春になると、日本を彩る桜の花。

大都会・東京も例外ではない。

だが寒い冬を乗り越えて咲き誇ると、桜はあっという間に散ってしまう。

そんな美しく儚い桜のもとで、様々な恋が実ったり、また散ったりもする。

あなたには、桜の季節になると思い出す出会いや別れがありますか?

これは桜の下で繰り広げられる、小さな恋の物語。

▶前回:旧友の結婚式で、好奇の視線を浴びせられ…。30歳女が耐えきれなかった、友人からの一言




笹沼真夏(30)「8年前、まさにこの桜の下で綾人を…」


9時25分。

始業時刻の5分前に、真夏はリビングのローテーブルに置いてあるPCを立ち上げる。

慣れた手つきで『勤怠管理システム』をクリックし、メールのチェックを開始。真夏の毎朝のルーティンだ。

リモートワークが始まってから3年。

大手菓子メーカーの営業職として働く真夏は、コロナ前には頻繁に外回りをしていたが、今や外出するのは週に1回程度だ。

担当している卸売店との商談があるときだけ、自宅から得意先のオフィスに向かう。

今日の夕方は、その週1回の商談がある。

ミーティング資料の最終確認をしながら、真夏はコーヒーをすすった。

― 毎週おんなじことの繰り返しだなあ。

仕事は、特に楽しいとは思っていない。そつなくこなしているものの、夢中にはなっていない。

先週も、大手卸売店と大型の契約を決めて周囲から拍手喝采を浴びたが、真夏はなんの達成感も抱かなかった。

それでも8年も同じ会社で営業をしているのは、他にやりたいことがないからだ。

転職する気力も、理由もない。

暮らすのに十分な給料を得ているし、恵まれていると思っている。

「よし、資料の最終チェックも終わり」

Uber Eatsでランチをとったあと、真夏はスーツに着替えて家を出た。

自宅マンションの最寄り駅である代々木上原駅から、千代田線に乗り込む。


商談は、うまくいった。

ぼんやりした安心感を胸に、真夏は渋谷にある得意先のオフィスを後にした。

薄手のジャケットを脱いで腕にかけると、その瞬間、うすい水色のブラウスに小さな雨のシミが落ちた。

― あ、雨。

逃げ込むように近くの書店に入る。

しばらくここで雨宿りをしようと思い、なんとなく、そばにある雑誌を手にとった。




表紙に「地方創生」と大きな文字で書かれたその雑誌をめくると、兼六園や21世紀美術館の写真が目に飛び込んでくる。

― お!金沢だ!

