東京のアッパー層。

その中でも、名家や政財界などの上流階級の世界は、驚くほど小さく閉じている。

例えば、ついうっかり“友人の結婚式”なんかに参加すると「元恋人」や「過ちを犯した相手」があちこちに坐っていて冷や汗をかくことになる。

まるで、いわく付きのパールのネックレスのように、連なる人間関係。

ここは、誰しもが繋がっている「東京の上流階級」という小さな世界。

そんな逃れられない因果な縁を生きる人々の、数珠繋ぎのストーリー。

▶前回:披露宴のテーブルで、新婦の悪口を言う女友達。笑顔の下に隠された恐ろしい本音




Vol.5 P.M.1:15 ケーキ入刀、スピーチ
   新婦友人・薬袋(みない)サエ(34歳)


芸能人でもないくせに、ほかに類を見ないほどの大規模な披露宴だ。

コロナ禍もピークを過ぎたとはいえ、決して進行を滞らせまいという一応の配慮なのかもしれない。

茶番じみたファーストバイトの催し物は省略されていて、ケーキカットだけだった。

このくだらない披露宴で、それだけは評価できるポイントと言えるだろう。

…けれど、真っ白いクリームが汚らしくべったりとついたナイフを見て、私は思う。

― あのナイフで、新婦のマサミを滅多刺しにしてやりたい。

わかっている。あの、色とりどりの美しい花でバカみたいに飾り立てられたケーキカット用のナイフに、そんな殺傷能力なんてないことは。

私自身が挙げるはずだった3年前の結婚式は、コロナで流れてしまった。だから、ケーキカットの経験はないけれど…。

だとしてもそれくらいのことは、私にだって理解できる。

理解できないのは、“全くもって純粋無垢な花嫁です”みたいな顔をしてニコニコと笑っていられる、マサミのその神経。

彼の人生をおもちゃみたいに扱っておきながら、どうしてそんな態度でいられるのか…本当に意味がわからない。

はらわたが煮えくりかえるような怒りをどうにか落ち着かせながら、黄金の泡が立ちのぼるシャンパンで唇を湿らせる。

「それでは続きまして、新婦マサミ様の幼い頃からのご友人・薬袋サエ様よるお祝いのスピーチを頂戴賜りたく存じます。薬袋サエ様──」

憤りで乾いた喉がちょうど潤ったタイミングで、司会の女性がそう告げた。

私はゆっくりと席から立ち上がると、盛大な拍手のなか、スタンドマイクへと歩みを進める。

真っ赤なヒールを踏み鳴らして、一歩ずつ、一歩ずつ──…。


この赤いヒールを手に入れたのは、一昨年のサンクスギビングの頃。

私が暮らすワシントンDCの、ダウンタウンに位置するCityCenterDCで、彼からプレゼントしてもらったのだ。

「サエによく似合うよ」と言ってくれた、彼。

ラザニアが大好きなところが可愛い、彼。

その“彼”は、今…。

マサミの隣で、まるで極寒の地に放り出されたような絶望的な表情を浮かべている。

そのあまりにも哀れな表情を見ていると、今にも駆け寄って抱きしめてあげたくなる。

けれど、そんなことをしたら一番困るのは、ほかでもない彼自身なのだ。

それくらいのことは、私にだって理解できる。




