせると、それはほとんど確信に変わる。

― もし告白されたら…とりあえず、付き合ってみてもいいかも。

この2年間、自分だけの心地よい暮らしを築き上げてきた。そこに第三者を招き入れることへの不安はある。

けれど、あまり深く考えなくてよいのかもしれない。

― いきなり結婚するというわけでもないし。

日常の中に“恋人”という存在が加わるだけ。素敵なことではないか。ダイニングホールへと続く螺旋階段の前に立つまでに、私は頭の中をそう整理する。

なにせ夜はまだ始まったばかり。

まずは憧れのフレンチに舌鼓を打ち、相手の出方を窺おう。昔は結婚に焦っていたが、今はそんな気もない。オトナの余裕で、この時間を楽しめばよいのだ――。

ウエイターに案内され、真っ白なクロスのかかったテーブルに向かい合って座った。

ほどなくしてコースが始まり、食前酒を一口飲んだ瞬間、彼と目が合う。

「真弓さん」

「はい」

「もう色々察してるだろうから、単刀直入に言うね。結婚を前提に、僕とお付き合いしてくれませんか」

― 早いな。

思わず口に出そうになったのを、なんとかこらえる。


「前にも話したけど、僕、バツイチで。結婚なんてもういいかなと思ってたけど、真弓さんに出会って考えが変わったんだ。こんなに一緒にいて居心地が良くて、信頼できる女性はいないって」

「ほ、本当?ありがとう…」

― 結婚、かぁ。

イヤな気持ちはしない。

雄介の真摯な気持ちが伝わってきたからだろうか。はたまた、北海道から仕入れたという毛蟹と白ワインのマリアージュに、早くも酔い始めているからだろうか。

とはいえ、自分の人生に関わる大事なことだ。私はなんとか冷静に、頭を働かせようと努める。

― “結婚を前提に”ってことは、家庭を持ちたい、つまり子どもが欲しいってことなのかな…。




DINKSの友人は多い。彼らの結婚生活の実態を聞けば、ほとんど恋人の延長のようなものだ。

平日は仕事に精を出し、週末はプライベートを満喫する。資産を一緒に管理している夫婦もいるが、今どきほとんどのカップルが、夫婦別財布制を採用している。

そう考えると、苗字が変わること以外に明確に“恋人”と“夫婦”の関係を分けるものはないように思えてくる。

けれど、そこに“出産・育児”というイベントが入ってくると話はまた別だ。

― 彼が子どもを望んでいるなら、このプロポーズは安易に受けるべきじゃないかな…。

黙っている私を心配してか、雄介は申し訳なさそうに眉を下げる。

「ごめん。いきなり結婚前提って言われても、ビックリするよね」

「ううん。私も雄介さんと一緒にいて楽しいから、気持ちはすごく嬉しいんだけど…『どんな生活になるんだろう』って考えてた。ほら、お互いに年齢もあるし…」

私の言葉から何かを察したのか、雄介は表情を引き締める。

「僕は、ただ『この人と一緒に年齢を重ねていけたら楽しそうだな』って思ったんだよ。子どもとか、親の面倒とか…そういうことは関係ないから、安心して。

真弓さんが望むこの先の人生に、僕が一緒にいてもいいなら、前向きに考えてくれると嬉しいな」

その言葉は、私の中でとても優しく響く。

― こんなふうに言ってくれる人は、もうこの先の人生で現れないかもしれない。

直感的にそう感じた。

「わかった。ありがとう…私でよければ、よろしくお願いします」

そう伝えると、雄介は一気に顔をほころばせる。「本当に?本当に?ありがとう!」と声を上げ、感極まったように天を仰いだ。その様子に、私の中でも自然に愛おしさがこみあげてくる。

― でも結婚したら…私のマンション、どうすればいいんだろう。

頭の片隅にうっすらと疑問を残しつつ。

こうして、雄介との交際がスタートした。




彼との交際は順調なものだった。「特に問題が起きなければ、1年以内には入籍しよう」と約束し、はじめの半年間は、お互いの家を行き来して過ごした。

予想にたがわず、付き合ってみても雄介は温厚で接しやすい。はじめは、自分の築き上げた暮らしの中に彼が入ってくることに不安があったものの、結果的にそれは杞憂に終わった。

