転職したい」けれどなかなか決意できないのは、なぜでしょうか。人は、合理的に考えたら変化を受け入れたほうが得なのに、損失やリスクを回避しようと今置かれている状況を維持する選択をしてしまいがちです。これを「現状維持バイアス」と言います。日常生活の中で「選択」を迫られる場面で誰もが陥ってしまう認知バイアスを解説します――。

※本稿は、『イラストでサクッとわかる! 認知バイアス』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■変わる選択に「ブレーキ」をかける

10年前、20年前よりも転職がしやすい時代になり、転職を考えているビジネスパーソンは少なくないと思います。しかし、「転職しようかな」と考えている人は多くても、実際に転職を実行する人は一握りでしょう。じつは、その意思決定には認知バイアスが影響しているのです。

たとえば、仕事量や業務内容が今とほぼ同じで、給料や待遇が今よりもいい条件の会社に転職できるチャンスがあったら、あなたはどうしますか?

仕事の内容は変わらないのに、給料や待遇が今よりもいい会社があれば、迷わずに転職を選びそうです。しかし、実際にはすぐに決断できる人は少ないかもしれません。しばらく悩んだ挙句、結局は転職せずにそのまま同じ会社に居続けるケースもあるでしょう。

この例では、転職という変化で今より家計が楽になるだろうと思う一方、たとえば通勤時間が増えて、家族と過ごす時間が減るかもしれないなどと思い、変わることに自ら「ブレーキ」をかけることも考えられます。

写真=iStock.com/metamorworks
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/metamorworks

■合理的なのに選ばないワケ

転職するという選択をしなかったのは、ほかに「職場環境や人間関係などに問題があるかもしれない」などと考えてしまったからかもしれません。変わることにメリットとデメリットがあるとき、変わるよりも、変わらない選択をすることを「現状維持バイアス」と言います。

人は損失に敏感です。客観的に見て、変わることのほうが合理的な選択であっても、非合理的な選択をすることがあります。その場合、失敗などに対する不安や恐れといった心理的な要因のほかに、「損失回避」がかかわっている可能性があります。

転職を例に考えると、現状維持という決断を下すまでに、人は現状と転職後を比較します。つまり、現在の状況を「参照点」として、転職後を想定します。このとき、人には「現状を下回る選択は何としても避けたい」と損失を回避する傾向があります。「損失回避の傾向」は、変わるか変わらないかの選択に限らず、手放すか手放さないかの選択など、さまざまな選択場面で見られます。

■所有物は高値で売りたくなる

こうした手放すか手放さないかの選択の場面で陥りやすいのが、「保有効果」という認知バイアスです。

心理学者ダニエル・カーネマンらの実験では、参加者(売り手)は6ドル相当のマグカップをもらい、そのあと「いくらならカップを手放してもよいか?」と尋ねられました。また、カップをもらっていない参加者(買い手)は、「いくらならカップを手に入れたいか?」と尋ねられました。すると売り手は約5.3ドルと答えたのに対し、買い手は2.5ドル付近と答え、両者で2倍以上も値段が異なりました。

カーネマンらは、さらに条件をさまざまに変更して、同様の実験を行っています。しかし、結果はいずれも、売り手が買い手の2倍以上の値をつけ、売り手が「所有している」カップに高い値をつける傾向は変わりませんでした。

■手放すとなると惜しくなる

行動経済学者リチャード・セイラーは、持っているだけで価値が上がる事例を検証し、これを「保有効果」と呼びました。「授かり効果」と訳されることもあります。

たとえば、フリーマーケットなどで売り手のつけた値段に「高い!」と感じたことはないでしょうか。転売目的は別として、人は自分が所有していたものを手放すときは、たとえ古着でも高い値をつけようとします。手放すという心理的痛みが、値段に反映されるのかもしれません。

保有効果を示す代表的な実験例が、もう1つあります。この実験ではアンケートの回答者を、マグカップをもらうA群、チョコレートバーをもらうB群、何ももらわないC群に分けました。回答を終えた段階で、希望者にはA群ならチョコレートに交換可能、B群ならマグカップに交換可能、C群はどちらか1つを選択できることを伝えます。結果、C群の選択率はほぼ半々で、好みに偏りがないことが確認されました。

ところが、A群とB群ともに交換を希望した参加者は10%ほどでした。つまり、数分前にたまたまもらったような品であっても、手放すという選択にはなりにくかったようです。

■初期設定によって選択が変わる

「変わらない」ことを選択してしまう認知バイアスは、他にもあります。

図表1は、さまざまな国の臓器提供の同意率を示したものです。

左の4か国(デンマーク、オランダ、イギリス、ドイツ)と右の7か国(オーストリア、ベルギー、フランス、ハンガリー、ポーランド、ポルトガル、スウェーデン)の間には、同意率に大きな差があります。これはなぜでしょうか。

『イラストでサクッとわかる! 認知バイアス』より

このグラフで、同意率の高い国(黄色)と、低い国(灰色)とには、じつは臓器提供の同意に関する初期設定(デフォルト)という大きな違いがあります。

同意率の高い7カ国では、同意に関する初期設定が臓器提供を「する」になっています。一方、同意率の低い4カ国では、初期設定が臓器提供を「しない」になっているため、「する」に変えるには、書面などで意思表明をしなくてはなりません。

実際に、ある実験を行ったところ、初期設定を臓器提供を「する」にした場合は同意率が82%だったのに対し、「しない」にした場合は、同意率が約半分の42%でした。また、初期設定がなく、自分で「する/しない」を選択する場合の同意率は79%でした。

■人は初期設定を変更したがらない

初期設定がない場合の同意率から、多くの人は臓器提供に否定的ではないことがわかります。しかし、人は初期設定からの変更を積極的には行わないため、初期設定が臓器提供を「しない」になっている場合には、同意率が低くなると考えられます。これを「デフォルト効果」と言います。

池田まさみ他監修『イラストでサクッとわかる! 認知バイアス』(プレジデント社)

デフォルト効果を使って、人々の選択を無理なく望ましい方向に導く取り組みが各国で行われています。英国やアメリカでは、確定拠出年金の加入者が少ない状況を変えようと、「加入」をデフォルトにしたところ、加入率が上昇しました。

ここで重要なのは、「加入しない」という選択肢が残されていることです。個人の意思を尊重しつつ、選択に誘導するこのような方法は、ノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者リチャード・セイラーらによって「ナッジ(ひじで軽くつつくという意味)」と名づけられています。

(プレジデント社書籍編集部)