均等法第一世代の女性たちが定年を迎える年齢に達している。この法律は、女性に何をもたらしたのか。窪田礼子さん(仮名)は男女雇用機会均等法が制定された1985年に就職。入社1年目にお茶くみの廃止と制服の撤廃をやってのけた。女性の負担を和らげると信じて実行したことだったが、かえって女性から批判を受けることになった――(1回目/全2回)。
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■採用されるのは「広告主のお嬢さん」だけ

目の前に座る女性は、端正な服に身を包み、やわらかな笑みをたたえていた。休日の朝とは思えない、隙がない装いだ。窪田礼子さん。対面した瞬間、手元のブレスレットの美しさに目が吸い寄せられた。

「これは私がデザインしたもので、長さが調節できるんです。残念なことに、商品化には至らなかったのですが」

窪田さんは、ラグジュアリーブランドのデザイナーだ。60歳を過ぎた今は、再雇用でありながら責任のあるポジションに就いている。

グラフィックデザインの仕事に就きたいと思っていた窪田さんだが、今の会社を選んだのは、1980年代半ばに存在していた就職における厳然たる男女差別と、“イエ制度”を重視する厳格な父への“忖度(そんたく)”からだった。

「最も行きたかった大手広告代理店は、女性を採らないという暗黙のルールがあり、涙をのみました。女性を採るとしたら、広告主のお嬢さんという時代でした」

窪田さんと同世代の私にはわかる。当時、就職には見えない壁があった。「四年制大学を出た地方出身の女子は採らない」のもそうだ。

■このままでは見合いで嫁に行かされる…

そしてもう一つ、窪田さんを縛っていたのが実父の封建的な考えだった。

「“イエ制度”の憲法の下で育った昭和一桁生まれの父は、“家”をものすごく重視し、自身はサラリーマンで継ぐべき家などないのに、私の兄を当主であり、後継ぎだと言っていました。女の私は見合いで嫁に行かされることがわかっていたから、就職は絶対に東京に行こうと……」

広告の次に興味があったのはファッションだったが、父が「何処の馬の骨ともわからない」と難色を示したため、ラグジュアリーブランドを傘下に収める企業への就職を決めた。

「父への反発、男女不平等への怒りはありましたが、親と決別してまで貫くという気持ちはなく、万事丸く収まる方法として選んだ就職先でした。住宅手当も出て、自分の技能を生かしデザイナーとして働けるのだからと」

■給料が8000円も低いのになぜ就業前30分の掃除を…

社会人1年目は1985年、男女雇用機会均等法の施行を翌年に控えた時期だった。

窪田さん自身、男女差別がない企業だと思って就職したのだが、ふたを開けてみれば全く違った。

「デザイナーは男女いたのですが、女性の給料は男性より8000円安いという設定でした」

初任給の平均が15万円に満たなかった時代に、この差は大きい。さらに驚いたのが7月、正式に配属先となった部署の係長から「女性は30分早く出社して、掃除とお茶くみを」と言われたことだ。

「私、そこで瞬間湯沸かし器のように、怒りが込み上げてしまいました」

窪田さんは、上司に真っ向から反論した。男女雇用機会均等法が翌年に施行されるというのに、時代錯誤も甚だしいではないか。

「何、言ってるんですか? 8000円も給料が安いのに、なぜ女性だけ30分も早く? それも無給で掃除……。お茶くみなんて絶対にやりません。自分で好きなものを入れたらいいんじゃないですか!」

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後から聞いたところによると、このことは大騒動となり、その日のうちに電話で全社の女性社員に知れ渡っていたという。