彼は十分に成熟した大人で、過度な干渉はしてこない。

良い意味で“テキトー”な人だ。交際2,3ヶ月が経ち、お互いの生活リズムを把握し合うと、何も言わなくても分かり合える部分が増えてきた。

― この人となら、ずっと心地よく暮らしていけそう。

そんな実感が深まってきた交際6ヶ月頃、正式にプロポーズされた。

さっそく互いの実家への挨拶を済ませ、カルティエでエンゲージとマリッジリングを選び、入籍の日取りも決める。

いよいよ結婚する実感が湧いてきた。

ただ――1つだけ、彼にまだ“伝えられていないこと”があった。




「真弓、俺のこのキャリーケース、一緒にクローゼットに入れてもいい?そんなにかさばらないから」

「いいよ。どうせまだたくさんスペースあるし」

入籍を目前に控えた休日。雄介が家に来た。

最近彼は、少しずつ荷物を運びこんでいる。1LDKであるものの、65平米のメゾネットは2人で住むにも十分な広さだから、雄介の賃貸を引き払って、ひとまず私の家に一緒に住もうと決めたのだ。

ひとまず、住宅ローンと水光熱費用は私が支払い、生活コストは雄介が負担することに決めた。

お互いに1人暮らししていた時よりも負担コストは下がるので、不満はない。

作業を済ませ、リビングで一緒にコーヒーを飲む。もう夕方で日は落ちかけているが、大きな窓のおかげで、電気をつけずとも部屋はまだ明るい。

私は、この数ヶ月間考えてきた“あること”を伝えようと決めた。「あのね、雄介」と話を切り出す。

「実はね、色々と心境が変わって…『子どもが欲しい』って思うようになってきたの」

雄介は驚いた顔で私を見つめた。

彼が驚くのも当然だと思う。今までそんなことを口にしたことはなかった。夜遅くまで働き、時には週末さえ仕事を持ち込んでいる私を見て、彼はむしろ“子どものいない人生”の方を想像していたはずだ。

自分自身、こうなることは予想していなかった。でも、雄介との時間を重ね、結婚生活への想像がふくらむにつれて、「子どもを持つのもいいかも」と思うようになったのだ。

はじめはとても軽い気持ちでそう思ったはずだった。

しかし、妊活にかかわる情報を集めたり、子どもがいる友人に会ったりするうちに、その思いは徐々に強くなっていった。




― どう受け止めたかな。『真弓さんの望む人生に一緒にいられたら』ってはじめは言ってくれてたけど…。

恐る恐る、彼の反応を待つ。雄介はしばらく黙っていたが、やがて「そっか」とつぶやいた。

「正直、ちょっと意外だった。真弓は自分だけの人生を生きたい人だと思ってたから。でも同時に、真弓が『子どもが欲しい』って言ってくれて、なんか嬉しい気もする。もちろん俺は真弓と2人でもいいけど、やれることはやってみようか」

雄介の話しぶりから、慎重に言葉を選ぶような雰囲気を感じた。もうすぐ私は39歳、雄介は41歳になる。その現実を踏まえての反応なのだろう。

「そう言ってくれて、ありがとう」

長い間考えていたことを伝えられてホッとした。

結果的に、子どもを授かれるかどうかはわからない。

けれど、雄介が私の想いを受け入れてくれたことだけで十分だ。




3ヶ月後


無事に入籍して、本格的に一緒に暮らし始めて2ヶ月が経った。

妊活のために、さっそく動き始めている。健診と、不妊治療そのものの情報収集のために、レディースクリニックの予約をしたところだ。

そのうえで…私にはまだ、悩んでいることがある。

「真弓、またネットで物件見てるの?」

ある日曜日。ソファでスマホを見ていた私の手元を、雄介が覗き込む。

「とりあえず落ち着くまではこの家で暮らしていいと思うけどな。いずれにしろ売却するか貸しに出すかしないと、すぐには引っ越せないでしょ」

「うん、わかってるんだけどね…」

雄介の正論に、ゴニョゴニョと言いよどむ。

実は、子どもを持ちたいと思い始めてから、この家に暮らし続ける将来が見えづらくなっていた。

メゾネットの螺旋階段はオシャレで自慢だが、大きなお腹で上り下りするのは大変だ。子どもが生まれた後も、歩き始めたら階段から落ちるリスクがある。

寝室が1つしかないのも心配だった。友人の話を聞くと、夜泣き対応のために夫婦交代で寝ているとか、夫が遅くに帰ってくると子どもが起きるので、母子用と父用で寝室を分けていると聞く。今の間取りでは、そんな柔軟な対応はできない。

「まだ妊娠するかどうかもわからないんだしさ、子どもができてから考えてもいいんじゃない?」

“妊娠するかどうかもわからない”――彼の言う通りなのだが、現実を突き付けられたようで、言葉が胸にグサリと突き刺さる。

「真弓は心配性なんだよ。どうにかなるって。それより、体にストレスをかけない方がいいよ」

「そうだよね…」

雄介の言うことは正しいし、決して突き放されているわけではないとも思っている。

だから納得もしているはずなのだけど…。

私は、自分の中で膨らむモヤモヤをどうにも消化できずにいる。

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自宅のことを考えて悩む真弓は、ある人物に相談をする。