金沢は、真夏のふるさとだ。

思わず見入ってページをめくった真夏は、「わっ」と小さな声を出した。

大学時代の元カレ・綾人の名前を見つけたのだ。

『特集インタビュー:天倉綾人
漆塗り工芸作品が、若い世代に人気』

8年越しの綾人は、昔以上におしゃれな雰囲気を携えている。

現在は、漆工芸のアーティストとして活躍する傍ら、金沢市や輪島市の過疎化問題・教育課題にも精力的に取り組んでいるという。

― すごい。綾人…ホントに、やりたいことで生きてる。有言実行だ。

真夏は雑誌を開いたまま、大学時代を回想する。



綾人と出会ったのは、真夏が大学2年のときだった。

きっかけは、金沢に帰省したときに金沢美術工芸大学の「美大祭」に行ったことだ。

ある一室に並べられていた、色とりどりの漆塗りの工芸品。あまりの美しさに吸い寄せられるように近づくと、「こんにちは」と言われた。

顔を上げた真夏の目に映ったのは、スラリとした長身に、うすい整った顔。

一瞬で、心を奪われた。

綾人は金沢美術工芸大学の美大生で、同い年だということが判明。真夏は連絡先をもらい、熱烈といってもいいほどのアプローチをした。

数ヶ月後に交際に発展したが、真夏は当時、渋谷区桜丘町に住んでいたのだ。

つまり、遠距離恋愛。

うまくいくのか不安だったものの、綾人は真夏を心底大切にしてくれた。

「俺、いままで工芸ばっかりで恋愛に縁がなかったからさ…真夏に出会えて生活が大きく変わったよ」

学生にとっては安くない移動費を払って、互いの家を行き来する。どこかドラマチックな恋で、一日中浮かれていたのを覚えている。




しかし就職活動が始まってしまうと、状況は変わった。

真夏が忙しくなったことで、会う頻度も連絡の頻度も下がっていったのだ。

そんな、ある日。

真夏は、大手菓子メーカーの営業職として、無事に内定をもらった。

綾人に報告すると、彼は桜丘の真夏のマンションにお祝いにきてくれた。

「おめでとう。就職活動、おつかれさま」

「ありがとう」

お寿司を前に乾杯する。久々に会う綾人は、昔よりも他人行儀だ。

そして寿司桶が半分以上空いたとき、綾人は言った。


「真夏はさ、本当にそのメーカーに行きたいの?」

「え?」

「いや、お菓子メーカーに行きたいなんて、聞いたことなかったから」

綾人が首を傾げている。

「…行きたいっていうか、まあ、どこかに就職しないといけないわけだし」

「え。そんななんとなくで決めていいの?」

綾人は、納得がいっていない様子だ。

綾人にはわからないよ、と真夏は思った。工芸の道に進むため、就職活動をしていない。

「いいでしょ、別に。こだわりもやりたいこともないから、内定をもらった会社に行くの。だめ?」

綾人はしばし無言で真夏を見た。

「…何、綾人?」

「いや、別に」

「私は美大生とは違って、ただの大学生よ。みんなだいたい、どこかの企業に所属するものなの。

大手企業で働けるなんてラッキーよ。親も友達も、よかったねって言ってくれた」

「真夏がやりたいことなら、俺ももちろん応援するよ。

でももし違うんだったら、ちゃんとやりたいことを探せばいいのにって思っただけ」

「やりたいこと…とかじゃないんだって。わかってよ」

― やりたいことなんてないんだもん。頑張って内定をとったのに、私を批判しないでよ…。

真夏は、ひどく疲れた気分になった。




その日を境に、2人の関係は変わってしまった。

最後どんなやり取りをして別れたのか、よく思い出せない。

自分から綾人をふったことだけは覚えている。

破局して数年は、綾人のことがたまに気になって、名前を検索したこともあった。

しかし特になにもヒットせず、綾人が工芸の道に本当に進んだのか、どんな活躍をしているのかはわからないまま、気づけば思い出すこともなくなっていた。



真夏は雑誌を閉じ、せっかくだからと書店のレジに持っていく。

雨脚はもう弱まって、渋谷を行き交う人たちは傘を閉じていた。

― そうだ。代々木上原に帰る前に、ちょっと桜丘に寄ってみようかな。

ちょうど桜の季節だ。学生時代に住んでいた懐かしい場所に行ってみようと思い立ったのだ。

15分ほど歩いて、たどり着く。

かつて暮らしたマンションは、少し古ぼけた印象はあるがきれいに残っていた。エントランスの向かいに生えている大きな桜の木は、満開だ。

― ああ、この桜。懐かしいなあ。

毎朝、開花していく様子を楽しみに見ていたのを思い出す。

― …あ。

真夏は、突然立ち止まった。

記憶が、場所の力を借りて一気に蘇ってきたからだ。

― 就職する直前。まさにこの桜の下で、私は綾人を振ったんだ。

たちまち脳内で、当時のやりとりが鮮やかに再生される。

「私、綾人にモヤモヤしてるの」

「モヤモヤ?」

「前にさ、やりたいことを探せばいいのにって言ったでしょう。あの綾人の言葉が、ずっと心につっかえてる。

だって、私にはやりたいことなんてない。そういう人だってきっと多いよ。だから強制しないで」

「…探せば、絶対にあるよ。難しく考えなくていいから、探したらいいのに。

俺はね、自分のやりたいことを叶えていくために生きてるよ。真夏も一緒に探そうよ。人生面白くなるよ」

大好きだった綾人の笑顔を、疎ましく思った。

こうして真夏は、うつむきながら別れの言葉を口にしたのだ。

「就職したら多分、私たち、本格的に合わなくなると思う。だから…今日別れない?」




過去の自分のセリフが、生々しく蘇る。

8年前と同じ大きな桜の下で、真夏は現在の綾人のことを思った。

― 綾人の人生…いいなあ。頑張ってて、すごいなあ。

今なら、素直にそう言える。

あの頃の自分は多分、綾人がうらやましかったのだと、真夏は今になって気づくのだった。

綾人は今、工芸以外にもたくさんのやりたいことを見つけ、実行している。

それに比べて自分の人生は、昔も今もまるで消化試合のようだと思った。

― そんなふうになるには、まだ早いのに…。

見上げると、満開の桜が淡く白光りしている。夜空がいつもよりも明るい。

真夏は本当に久々に、「やりたいこと」について考えた。

パッと浮かんできたりはしない。

それでも真夏は、考えるだけで、なにかが動きだすような予感を感じた。

「なにがしたいかか。そうだな、例えば…」

雑誌の入ったビニール袋を抱きしめ、ゆっくりと桜丘を歩いた。

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