GF Williams

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1980年代初頭のイギリスに、”名刺”になる作品を必要としているデザイナーがいた。英紙『オブザーバー』の資金提供を受けて生まれたのが、このユニークなガラスルーフのBMW 635CSiショーカーだ。

【画像】1台限りのBMW 635CSiショーカーのコンセプトスケッチと実車(写真12点)

ここロンドン郊外では、あおり運転もアグレッシブなオーバーテイクも日常茶飯事のようだ。しかし、私たちは超然として意に介さない。車内は湯気の立つような暑さだが、それを除けば何もかもがクールだ。なんといっても、コンセプトカーを運転できる機会は滅多にない。

1982年ロンドンショーを目指す

これは、BMWの6シリーズをベースにしたプロトタイプである。ここから生まれるはずだったモデルは構想に終わったが、当時はメディアの注目を浴びた。今では、”オブザーバー・クーペ”と聞いてもピンと来る人は少ないだろう。しかし、かつては最先端と評価されたのである。

これを生み出したのは、イギリスのデザインエンジニア、マイク・ギブスだ。ギブスは、防衛産業に身を置いたあと、フリーランスのクレイモデル製作者を束ねるエージェントとして活動し、1979年に設計コンサルタント会社のMGAをコベントリーに設立した。発足当初はメーカーのためにマスターモデルを製作していたが、ギブスは大きなビジョンを抱き、さらなる飛躍を狙っていた。レンダリングから完成品まで、主要メーカーのプロジェクトを丸ごと任される会社になろうと考えていたのだ。ショーカーを造れば名刺代わりになる。こうして、”スペシャルプロジェクトM3”が1982年3月に始動した。

ギブスはBMWの6シリーズをベースに決めると、同年6月には仕様書をまとめ上げて、あとは資金提供者を見つけるだけとなった。ギブスが最初に接触したのは、英紙『テレグラフ』日曜版の別冊マガジン編集長、ジョン・アンスティーだった。これは意外な選択ではない。アンスティーはカーデザインとテクノロジーの伝道師といった存在で、1967年にベルトーネ・ピラーナの製造資金を出すよう『テレグラフ』を説得したのも彼だった。『テレグラフ』は英国国際モーターショーにスタンドを出しており、1970年代の多くの独立系デザイナーがそこで名を広めた。

アンスティーは乗り気で、BMWも635CSiの提供に合意した。ところが、様々な関係者の書簡が詰まったボックスファイルを丹念に調べてみると、意思疎通に問題があったことが分かる。初めは遠回しだった表現が、だんだん直接的な攻撃となり、決断の遅れをめぐって、ギブスとアンスティーは非難の応酬を繰り広げていた。こうして9週間が無駄になった末に、パートナーとなる可能性は消滅した。ギブスは次に『タイムズ』紙の日曜版カラーマガジンに接触を試みた。さらに、BMWGBのマーケティング責任者が、日曜紙『オブザーバー』の別冊マガジンとの会談をセッティングした。

これが三度目の正直となり、1982年5月末に両者は合意に達した。しかし、当時の書類に目を通すと、以降の進捗は芳しくなかったようだ。これは大問題だった。その年10月の英国国際モーターショーで車を披露する計画だったのである。それだけでなく、モーターショーが開幕する前に写真撮影をし、印刷に回す必要があった。日付不明の内部資料に、完成目標は9月と記されている。『オブザーバー』は、事前にシリーズ記事を掲載しようと考えていた。また、バーミンガムでのモーターショーでベールを脱ぐ2週間前に、『Autocar』誌の取材も受けることになっていた。

クーペにもコンバーチブルにもなる車

1982年6月のメモによると、その時点でもまだ、どんな車を造るのかについて議論が続いていたようだ。何らかの形のコンバーチブルとすることは決まっていた。最初の案は、格納式ルーフでピラーレスのクーペだった。そのときの構想スケッチには、簡単にいえば電動サンルーフと電動ファブリックルーフの混成といったものが描かれている。完全なコンバーチブルを提案するメモもあるが、そこには「前例あり」との但し書きがある。パネルを脱着するタルガルーフも提案されたが、クーペにもコンバーチブルにもなる車にしたいというギブスの熱意が勝った。

それだけでなく、世界初の格納式ガラスルーフとすることが決まった。強化ガラスのトリプレックス社とサンルーフのチューダー社がプロジェクトに加わったが、どうやら無償での提供ではなかったようだ(少なくとも割引料金ではあった)。MGAは、製造費用を総額2万ポンドと見積もっていた。ギブスはBMW GBに対し、次のように約束している。

