料理研究家の平野顕子さん、著述家の中道あんさん、ふたりとも40代で専業主婦から一歩を踏み出し、新しい人生で見つけた仕事で大活躍されて現在にいたります。「私らしい人生」を力強く歩む70代の平野さんと今年60歳になる中道さんの対談をたっぷりとお伝えする全4回の連載、第2回目では、へこたれそうな状況をどうやって乗り越えたのかを語っていただきます。

平野顕子さん×中道あんさん対談【第2回目】

40代後半で英語を猛勉強してアメリカの大学に留学、大学での勉強と並行してお菓子づくりも学んだ平野さん。カフェオーナーの夢を潔く諦めてブロガーから著述家としての道を歩き始めた中道さん。ふたりに共通しているのは、どんなに苦しいときでも決してあきらめないタフな精神力でした。

●40代後半、とにかく崖っぷちで猛勉強

中道 英語はどうやって身につけたのですか? 50代で勉強されたのですか?

平野 47歳で留学したから、勉強したのは40代後半です。中学、高校と英語教育に力を入れている学校に通っていたので、それなりに基礎力は身についていました。それでもやっぱり、東京・神田にある英語学校のTOEFL攻略クラスに通いましたよ。目指していたのはTOEFL580くらいだったかな。1年近く通ったかしら。アメリカの大学が設定しているTOEFLの点数に達していないと願書が出せないので、猛勉強の日々でした。もちろん、大学に入学してからも眠る時間を削って勉強しました。

中道 その年齢から語学を学ぼうという姿勢と、実際にTOEFLの目標点をクリアした実力、入学後に猛烈に学習する姿には尊敬しかありません。

平野 ただただ必死だったのです。崖っぷちに立っていたから(笑)。無事にアメリカ東海岸のコネチカット大学に留学できましたが、甘かったのは、アメリカの大学を卒業したら、帰国後は通訳業や翻訳業といった英語の仕事を生業にできると考えていたところです。英語をやればやるほど、ネイティブではないので、「それはちょっと難しい」とわかってきました。
「どうしよう…。英語では食べていけないわ」ということで、大学の英文学の教授に相談したら、「ニューイングランド地方のデザートの勉強をしてみたら」と何気なく言われたのですよ。もうね、ビビビと響きました。天の声だと(笑)。「アメリカンケーキだと流行らないと思うから、ニューイングランドのデザートとして日本で売り出したらいいわよ」と親切なアドバイスまでいただきました。

中道 そんな経緯があったのですね。

平野 「お菓子づくりを学んでから帰国するぞ」と決心して、まずはお菓子づくりの先生探しからスタートです。3人目の恩師シャロル先生との出会いがなければ、今の私はありません。今でもまだ、ときどき彼女からレッスンを受けるほど、長くて深いつき合いが続いています。

中道 平野先生はいいご縁に巡り合う運の強さをお持ちなのと同時に、それをしっかりとつかまえて紡いでいく行動力もありますよね。

●当時、離婚した女性は色眼鏡で見られて

中道 私は、平野先生のお店の「ニューヨークスタイル」という言葉にものすごく魅かれたのです。同じチーズケーキでも、「ニューヨークスタイルは違うわ」って(笑)。平野先生のお教室でつくり方をマスターしたら、「絶対に私もカフェオーナーになれる」と信じて疑いませんでした。
結局カフェオーナーにはなれませんでしたが、あのとき、平野先生からケーキづくりを習っていなかったら、料理ブロガーとしてのスタートはきれなかったかもしれません。
ところで、平野先生は京都にお生まれだから、アメリカのケーキに対するなじみはないわけじゃないですか。

平野 そう思われますよね。京都は和菓子と抹茶のザ・和の世界のイメージですが、じつは幼稚園のときの親友がアメリカ人のロビン・ウッドちゃんでした。彼女のおうちを訪ねると、見たこともない大きな冷蔵庫はあるし、ママは大きくて甘い美味なるクッキーをおやつに出してくれるし。能装束の商家だった我が家とはまったく別世界です。強烈な印象だったので、アメリカのお菓子は心の奥にずっと残っていたのだと思います。

