かつて富士山のふもと、山梨から静岡までをつなぐ鉄道が走っていました。鉄道と言っても、馬がレール上の客車を牽引する「馬車鉄道」でした。いつ、なぜ消えてしまったのでしょうか。

須走から峠を越えて富士吉田へ

 かつて富士山のふもと、山梨から静岡までをつなぐ鉄道が走っていました。鉄道と言っても、馬がレール上の客車を牽引する「馬車鉄道」でした。


大月と富士山麓をむすぶ富士急行線(画像:写真AC)。

 馬車鉄道といえば、「東京最初の市内交通」として誕生した「東京馬車鉄道」が有名です。実はそれ以外にも、街道上を走る都市間輸送、地方都市の市街軌道から鉱山鉄道まで、日本各地に様々な馬車鉄道が存在していました。

 今回ご紹介するのは、大月と御殿場を結んだ3つの馬車鉄道です。大月〜小沼(現在の三つ峠)間を結んだ富士馬車鉄道、小沼〜籠坂峠を結んだ都留馬車鉄道、籠坂峠から御殿場を結んだ御殿場馬車鉄道の3事業者がありました。

 このうち大月〜上吉田間は現在の富士急行線(富士山麓電気鉄道)に引き継がれますが、そこから籠坂峠を越えて御殿場に出るルートは、今は存在しません。馬車鉄道から蒸気鉄道、電気軌道に発展した路線も少なくない中、このルートが歴史の中に消えていったのはなぜだったのでしょうか。

 この地域の鉄道構想は1889(明治22)年2月の東海道本線開業から始まります。1934(昭和9)年に丹那トンネルが開通するまで、現在の御殿場線が「東海道本線」の一部を構成していました。

 御殿場の有力者は、東京と山梨・長野を結ぶ「中央線」計画の起点を御殿場駅に置くよう求めました。「御殿場経由案」は構想段階で存在しており、実現すれば特急「あずさ・かいじ」も東京〜小田原〜御殿場〜甲府というルートだったかもしれません。結局1892(明治26)年2月に、中央線の起点は甲武鉄道八王子駅に決定します。

 これを受け、鉄道幹線を誘致できなかった北駿地域(御殿場市北西部、駿東郡小山町)の商人、蚕糸業者、旅館経営者などの資産家が中心となり、御殿場市街までをむすぶ独自の簡易鉄道「御殿場馬車鉄道」が計画されました。1897(明治30)年5月、御殿場駅前の新橋(にいはし)から須走(現在の陸上自衛隊富士駐屯地付近)までの特許を得ると、翌年11月に開通しました。

3会社がほぼ同時に鉄道建設

 御殿場馬車鉄道に呼応する形で具体化したのが都留馬車鉄道です。こちらは現在の山梨県富士吉田市の有力者が中心となって、甲州から御坂峠、籠坂峠、足柄峠を越えて東海道に至る中世以来の主要ルート「鎌倉往還」沿いに馬車鉄道を敷設しようという構想でした。

 特許願に「静岡県下の起業になる御殿場・須走間の馬車鉄道につなげることによって、旅行者の便をはかり、貨物運輸の便益を開く」とあるように、富士馬車鉄道と御殿場馬車鉄道に挟まれた都留馬車鉄道は元々、御殿場を志向した計画でした。1898(明治31)年10月に瑞穂村(下吉田)〜籠坂間の特許を取得し、1900(明治33)年9月に開業。続いて1902(明治35)年に瑞穂村〜小沼、籠坂〜静岡県境が特許されました。

 これに呼応して御殿場馬車鉄道も1900(明治33)年6月に須走〜籠坂間の特許を取得し、1902(明治35)年12月に開業しています。

 では「富士馬車鉄道」はどうだったのでしょうか。同社は谷村(やむら)の人々が中心となり、中央線の建設が予定される大月との接続を目的に設立されました。1900(明治33)年3月に大月〜小沼間の特許を得ると、1902(明治35)年10月の中央線大月延伸開業を経て、その翌年1月に大月〜谷村間、8月に谷村〜小沼間を開業させます。

