高齢期の喪失は、解放の喜びに変えられる。/川口 雅裕
人は高齢期に、さまざまな喪失を経験します。おおまかにいえば、「体力や身体機能」「人間関係(配偶者や友人を失ったり、職場の仲間との関係が切れたりする)」「仕事や収入」「役割や立場(果たさなければならない、仕事や子育てや家事などにおける使命)」の4つが挙げられます。そして高齢期には、これらの喪失に適応していくことが重要であるとされています。
しかし、考えてみれば、例えば「人間関係」を失うのが一概に痛恨かというとそうではありません。若い頃には、相性の悪い人や会いたくない人との関係もたくさんあったはずで、それがなくなるのなら、むしろ歓迎すべきことです。
同じように、「仕事や収入」を失ったとしても、仕事にはプレッシャーもあれば、気の進まない場面も少なくないでしょうし、家計を支えるために我慢を重ねた時期、結果や評価にガッカリするケースもあったはずです。「役割や立場」だって、自分に適性のある役割を喜んでやり続けてきたわけではなく、仕方なくやっていた面、または無理に自分を繕って、その役割を演じてきた面があるとすれば、それを失うことは、ようやく自然体で自分らしく生きられるようになったのと同じです。
つまり、高齢期の喪失には、「若い頃からずっと縛られてきたもの」から解放されるという面もあり、単純にネガティブに捉えるべきではありません。高齢期の喪失は、現役時代の束縛からの解放であり、自由の獲得であると理解することもできるわけです。主観的幸福感(生活全般に対する満足度)は40代後半で底を打ち、高齢になると上昇していくことがさまざまな調査から明らかになっていますが、これは、高齢になってさまざまな束縛から逃れた結果であるとも考えられます。
最近は、束縛から解放されただけでなく、もっとシンプルで身軽な暮らしを求めて積極的に行動する高齢者が増えています。
例えば、「今年をもちまして、新年のごあいさつ状を最後とさせていただきます」という年賀状を目にするようになったのも、人間関係や、やらないといけないことを定年退職などで自然に喪失するだけでなく、自分から意図して、積極的になくしていこうとする行動です。
現役時代に、定期的に出席していた会合や飲み会に出るのをやめるようなケースもそうで、心から楽しいと思えるような場でなければ、義理やお付き合いで顔を出すようなことはやめる高齢者が多くなってきました。
同様に、大きな一戸建て住宅から、高齢者向けのシニアマンションなどに住み替える人たちの動機の一つは、部屋や庭の掃除、使わなくなった家具や荷物の維持管理という煩わしい仕事をなくすことです。高齢女性が、夫の世話をする仕事から解放される「卒婚」を望む人がいるのも、自分の中から「妻」という役割を減らそうという部分において、意味は同じです。
若い世代からはネガティブに感じられる(あるいは同情を持って見られる)ような「喪失」を、まずは、「年を取れば当然に訪れること」として受け入れ、次にそれを「解放や自由の獲得」として異なるフレームで捉え直し、さらなる解放と自由を求めて、モノ・人間関係・仕事・役割などを積極的になくそうとする――。こうした人たちの話を聞いていると、必要なものと好きなことしか自分の周りにないような“身軽な状態”をつくって、長い高齢期を楽しもうという意思を感じることもあります。
もちろん、高齢期は喪失するばかりではありません。語彙(ごい)や鑑賞力、表現力は、創作している俳句や短歌、絵画、書道、写真などを見ると衰えるどころか、能力は発達し続けることを実感します。高齢者の皆さんと講座やセミナーでお話をする機会がありますが、参加者の学ぶ意欲は多くの若い人たちの比ではありません。また、経験に基づいた知恵や物事を洞察する力はもともと高齢者の強みで、若輩がかなう部分ではありません。
このように見てくると、私たちはどうも、「若い頃にはあったのに、年を取ると失ってしまうものは何か?」ということばかり考えてきたように思います。そうすると「喪失」に焦点が当たってしまうのは当然で、高齢者を「いろんなものを失っていくだけの弱者」と見なしてしまうでしょう。高齢者自身がこの問いに答えていると、自分を弱者としか思えず、どんどん自信がなくなってしまいます。
先述した、自由や身軽さを求める高齢者たちはそうではなく、「若い頃には縛られていたのに、年を取ると消えてしまうものは何か?」「若い頃より、できるようになったことは?」「年を取らないと分からないことは何か?」といったことを考えているのではないかと思います。そうすると、解放や自由、発達する能力や自分の強みに焦点が当たってきます。高齢者だけでなく、若い世代も高齢期をポジティブに捉えられるようになるのではないでしょうか。
(川口雅裕 公式サイト )
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