NHKの連続テレビ小説「らんまん」は、「日本の植物学の父」と称される植物学者・牧野富太郎をモデルにしている。どんな人物だったのか。東京大学名誉教授で牧野富太郎と同じ植物分類学の研究をしている大場秀章さんは「6歳にして、血縁関係にある人がまったくいない、きわめて孤独な存在になった」という――。

※本稿は、大場秀章『牧野富太郎の植物愛』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

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2023年2月22日、牧野富太郎像 牧野記念庭園(東京都練馬区) - 写真=時事通信フォト

■幕末期の土佐に生まれる

およそ160年前に生まれた人のことを書こうとしている。

その人の名は牧野富太郎。

現在の高知県である、土佐の国佐川(さかわ)に生まれた、著名な植物学者だ。

20歳の頃の富太郎。地元土佐にて。[『牧野富太郎の植物愛』(朝日新書)より]

160年前といえば、日本の近代化が始まる明治時代よりも前の江戸時代である。江戸時代は、現在と異なり、武門の出である徳川家康とその後継者が、天皇に任命され日本を治めていた。明治時代になるまで260年以上も続いていた。牧野富太郎が生まれたのは、江戸時代といっても、その末期に近い文久2(1862)年、旧暦の4月(現在の暦では5月)である。

富太郎の出生地、佐川は周囲を山々に囲まれた、何の変哲もない地方の小村だが、多少の高低差があり、地形は変化に富み、上質の水にも恵まれていた。江戸時代に新しく土佐国の藩主となった、山内一豊と共に、美濃国(現在の岐阜県)から移ってきた深尾重良が築いた小さな集落だった。重良は、それまでの土佐の領主だった長宗我部(ちょうそかべ)氏が住んでいた浦戸城を接収するのに功績を立てたことで、山内一豊から1万石の領地を与えられたのだ。深尾家は代々土佐藩の筆頭家老の職にあり、将軍の徳川慶喜が慶応3(1867)年に天皇に統治権を返上することが許され、1868年に江戸幕府が終焉(しゅうえん)するまで、11代にわたって絶えることなく佐川の地を領有し続けた。

■商家としては格式のある家に生まれた

富太郎が誕生した時に作られた「由緒書き」は、牧野家の起源と経歴も記録していた。それによると、先祖は安土桃山時代から江戸時代初期の文禄・慶長の頃(1592〜1614年)に、紀伊国の那賀郡貴志荘(なかごおりきしそう)(現在の和歌山県紀の川市貴志川町)から土佐に移ってきたとある。祖先は鈴木という姓を名乗っていた武士だったらしい。由緒書きの記録にはないものの、村の西町組101番にある彼の生家「岸屋」の屋号も、祖先ゆかりの地「貴志」に拠っているとしてよいだろう。

岸屋は、豊富な良質の水を活かした酒造りと雑貨(小間物)を売る商家だったが、お目見得(めみえ)町人といい、普通は武家でなければ認められなかった、苗字をもつことや刀を所持することを藩主から許されていた。商家としては、村では数少ない格式のある家で、近在にもその名が知られていたらしい。

■4月22日、24日、26日……誕生日が諸説ある

由緒書きによれば、旧暦の4月24日(現在の暦では5月22日)が牧野富太郎の誕生日となっているが、実のところ、4月の何日に生まれたかは定かではないようだ。母・久壽(ひさえ)の胎盤と彼をつないでいた管(くだ)の残骸である“臍の緒”を収納した、いわゆる「臍の緒袋」の表書きには4月26日という別の日付が書かれており、これが正しければ、富太郎が母から離れ、この世に生まれ出たのは4月26日となるはずだ。ところが、厄介なことに戸籍簿には、24日でも26日でもない日付である4月22日が富太郎の誕生日として記入してある。なぜこうも誕生日を巡っていくつもの日付が生まれたのか、その理由はわからないらしい。

■混沌とした生涯の始まりを象徴している

誕生日を祝う風習が定着している今日では、誕生日に諸説あるのは大いに問題となるだろう。しかし、富太郎が生まれた頃は、誕生日よりも干支(えと)の何年(なにどし)に生まれたかが重要だったのだ(ちなみに牧野富太郎は戌年生まれである)。それというのも当時は皆、正月に1歳、年をとる年齢の数え方である、「数え年」が用いられていたからである。誕生日で年齢を数える「満年齢」が日本で普通になるのは、ずっと後の太平洋戦争以降ではないだろうか。

