【現地へ行ってみた】平安時代、武将・鎌倉景正によって開発された神奈川県藤沢市大庭周辺を散策

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藤沢市大庭には、「大庭城址公園」という大きな公園があります。この辺りは、縄文や弥生の住居跡などの遺跡なども見つかっており、古くから人が住んでいた土地だったということがわかります。

平安時代、元々この辺りは鎌倉景正(かまくらかげまさ)という人物によって開発されました。

鎌倉景正「絵本写宝袋武者尽」より

その範囲は広く、相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)一帯に及びます。

敷地内には、景正が馬を繋いだとされる臺谷戸稲荷(だいやといなり)があります。

1166(永久4)年頃になると景正は、自分の開発した地域を「大庭御厨」(おおばみくりや)として伊勢神宮へ寄進しました。いわゆる“寄進地系荘園”です。

これにより、景正の開発した地域は伊勢神宮の庇護をうけ、納税の必要がなくなっただけではなく、国司の派遣した役人なども容易に踏み込ませなくすることができるようになりました。

莫大な土地と権力を手中に収めた景正の子孫は代々大庭氏と名乗り、この土地に土着しました。

保元の乱以降、大庭氏は源氏の配下となり源義朝の元で活躍していましたが、その際、大庭景義が「無双の弓矢の達者」と名高い敵方の将・源為朝に膝を射ぬかれてしまいました。

これによって、景義の弟である大庭景親が家督を継ぐことになります(景義・景親は景正の曾孫にあたります)。

景義はその後、源頼朝の挙兵を受けて石橋山の戦いにも参戦します。一方、弟の景親はというと、1159(平治元)に源氏方の武将として平家に捕らえられた際、平清盛に命を助けられたことを恩義に感じ平家方につきました。

その結果、兄・景義と弟・景親は敵味方同士で兄弟で争うことになります。この戦いで景親は平家方の総大将として奮戦し、源氏方を破りました。

ところが、再挙した頼朝が富士川で平家軍を破ると,景親は源氏方によって捕えられます。この際、二人が兄弟であることを把握していた頼朝は景義に「助命嘆願をするか」と打診しますが、景義は、これを断ります。

その結果、景親は、頼朝に命ぜられた兄の景義によって固瀬川辺で斬首されてしまうのでした。

現地を歩いてみると、さすがに伊勢神宮に寄進していただけのことはあるのでしょうか、「皇大神宮」がありました。

大庭城から10分ぐらい歩いた場所にお寺がありました。お寺の名前は宗賢院といい、北条早雲の命により、虚堂玄白によって開山された曹洞宗の寺院です。山号は、蟠龍山。

1649(慶安2)年、徳川三代将軍家光から十石の朱印地を賜り、二世から四世までの間に末寺17ヶ寺が創建されたといいます。本堂前には、「竜骨堂」と呼ばれる建物があり、堂内に祀られている竜骨には、雨乞いの霊験があるといわれています。

寺宝として、大庭景親の陣釜とされる茶釜や、面山老師自筆の『相州養命寺記』一巻、「相州大庭荘」の扁額がなどが伝えられており、この寺院の裏手に大庭景親の居館があったと推定されています。

ちなみに現在、茅ケ崎市にある神明大明神には、大場景義が居城にした懐嶋城址と景義の像が残っています。この辺りの歴史についても、いずれ深く掘り下げたいと思います。

参考

鎌倉市史編纂委員会『鎌倉市史』総説編(1959 鎌倉市)