「自分たちがやってきたことをやらない、わがままな新入社員だと、反応のほとんどがネガティブなものでした」

■会社中に女性の敵をつくってしまった

窪田さんの部署ではお茶くみは無くなり、犠牲を払った価値はあったと思うものの、要らない敵を会社中に作ってしまい、定年まで響いたと今は思う。

窪田さんはお茶くみを拒否したことによるいじめを、長い期間にわたって受けてきた。

「私に来客中で、手が空いている人にお茶を出してほしいと言うと『窪田さんはお茶入れをしないんだから』と強く拒否されたり、虫の入ったお茶を出されたりもしました。お金がかかった嫌がらせもありました。

ある日、ひとりの先輩女性Aが、一個1000円近くするデザートを所属部署の人数分買ってきました。そして紅茶も入れて全員にサービスして回り始めました。皆、不思議がりました。ふだんそんな習慣はなかったからです。Aは『おいしそうだから皆さんにごちそうしたくなって買ってきたの』と言うばかり。

そしてAは私の席に近づくと、私にもそのデザートが乗った皿を差し出しました。私が思わずそれを受け取ると、Aはにっこりと笑って『あなたはお茶はいらないわよねぇ?』と、周囲にも聴こえるような大きな声で言い放ったのです。

ここまで手の込んだ嫌がらせをするのかと、ばかばかしくて、笑ってしまうような出来事です。これまで自分たちはずっとお茶を入れて掃除をしてきたのに……と、被害者意識が間違った形で歪んで、自由に振る舞う女性に向かう。だから女性同士のネットワークが育たないんです」

女性の負担を減らすことをしているのに、なぜその女性に敵視されてしまうのか。それは、会社の体質によるものが大きかった。

■8割が女性の会社で女性管理職は一人もいない

次第に窪田さんに、会社の内実が見えてくる。8割が女性という会社なのに入社当時、管理職には女性が一人もいない。女性が身につける装飾品なども数多く扱う企業でありながら、実際に牛耳るのは男性社員という、揺るぎない構図があった。

「大半が、お坊ちゃまなんです。それも、“鶏口牛後”の人たち。良家のボンボンで父親が社長だけど家業を嫌がったり、次男だったりして会社を継げない人が入ってくる。競争相手になる男性社員が少ない会社なら上に行けるからと。プライドだけはあるけど、仕事への熱量が低い、せこい考えの人が多かったですね」

女性が身につける商品の開発には女性の意見やアイデアを重用するという考えは、社内にはない。彼らの言い分はこうだ。

「財布は男が持っている。払うのは男だ」

窪田さんの口からため息が漏れる。それは長年、そういう男性を見てきたからだ。

「男の人は女というものを否定するためには、どんな小さいことでも見つけてきますから」

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■「白馬の王子様を探しにきているんだから、邪魔しないで」

一方、お茶くみ廃止に過敏すぎるほどのアレルギーを示した女性社員の内実も見えた。

「デザイナーは募集をかけて面接をして採用しますが、他の社員はほとんどが顧客の娘。あるいは、有名企業の社長令嬢のお預かり。結婚するまでここで働いていたという、お見合いに箔(はく)をつけるための入社。実際、縁故を使って入っているのに、簡単に辞めますよ。生活するために就職する人がほとんどいなくて、私は例外的な存在でした」

だから女性たちから、窪田さんへのブーイングが起きたのだ。結婚する目的のためだけに就職した女性にとって、フェミニズム的行動はマイナスでしかない。目の上のたんこぶであり、邪魔でしかない。

「実際、ある先輩から『私は白馬の王子様を探しにきているんだから、邪魔しないで』と言われましたね」

同じ言葉を繰り返し浴び、窪田さんは悪いのは自分なのかと苦しくなっていったという。そんな時は社外の人間関係をつくることで、かろうじてバランスを取った。

「外国人が集まるコミュニティーで話を聞いてもらって、『それおかしいよ』って言われることで、やっぱり、私、おかしくないんだって思い返していました」

■制服の撤廃に取り組む

お茶くみ廃止だけでなく、窪田さんは入社1年目の身でありながら、女性差別的な慣習にさらに切り込んでいく。それが、制服の撤廃だ。店頭での制服は店の演出手段だから容認できるが、窪田さんが問題視したのは、非営業職の女性の制服だった。女性だけがベストとスカートというお仕着せの制服を着用しなければならなかった。