中道 私がお菓子教室に通っていた当時、京都にニューヨークスタイルのカフェがあるのは、斬新でしたよね。今だったらさほど珍しくないのかもしれませんけれど。だから、先駆者になるのは、どれほど勇気が必要だったことかと思います。周囲から、「あそこの娘さん、あんなことしはって」と言われますよね、きっと。

平野 その通りです。「よう、まぁ、やらはるわ」って(笑)。それに当時はね、離婚した女性は「出戻り」と言われて色眼鏡で見られていたのですよ。私の自意識過剰かもしれませんが。

中道 あー、出戻りですか…、それは厳しいですね。

平野 出戻りと揶揄されるのはとても嫌だったから、実家の世話にならないように「早く自立しないといけない」とずっと考えていました。

●小さいことの積み重ねが大事

中道 ましてや、平野先生のお店は、京都の中でも、田の字地区と呼ばれる中心地にありますから、3歩くらい先を進まれていましたよね。

平野 振り返ったら、そうなのだけれど。その当時は無我夢中で、そんなことは何も考えていないです。最初の生徒さんはひとりですよ。御所の近くにある武者小路通の実家2階のキッチンを借りて始めましたが、誰も来ないし。通りに看板を立てたら、ひとりふたりと増えてきて。そしたらたまたま京都新聞の記者が看板を見て、結構大きな記事を書いてくれました。それからです。生徒さんがものすごく増えました。
あるとき、生徒さんから、「こんなおいしいケーキなら、お店を出されたらいいのに」と言われて、真に受けたのです。そして、今も同じ場所で営業していますが、烏丸御池の高倉通りに店舗兼お教室をオープンさせました。

中道 私がスコーンを食べたのは松之助が初めてでした。平野先生のところは私にとって、本当にいろんな意味をもっていた特別な場所です。

平野 お店はなんとかオープンしましたけど、最初は赤字でしたね。レッスン代でなんとか帳尻が合っていました。その当時、よく考えていたのは、「おかあさんが手づくりケーキをお子さんに食べさせたら、子どもは絶対にグレない、だから、ぜひつくってあげてほしい」ということでした。

中道 私もまったく同じ意見です。少々悪いことをしても、胃袋さえつかんでいたら、戻ってくると思っていました。

平野 レッスンで習ったすべてのケーキをつくらなくてもいいから、「自分が好きなケーキだけ、週1回つくってあげて」と話していました。お子さんが大きくなられたら、「バレンタインデーやホワイトデーのお菓子を一緒に手づくりしてね」と。そうした小さなことの積み重ねは、子育てに限らず、仕事でも、人間関係でも、何においても大事だと思います。

●起業するなら、リスクがあってもひとりでやるべき

中道 50歳でブログを書き始めましたが、それが仕事になるとは思っていませんでした。ただし、ひとつ決めたことがあって、それは「毎日投稿すること」。書きたいときに書くスタイルではきっと長続きしないだろうし、60歳になったときに自分で自分をほめられるようになっていたいと強く思っていましたから、そのためには毎日投稿するのが大変だけといちばんの近道だと思ったのです。
アクセス数が増えなくても、あきらめずに続けました。徐々にスキルアップして、ブロガーから著述家としてのお仕事ができるようになり、ホームページ&アメブロ集客コンサルティング、ブログ講座、個人向け起業サポートといった起業も叶いました。

平野 中道さん、コツコツと努力してお仕事を着実に軌道にのせてこられたのね。これから何かを始めようと考えている方に、ひとつだけアドバイスするとしたら、どんなにリスクがあっても、「ひとりでやりなさい」とお伝えしたいです。心配だから友だちと一緒に起業するのはやめたほうがいい。

中道 私も大賛成です。どんな職種でも、ひとりでがんばったほうがいい。どんなに親しい間柄でも、だんだん意見がズレてきます。そこで妙に気を遣ったりするとストレスがたまって、やがて不平不満になっていきます。また、失敗したときに相手のせいにすることにもなりかねないから、私も今はっきりとアドバイスできるのは、そのことですね。