並みはずれた記憶力!『古事記』の編さんに関わった稗田阿礼(ひえだのあれ)とは?

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古代に生きた人物で、優れた能力を持つ人と言えば、聖徳太子(しょうとくたいし)を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?本当かどうかはともかく、聖徳太子が複数人の人の話を同時に聞いて聞き分け、理解することができたというエピソードはとても有名ですよね。

しかし、古代には他にも優れた人物がいました。それが、今回の記事でご紹介する稗田阿礼(ひえだのあれ)という人。謎多き人物ではありますが、できるだけ詳細に迫ってみたいと思います!

稗田阿礼(ひえだのあれ)とは?

稗田阿礼(ひえだのあれ)は、古代、飛鳥時代から奈良時代(7〜8世紀ごろ)にかけて生きたとされる下級役人です。詳しい生没年はわかっていません。稗田阿礼に関する資料はほとんど残っておらず、謎多き人物でもあります。

ちなみに、具体的な職業名は「舎人ラ(とねり)」であり、朝廷で働く平社員のような立場です。朝廷で働くと聞くと、華やかに思えますが、当時の舎人は生活レベルも高くはなかったといいます。

『古事記』の編さんに携わる

詳しいことがわかっていない稗田阿礼ですが、『古事記』の編さん者の一人と言われています。聡明で記憶力が並みはずれて良かった彼は、28歳のときに、その記憶力を買われてて『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられたといいます。

彼は、一度聞いたことは忘れなかったと言います。また、難しい漢字も見ればすぐに読むことができたと言われています。

なお、天武天皇が没したため『帝紀』『旧辞』の作業は完成しませんでしたが、後の711年(和銅4)元明天皇が太安麻呂(おおのやすまろ)に命じて阿礼の誦習の成果を筆記させ、翌年に『古事記』として完成させました。

稗田阿礼には女性説も存在

ちなみに、稗田阿礼は実は女性だったのではないかという説もあります。その理由としては、阿礼という名が男性らしくないというものや、「アレ」は巫女の呼称であるというものなどがあります。

しかし、江戸時代に『古事記伝』を著した本居宣長は「舎人」が男性の職業であることなどを理由に、男性説を唱えています。

稗田阿礼ゆかりの地

謎多き人物ではありますが、稗田阿礼ゆかりの地もあります。奈良県の大和郡山市稗田の売太神社(めたじんじゃ)は稗田阿礼をまつっています。毎年夏には阿礼祭りが行われています。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。