 都留馬車鉄道も1903(明治36)年9月に下吉田〜県境〜籠坂の全線が開業し、両路線は接続を果たして県境越えルートが誕生。これでようやく、大月〜御殿場間は鉄路で結ばれたのです。同年の都留馬車鉄道の広告に「都留馬車鉄道は東北富士馬車鉄道により中央線大月駅に南は御殿場馬車鉄道により東海道鉄道御殿場に連絡する線路なり」とあるように、富士馬車鉄道の設立後は中央線と東海道線(御殿場線)の連絡という役割も与えられることになりました。

 3社は計約54kmの路線を構成していましたが、線路幅が各社バラバラで、御殿場馬車鉄道は762mm、都留馬車鉄道は661mm、富士馬車鉄道は610mm。したがって直通列車の設定はなく、旅客や貨物は各社の接続点で乗り換える必要がありました。

 富士急行が1977(昭和52)年に発行した『富士山麓史』によれば、1907(明治40)年当時の富士馬車鉄道は上り14本、下り15本。運転時刻は6時6分から21時6分で、大月〜小沼間16.9kmの所要時間は上り1時間50分、下り2時間30分でした。馬車は警笛の代わりに「テトーテトー」と響くラッパを鳴らしながら走ったため「テト馬車」と呼ばれて親しまれたといいます。

ビジネスは長続きしなかった

 しかし馬車鉄道は開業早々、時代にそぐわないものになっていました。馬車鉄道が直面した課題は大月側と御殿場側で異なります。中央線と接続した富士馬車鉄道の営業は好調で、明治40年代初頭には年間20万人の旅客を輸送しています。特に富士登山需要は大きく、中央線から下車した大勢の登山客を運び切れないこともしばしばでした。

 いっぽう、都留馬車鉄道と御殿場馬車鉄道は営業不振に苦しみました。籠坂峠を挟んだ上吉田〜須走間に人家はほとんどなく、中央線開通以降、富士登山客は御殿場経由から大月経由が主流となり、鎌倉往還を経由する旅客、貨物需要は大きく減ったのです。

 また鉄道馬車にとって籠坂峠は難所でした。『御殿場市史』によれば、道路に沿って軌道を敷設することができなかったため、最後の区間はなんと「直線状の斜面を、滑車とワイヤで馬車を引き上げていた」という有様だったようです。

 結局、御殿場馬車鉄道は1905(明治38)年9月に解散して一時、個人経営となり、1909(明治42)年に改めて同名の会社が設立されるなど経営が迷走。運行円滑化と経費削減のため1910(明治43)年には籠坂峠から御殿場方面の下り坂となる列車を「人車(人力)」に変更したいと申請しています。

 大正期に入ると、いよいよ時代遅れとなった馬車鉄道はその在り方を変えざるを得ませんでした。まず御殿場馬車鉄道は1918(大正7)年2月に須走〜籠坂峠間、5月には須走〜御殿場上町間を廃止して、「鎌倉往還」の輸送から撤退。御殿場市街地の市内輸送に特化しました。

 御殿場とのつながりが断たれた都留馬車鉄道は、需要の大きい大月方面への輸送に注力します。1919(大正8)年10月に小沼〜上吉田間の軌間変更と電化を申請し、都留電気鉄道に改称。同じく電化を申請した富士電気軌道に合流し、1921(大正10)年7月から大月〜上吉田間で電化運転を開始します。利用の少ない上吉田〜籠坂間は地元有力者に売却し、経営から切り離しました(1927年廃止)。

 さらに大正末頃から乗合自動車(バス)の進出が相次ぎ、旧態依然とした「軌道」は競争力を失います。御殿場馬車鉄道は1928(昭和3)年に残る区間も廃止。富士電気軌道も1927(昭和2)年、富士山北麓地域開発を目的として創立された富士山麓電気鉄道に営業権を売却し、1929(昭和4)年6月に大月〜富士吉田間の開業にあわせ廃止されています。