新郎の向一郎さん…いや。コウくんと出会ったのは、私がワシントンD.C.に越したばかりの頃だった。

造船会社につとめる彼氏のD.C.駐在が突然決まり、コロナのゴタゴタで結婚式も挙げられないまま慌ただしく入籍だけして渡米した。

待っていたのは、出張ばかりの夫に放置され、ひとりぼっちで過ごす孤独な新婚生活。

Northwest(NW)エリアの同じジムでよく一緒になる、同郷の日本人男性と距離が縮まるのは、あたりまえの成り行きだった。

「よく、ジムで一緒になるよね。日本人?」

「あ、はい。サエって言います。鈴木サエ」

「よろしく。俺はコウ。こっちで日本人の友達全然できなかったから、仲間がいて心強いよ」

夫の難読な名字“薬袋(みない)”に、結婚してひと月以上経っても慣れることができずにいた私は、いつもの通り旧姓を名乗った。

けれど、夫の駐在についてきた既婚者であることはきちんと伝えていたし、私たちはすぐに「コウくん」「サエ」と呼び合う仲になったのだから、そんなことはどうだっていい。

とにかく、私とコウくんはいつのまにか、米国での孤独な生活を慰め合う、互いにかけがえのない存在になっていったのだ。




主人が出張に出かける時は、いつでもコウくんのシンプルな1ベッドルームのアパートで過ごした。

「あぁ…。幸せを感じられるのは、こうしてサエといるときだけだ」

部屋に備え付けのたてつけの悪いベッドで私を抱いた後、コウくんは決まってそう漏らす。

「ねえ、コウくん。それなら私とちゃんと付き合おうよ。私、コウくんとの未来のためだったら、離婚したっていいよ」

私がそう甘えてしなだれかかっても、コウくんの答えも、いつも同じ。

薄明かりの中、なにもかも諦めたような寂しげな微笑みを浮かべて言うのだ。

「俺だって、できることならそうしたいよ。でも…。苦しくなるから、それ以上言わないで。サエだってわかってるだろ、俺の置かれてる立場」

コウくんの置かれている立場とは、こんな状況だった。

実家があまり裕福ではなく、医学部には奨学金で進学したこと。

大きな病院の院長が、コウくんを見込んでくれていること。

その院長の後ろ盾があって、今こうして素晴らしい環境で臨床留学をさせてもらっていること。

奨学金や留学費用などのお金は、“ある条件”を持ってして、院長が全て肩代わりしてくれる約束になっていること…。

「俺だって、サエと一緒になりたいよ。でも俺、この留学が終わったら、院長の娘と結婚させられる」

素晴らしい環境を手に入れるための条件。

それは、院長の娘と結婚して、病院の後継ぎになることだった。

院長の娘がコウくんに熱烈に惚れ込んでいて、卑劣にも、コウくんの弱みに付け込んだのだという。

向上心も実力もあるのに資金やバックボーンに欠けるコウくんにとって、この交換条件を受け入れることは、苦渋の決断だったに違いない。

「でも、そんな、まるで大昔の政略結婚みたいなこと…。コウくんの気持ちはどうなるの?何度聞いても私、許せないよ」

「じゃあサエは、借金まみれの俺と、何もかも捨てて本当に逃げてくれる?医学界の重鎮を裏切ったら、きっとどこの医局でも医者は続けられない。それでも旦那さんと別れてくれる?」