「ボタンひとつで、オープンカー、つまりカブリオレにもなるユニークなパッケージだが、ソフトトップでも脱着式パネルでもない。この提案は、私たちが知る限り、これまで誰も試みたことのないものだ。いい換えれば、”初”の1台となるはずで、おそらく技術面で相当の関心が集まるだろう」

少人数のチームが作られ、わずか18週間で、鮮やかな赤のドナーカーを注目のショーカーに変貌させる仕事に取りかかった。元ポルシェ所属で、シュトゥットガルトで活動するイギリス人デザイナーのスティーブン・フェラーダが、MGAのチームとともに、新たなルックスを生み出す責任を担った。一方、電気システムエンジニアのスタンリー・ダニエルズには、ルーフの作動メカニズムを考案する仕事が任された。それだけでも大仕事だが、ラゲッジスペースを大きく減らさずに、「全パーツをトランクに格納せよ」という指示だった。ジオメトリーや構造設計は、アリステア・ミラー設計エンジニアリングに託した。

未知の世界へ大きく飛躍するときは、必ず問題にぶつかるものだ。にもかかわらず、オブザーバーBMWは、決定レンダリングから完成車両まで、たった3カ月半で仕上げられた。635CSiには120箇所を超える変更が加えられ、その多くが構造的なものだった。車両が到着すると、すぐに200kgのクレイを車体に載せて、最終的な形状を決めていった。次に、巨大な型取り装置を造り、卵ケースのような構造物で車に固定して、新しいボディパネルを成形するための型を造った。

フェラーダの設計では、ロールオーバーバーを組み込む必要があり、ルーフの作動を正確に試すため、1982年7月にテスト装置が造られた。レールを使った複雑なメカニズムで、ガラス製のルーフパネルとリアウィンドウが個別に作動し、レールに沿ってスライドする。オリジナルより厚くした(したがって重くなった)専用のトランクリッドの内部に、薄いコンパートメントを設けて、そこに格納する仕組みだ。野心的なプランであり、頭痛の種も多かった。スライド機構の公差が厳しく、1ロットのガラスすべてがそれに満たないこともあった。また、製作途中でガラスパネルが割れるアクシデントも起きた。

MGAのチームは30日間休みなしで働き続け、大舞台に間に合わせた。真のヒーローといえるのがマーティン・コラードで、食中毒に苦しみながら、ぎりぎりで塗装を仕上げた。こうして、1982年9月27日にオブザーバー・クーペは完成し、かなりの反響を呼んだ。MGAのプレスリリースには、ギブスの言葉が長々と引用されている。

「私たちは、今日のスタイリングとエンジニアリングにおける未開の地を歩きました。これまで、大型の動くラミネートガラスをデザインに取り入れた者は誰もいません。開放時にそうしたパネルをボディワーク内部に隠すという課題を乗り越えた者もいません。そうした仕組みと構造の開発に挑んだ者もいませんでした」とギブスは宣言している。

製造コストはふくらみ、BMW本体を除いても6万5000ポンドを超えた。当時の資料を見ると、それでも『オブザーバー』に不満はなかったようだ。用済みとなった車は、MGAの社長であるギブスに1ポンドで売却された。しかし、物語はここで終わりではなかった。これを量産する案が浮上したのだ。

頓挫した生産化計画

BMW GBとのやり取りを見ると、最高級モデルとして50台製造する案が記されている。また、熱心なディーラーとMGAがやり取りした書簡も大量に残っている。そのうちに、12台をコンバートする計画に変わり、盛り上がりはたちまち萎んでいった。結局、製造されたのはこのプロトタイプ1台のみである。

その前に、乗り越えなければならない大きなハードルが残っていた。格納ルーフがきちんと作動しなかったのである。少なくとも、謳い文句のような形で格納することはできなかった。あくまでも”プロトタイプ”だったのである。結局、ある主要下請け業者とMGAの不和が一触即発の状態になったことで、課題は解決されずに終わった。ところが、プロジェクトはここでも終わらなかった。新たな提案は、6シリーズの改造箇所を減らし、ルーフの大部分をガラスにして、”オブザーバー”の名前で(外がしっかり”観察/オブザーブ”できるから)生産するというものだった。

だが、この計画は無に帰した。MGAがデザインしたフロントスポイラーやサイドスカートなどのアクセサリーをBMWディーラーで販売することも提案されたが、同じ末路をたどった。あらゆる構想が静かに消えていった一方で、このBMWが魔法のような効果を発揮したのもまた事実である。