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お茶くみ騒動で懲りたので、今度はもっと上手にやった。それが、顧客からの指摘をきっかけに上層部に訴えかけることだった。

「地方の催事でご一緒した顧客が、東京に行くのでそのときに相談したい案件があるとのことでした。東京での私は会場と違って制服を着ていますから、同じ方と思えず、がっかりしたと。この話を上司にしました。顧客から言われたということで、あの時はすぐに要望が通りましたね」

■総合職となり、デザインの仕事から離れる

1986年、男女雇用機会均等法が施行された。これにより、男女間の給料格差は無くなった。窪田さんは、総合職・第一世代となった。

「総合職制度というのは均等法施行後すぐに、うちでも導入されました。デザイナーは全員、自動的に総合職になったのですが、『あなたは総合職になったのだから』と、望んでもいないのに別の部署に異動させられたんです。デザイナーなのに、苦手な事務仕事です」

なぜ、この仕事をするのかと上司に詰め寄ったが、答えは「あなたは、総合職だから」。

社内を見渡せば、販売スタッフで総合職になった人が転勤を急に命じられたり、総合職を嫌い、給料は下がってもあえて「一般職」を選ぶ人もいた。確かに均等法で男女同一賃金となり、給料は上がったものの、窪田さんの実感はハッピーでも、バラ色の未来を思い描けるわけでもなかった。

「総合職を作ったけれど、会社が社員を思い通りに動かして、実態としては男女の機会均等というより、会社に利用されている感じでしたね」

■結婚生活は数年で破綻を迎えた

20代の頃に、窪田さんは年下の男性と結婚した。その結婚は数年で終わるのだが、うまく行かなくなったきっかけの一つに夫婦の年収格差があった。

「年収の差が300万円くらいありました。私の給料に対してすごくコンプレックスを抱いてしまって、ギクシャクし始めました」

加えて、当時の働き方がめちゃくちゃだった。総合職になってから、労働時間に残業という概念が無くなった。

「毎日、夜中まで働いていました。労働時間がものすごく長いし、言われた通りにやらないと人格を否定するようなパワハラを受けるので、もう、やらざるを得ない。一度、あまりにつらくて逃げ出したことがあるのですが、やっぱり言われたことをやるしかないと思い、毎日、夜中にタクシーで帰っていました」

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■離婚し、多額の借金を背負う

お互いの生活時間がバラバラで、結婚生活がうまくいくはずもなかった。夫は会社でトラブルを起こして失踪、家のローンの支払い全額が窪田さん一人の肩にのしかかった。

「仕事がつらくても転職を考えなかったのは、この借金があったからです。転職なんて、到底できませんでした」

男女雇用機会均等法・第一世代である窪田さんに、同法がもたらしたのは何だったのか。

「メリットというのは、しばらく感じませんでした。望んだ部署ではなかったので。メリットを感じたのはずっと後、入社20年ぐらいですね。いろいろな経験をさせてもらった、デザインだけでなく、マネジメントの仕事もやりましたし。何でこんなしんどい仕事をやらされるんだろうって思ったけれど、逆にこんな貴重な体験はないとも思えるわけで、要は自分の捉え方次第なのだというのは、今にして思えばありますね」

確かに、給料は上がった。元夫よりはるかに稼ぐ女となったわけだが、そこに窪田さんの幸せはなかったと言っていい(後編に続く)。

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黒川 祥子(くろかわ・しょうこ)
ノンフィクション作家
福島県生まれ。ノンフィクション作家。東京女子大卒。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち』(集英社)で、第11 回開高健ノンフィクション賞を受賞。このほか『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』(集英社)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『シングルマザー、その後』(集英社新書)などがある。
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(ノンフィクション作家 黒川 祥子)