「…それは…」


私の実家は老舗のタオルブランドで、自分で言うのもなんだけれど、裕福だ。名ばかりの役員なんかにしてもらえたら、きっと食べていくのには困らない。

けれど、会社は兄が後を継ぐことがすでに決まっているのだ。夫と別れて、借金まみれのコウくんを連れて帰っても、ひどく肩身の狭い思いをするだろう。

それに、既婚者の私にとって、この恋は紛れもない不貞行為。もしも実家から見放されたら、私1人では慰謝料の支払いだって簡単じゃない。

「ね、サエ。こんな俺が、サエに『離婚してほしい』なんて言えないよ。

だからさ、せめてサエといるときだけは、辛い現実を忘れてたい。サエのことだけを考えていたい。くそっ…。もう少し早く、サエと出会えていたら…」

そう言ってコウくんは、いつもの通りうやむやに私の唇を塞いでしまう。

― ああ、かわいそうなコウくん…。

コウくんに乱暴に組み敷かれながら、私はいつも涙を流した。何もできないことが悔しくて。

だから私たちは、たくさんの思い出を作ったのだ。

せめて一緒にいるときだけは、幸せなふたりでいたい。

ただひたすらに、その一心で。




たくさんお泊まりもしたし、一緒にコウくんの好物のラザニアも作った。

時にはケンカもしたけれど、『結局は離れられないね』って仲直りした。私が落ち込んでる時は、ぎゅっと抱きしめてくれた。

それから、サンクスギビング翌日のブラックフライデーに、「よく似合うよ」って赤いヒールをプレゼントしてくれて、そして──。

その翌週。

忽然と、コウくんはいなくなった。

コウくんのNWのアパートメントは、なんの予告もなく、もぬけのからとなっていた。

そこで初めて、私は気がついたのだった。

コウくんとそれ以上、連絡をとる手段がないことに。



あれから1年ちょっと。

幼馴染みのマサミから結婚の報告と共に送られてきた婚約者の写真を見た私は、驚きのあまり、その時注いでいたメルローのボトルを盛大に落としてしまった。

― まさか、コウくんの相手がマサミだったなんて…!

たしかにマサミの家は、神奈川有数の大きな総合病院だ。

だけど、あのマサミが。マサミのパパが。

金にものを言わせて、人の人生をおもちゃのように扱う酷い人間だったなんて…信じられない。

「許せない…」

コウくんに酷い扱いをしながら、普通の花嫁みたいにスピーチまで頼んできたマサミの厚顔無恥さに、私はワナワナと震えた。

だから私は、すぐに「参加」の返事をして東京行きのチケットを取った。

そして今日、この披露宴で。マサミとコウくんの前で。よく響くマイクの前で─スピーチすることを決めたのだ。




「マサミちゃん、コウくん、おめでとうございます。ならびにご両家の皆様、本日は誠におめでとうございます…」

大きな拍手は鳴り止み、会場中が私の言葉に耳を傾けている。

「マサミとは小学生の頃からいつも、軽井沢で一緒に夏を過ごしたよね…」

キラキラとした瞳を私に向けて、マサミもじっくりと話を聞いている。

私は、当たり障りのないお祝いの言葉や思い出話をいくつか話すと、手元の原稿から視線をあげる。

そして大きく深呼吸をすると、少しの間をおいて、コウくんの方を見ながら話し始めた。

「たくさんお泊まりもしたし、一緒に好物のラザニアも作ったよね…」

バクバクと、鼓動が高鳴る。

「時にはケンカもしたけれど、『結局は離れられないね』って仲直りもしたよね…」

手先が、氷のように冷えていく。

「私が落ち込んでる時は、ぎゅっと抱きしめてくれたよね…」

私のスピーチに、みんなが聞き入っている。会場のゲストも。マサミも。マサミの隣にいる、コウくんも。

「それから…『よく似合うよ』って、このヒールをプレゼントしてくれたよね。それから…、それから…」

それから…。

それから私は結局、それ以上の言葉を紡ぐことができなかった。

「それから…本当に、おめでとうございます。これをもちまして、お二人へのはなむけの言葉とさせていただきます。ありがとうございました」

戸惑いを帯びたまばらな拍手の中、私は、赤いヒールをコツコツと鳴らしながら会場の外へと退避した。

ハンカチは、隣席のマサミの同僚にあげてしまったから、溢れ出た涙は手のひらで拭った。

マスカラが落ちて、黒い繊維が手のひらにたくさん付いた。




手で涙を拭うたびに、色々なことが脳裏を駆け巡る。

立て付けの悪いベッド。

乱暴なキス。

赤いヒール。

もぬけのからの部屋。

マサミの同僚から聞き出した新郎新婦の思い出。1人ぼっちの新居。マサミのキラキラした瞳。

NWのジム。コウくんの愚痴。たち消えになった私の結婚式。幸せそうなマサミ。赤いヒール。白いクリームのついたナイフ。

スピーチのあいだ一度も私を見なかった、コウくんの怯えた顔…。

「うっ…うぅ…っ」

バカみたいにだだっ広いホテルの廊下で私は、声を殺しながら涙を拭い続けた。

本当は、誰の人生がおもちゃみたいに扱われたのかなんて…。

本当は、誰が酷い人間だったのかなんて…。

それくらいのことは、私にだって理解できる。



【スモールワールド相関図】


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▶1話目はこちら:友人の結婚式で受付を頼まれて、招待客リストに驚愕!そこには、ある人物が

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