サブカルチャーの秋風の寒さ/純丘曜彰 教授博士
ハイカルチャーに対するはサブカルチャーだが、世界大戦後、これがポップカルチャーとなることで、前者をしのぐ地位を得た。前者は、伝統に連なるが、後者は、大衆と繋がる。目先、カネになるのは、後者だ。伝統はカネを出さないが、大衆はカネを出す。
そして、儲からないことをやる意味は無い。それで、この潮流がアカデミックな世界にも入り込んで、いまや大学もポップカルチャーだらけ。そのうえ、文化に対する価値基準そのものがポップになって、おもろない、売れてない=くだらない、いらない、となる。それで、カネにもならんハイカルチャーなんか大学で止めたらええ、とまで。
きっかけは、19世紀末以来の富国強兵の義務教育。字も読めん、計算もできんようでは工員や兵士としても使えん、ということで、とにかく国民全員を強制的に徹底して教え込んだ。かといって、教科書なんかがおもしろいわけがない。とはいえ、ややこしい歴史的伝統背景の基礎知識が無いとわからないようなものなど、歯が立たない。そのわりに、工員や兵士には、待ち時間がやたらある。そこで、暇つぶしの娯楽としてのサブカルチャー産業が爆発的に流行した。
いわゆるパルプフィクション(ザラ紙雑誌物語)だ。SFやミステリなどの単純な勧善懲悪物語になっていて、おなじみのヒーローがとりあえず勝ってすっきりするが、また次なる危難の影が、でひっぱるというもの。これが映画館のBムービー(短編を組み合わせるプログラム映画)となり、戦後、そのまま雑誌の連載マンガやテレビの細切れ番組へ。徴兵や進学、就職でそれぞれの本来の地元の伝統文化から切り離された若い世代は、これが新たな共通話題となった。
続きものではあるが、制作順どおりに配給できるとはかぎらない。そのために、それぞれのエピソードは一話完結で、伏線はその中で回収解決するのが原則。ところが、それでもエピソードが累積すると、複雑に入り組んだ、ひとつの物語世界を確立していってしまう。過去のいきさつとの辻褄合わせ(コンティニュイティー)で、展開の幅が狭められていく。もしくは、やたら登場人物や舞台世界が広がって、物語としての焦点が散漫としてくる。おまけに、一部のカルト的なマニアがやたらマウンティングしたがるものだから、もはや新規のファンが参入せず、ブームも去って、やがて打ち切り。もしくは、いったんシリーズを全チャラにしてリセットし、パラレルワールドだのなんだの理屈を付けて、また新しいシリーズに切り替えなければならなくなる。
この結果、サブカルチャーというのは、きわめて世代限定的にならざるをえない。同じタイトルでも、世代によって知っているシリーズ、その世界観がまったく異なる。まして、一時期に爆発的にヒットして、心酔した若者が多くいたとしても、その後の世代からすれば、見たことも、聞いたこともない、なにがおもしろかったのかさっぱりわからないし、いまさらそんな古くさい、カビたようなシリーズをアーカイブで見直すより、最新のサブカルチャーのほうが、洗練されている、ということになる。
つまり、世代は、そのサブカルチャーとともに捨て去られる。いまさら、『あしたのジョー』のラスト、知ってるか? などと、全学連残党の老人に話しかけられても、辟易する。いや、以前に、大半はまったくなんの話かすら理解できないだろう。そして、それは、『ヤマト』でも、『ガンダム』でも、『エヴァ』でも、同じこと。当時、ある世代がそれにいかに心酔熱狂していようと、そんな昔語りは、いまや時代背景も世代心情も違いすぎて、聞かされる相手は呆けるばかり。
そればかりではない。そのサブカルチャーも、もともとしょせんきわめて局所的な大ブームだった。たとえば、雑誌の『ビックリハウス』などと言っても、渋谷系限定で、全国の大半の人々は知りもしないだろう。『ヤマト』も、日テレ系未開局で放送されなかった熊本県民などは蚊帳の外。同様に、日本でなんぼのものでも、ナードな日本マニアのほかは、世界では誰も知らない。世界的に大ヒットしたゲームキャラなどでさえ、世代が変われば、世界的に忘れ去られる。
若者は、いつの時代も、どこの国でも、世間知らずで、自分たちが最先端にいて、その文化がやがて世界を席巻するにちがいない、と素朴に信じている。だが、そんなものは、次から次に生まれてくる。そして、老人老婆が舟木一夫の『高校三年生』に涙するのについていけないように、おっさんおばさんのサブカル語りも若い世代からすれば、ただ寒いだけ。儲かった、まだ儲かる、若い連中が再発見して大ブームになるぞ、などと言って、法外な資金と労力を集めてリメイクをしかけてみたところで、それは老いた熱狂カルト残党がふたたび世間にマウンティングできると勘違いした夢の野望にすぎない。
つまり、サブカルは、爆発的だが、局所的で寿命が短い。もちろん、それを後生大事に生きていく、というのは、その人の勝手だが、そんなものに限られた社会資源をいくら注ぎ込んでも、再ブームなど起きない。それについていまさら語ったところで、いまの若者は、自分たちのことで忙しい。
儲けを追求する資本主義とともに、どこの国でも、ローカルで世代限定的なサブカルだらけで、いまや世代を超え、地域を越えて共有されるべき人類としてのハイカルチャーなど、息も絶え絶え。『ハムレット』や『ハックルベリー』『老人と海』など、読んだことも無い「大学生」が世界中に溢れている。もともと大学は、大衆であっても「クラス」に入りたい、せめて垣間見たい、という学生が集うところだった。しかし、デジタル成金などの登場で「クラス」が壊れてしまえば、そのクラシックなハイカルチャーも成り立たず、そもそも「クラス」に仲間入りして、人類の文化伝統へ参与してみたい、などという学生も出て来まい。
いま、どこの国でも、経済格差が固定化しつつある。そこから、人類の文化伝統に連なる新たな「クラス」が生まれるのだろうか。それとも、それを嫉妬して憎み、断絶を旗印にした成金ポップのサブカルが群雄割拠の流動激変となるのだろうか。しかしまた、反動的に、むしろそういう先鋭的な成金ポップのサブカルを徹底的に憎悪したナチス的な急進的伝統回帰の暴政が荒れ狂うことになるのか。世間がどうあれ、大学くらい、ひっそりしずかにおだやかにハイカルチャーを楽しめる場所が残ればいいのだが。