ジャガーやヴォクスホール、ランドローバーの関心を引くことができたのだ。MGAは、1990年代初頭までに見違えるような発展を遂げ、数々のコンセプトカーを生み出しただけでなく、量産モデルのデザインも手がけた。たとえばMGF(ローバー社内で少し手直しされた)や、フォード・エスコートRSコスワースもそうだ。ピーター・ホーブリーやスティーヴ・ハーパーといったスターデザイナーも輩出した。しかし、1997年にはすべてが幕を閉じた。

1台きりのショーカーに乗る

一方、MGA初のショーカーは、1990年代初頭までギブスが所有していた。二人目のオーナーにメールで話を聞いたところ、格納ルーフ機構は、製造からおよそ7、8年あとに、現在の固定式ガラスルーフに交換したという。どうやら、ガタガタいう音やすきま風に辟易したようだ。現オーナーのロバート・ダブスキーは、このBMWを”レストア済み”の状態で購入した。彼はエキゾチカに目がないが、必ずしもヒストリーに惹かれて買ったわけではなく、気兼ねなく使える6シリーズがほしかったからだ。購入してから、徹底的に手を加えた。

近くで見ると、記憶にあるとおりのE24型6シリーズのシルエットだが、いかにもあの時代を感じさせるモディファイが施されている。とくに、ビスポークの前後スポイラーやサイドスカート、車名のステッカー、そしてセントラ製タイプ6アロイホイールが、1980年代の車であることを告げている。その違和感の程度が絶妙だ。しかし、この車の真の特徴は、乗り込まなければ分からない。インテリアはほぼ標準のままだが、ガラスだけはまったく異なる。頭上は、シルクスクリーンの模様が焼き付けられたガラスルーフだ。太陽光で温室状態になるのを抑えるのが最大の目的だろう。

この日は日差しが強く、気温も上がったので、その目的は完全には果たせていない。内装が黒のレザーなのも足を引っ張っている。この時ばかりは、今も格納式ルーフならよかったのにと思ってしまう。これではバーベキューになりそうだ。では、走りはどうかというと、よくまとまったかつての6シリーズそのままである。しかも、走行距離は1万8000マイルにすぎない。全体に静かな力強い印象で、スロットルペダルを踏み続けて全開にしても、それほど大音量にはならない。年式を感じさせない速さを見せ、5段ギアボックスは、シフトストロークが比較的短い。

全体に劇的さはないが、そこがいいところだ。パワーがかかると本当にわずかなアンダーステアを示し、スロットルを閉じるとラインがタイトになる。挑発しない限り、派手にテールを振ることはない。そんな挙動を引き出したいなら、ランオフがたっぷりある場所でトライするのが賢明だろう。間違っても、体勢を崩してみたいタイプの車ではないのだ。立て直すには、電光石火の反射神経が必要だろうという気がする。ありがたいことに、ブレーキはよく利いて素早く減速し、ペダルフィールも豊かだ。

635CSiは重い車だろうとイメージするのは大間違いだ。たしかに重量感はあるが、かつて6シリーズがヨーロッパ・ツーリングカー選手権で3度タイトルを獲得したことを忘れてはいけない。ツーリスト・トロフィーといったビッグイベントでの勝利もあった。明らかにモータースポーツを念頭に置いたモデルではないのだから、目覚ましい戦績だ。このユニークな1台で何より驚かされるのは、ルーズな感じがしないところだろう。メスを入れられたにもかかわらず、きしみやガタつきが一切ない。

こうしたコンセプトカーではよくあるように、実現方法が不確かなことを実現させるとMGAは約束してしまった。実験をやってみた結果、仮説が証明されるとは限らない。それでも、たいてい何かしら学ぶことはあるものだ。今やガラスルーフの車がいかに増えたかを考えてほしい。プロトタイプに付きものの問題も含めて、この忘れ去られた作品には、好奇心をかき立てる力がある。

1982年BMW 635CSi


エンジン:3430cc、直列 6気筒、OHC、ボッシュ製燃料噴射
最高出力:215bhp/ 5200rpm 最大トルク:31.7kgm/ 4000rpm
変速機:前進 5段 MT、後輪駆動
ステアリング:ボールナット、パワーアシスト付き
サスペンション(前):マクファーソンストラット、コイルスプリング、アンチロールバー
サスペンション(後):セミトレーリングアーム、コイルスプリング、テレスコピック・ダンパー、アンチロールバーブレーキ:ベンチレーテッド式ディスク
車重:1480kg 最高速度:228km/h  0-100km/h:7.4秒

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.)
原文翻訳:木下恵 Translation:Megumi KINOSHITA
Words:Richard Heseltine Photography:GF Williams
取材協力:デイヴィッド・グッドウィン(www.goodwin-business.co.uk.)