それもたしかにあっただろう。富太郎の生家でも彼の誕生日の不確かさを問題にしたことはとくにはなかったそうだ。が、筆者は生誕の日からして特定し得ない富太郎の出生こそが、後述する毀誉褒貶(きよほうへん)の入り交じる混沌とした生涯の始まりを象徴しているように思えてならない。彼の伝記ほど、真偽の分別の困難さに突き当たるものはない。そんな科学者・植物学者の存在を筆者はまったく他に見出すことはできないのだ。

■3歳で父、5歳で母が病死

それは、富太郎の父・佐平が、慶応元(1865)年に病気のため39歳で世を去ったことに始まる。この時に富太郎はまだ3歳だった。続いて慶応3(1867)年に、母の久壽も病に罹り、夫の後を追うように35歳で亡くなったのだ。富太郎5歳の年である。共に30代の若さでの早死にである。

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父・佐平は、親戚筋の岸屋牧野家の養子となり、家付きの娘である久壽と結婚したのだ。富太郎は佐平と久壽の間に生まれた唯一の子、一人っ子だった。

3歳という、未だ幼い時に亡くなった父についての記憶はまったくない、と富太郎はのちに書く。その2年後の母の突然の死については、とても悲しかったことを覚えている、と記している。しかし富太郎は、その面影は何となく浮かべることはできても、多くの人が体験している“母親の味”や“温もり”、“慈愛”というものを、実感することはできなかったのだ。今でもそれを思い出す毎に、寂しさで胸が苦しくなると綴っている。

■6歳にして「孤独な存在」となってしまった

しかし不幸はそれだけで終わらなかった。さらなる不幸が岸屋を襲う。祖父の小左衛門が久壽の後を追うように翌年の明治元(1868)年に亡くなった。これで残った身内の人は、祖母ひとりだけになってしまったのである。

祖母の浪子は、富太郎を大切に養育してくれた。しかし浪子は小左衛門の後添えであったため、富太郎とは血のつながりはなかったのである。祖父の死によって、兄弟もなかった富太郎は、血縁関係にある人がまったくいない、きわめて孤独な存在となってしまったのだった。6歳にしてわからぬまま連続する喪失感は計り知れない。

■開運を願った祖母による改名で「富太郎」誕生

岸屋は代々続く旧家でもあり、家の仕来りも自然にできていたのだろう。富太郎の父母と祖父が亡くなった後も、祖母が父母に代わって采配を振るい、岸屋の面倒をみた。祖母の浪子は、佐川村に隣接する現在の土佐市に属する高岡村の川田家の出身だった。書に巧みなだけでなく、和歌をよくし、明治時代になる前は領主家にも出入りしていたといわれる人だった。岸屋に残っている浪子の筆跡を見ても、決して凡庸な婦人ではなかったことが窺われる。

大場秀章『牧野富太郎の植物愛』(朝日新書)

富太郎が生まれた頃の佐川では、改名という風習があった。「家名」といわれる生まれた時に与えられた名前を、のちに別の名に改める習慣である。両親、祖父を相次いで喪う不幸が続いたことから、心機一転と運が開けることを願った浪子は、彼の名を家名の「誠太郎」(臍の緒袋の表書きでは「成太郎」と記されている)から「富太郎」に改名する。「牧野富太郎」の誕生である。

彼が富太郎に改名された1868年は、奇しくも265年間続いた江戸幕府が統治権を天皇に返上し、武家政治に終止符が打たれ、社会のしくみも革(あらた)まった、新しい年の始まりとなった明治元年である。偶然とはいえ、何か因縁深いものを感じるのは筆者だけではないだろう。

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大場 秀章(おおば・ひであき)
東京大学名誉教授
1943年、東京都生まれ。東京大学総合研究博物館特招研究員。植物多様性・文化研究室代表。日本植物友の会会長。理学博士(植物分類学専攻)。著書に、『バラの誕生』『道端植物園』『植物学のたのしみ』『はじめての植物学』など多数。
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(東京大学名誉教授 大場 秀章)