純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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それは、いまからちょうど半世紀前の1972年秋、突如としてベストセラーに躍り出た。本そのものは、それより二年も前、さんざんあちこちの出版社で断られた挙げ句、1970年にわずか3000部が刷られたのみで、当初、まったく話題にもなっていなかったのだが、その後の口コミで増刷が続き、73年の映画化とあいまって、74年末までに米国だけで1500万部、全世界で、4000万部を売り上げる。

1970年代初頭、人類が月に到達する一方、ベトナム戦争はアジア各国まで巻き込んでいよいよ泥沼化し、米国内も、共和党が民主党を盗聴しようとした72年のウォーターゲート事件でニクソン大統領が引きずり下ろされるなど、混迷を極めていた。しかし、LSDでサイケに陶酔して反体制反戦を唱うヒッピーカルチャーも、すでに70年にビートルズが仲間割れで解散したように、大量の逮捕者を出した71年のメーデー集会ピークに、すでに時代遅れとなりつつあり、むしろ虚無的な気分が漂い始めていた。

そんな時代に、この本は、人々に受け入れられた。しかし、書いたリチャード・バック(1934〜)は、当時すでに38歳。終わりゆく時代の中で、この本に心酔した世界の若者たちとは、そもそも世代が違う。当時の読者たちは、なにか読み間違っていたのではないか。実際、ブーム当時の書評などを見るに、ニューエイジのカルト救世主物語、などと、強引にヒッピーカルチャーの文脈に埋め込んで、わかったかのように騙っている。

たしかに、全体に新約聖書のオマージュめいた部分は、あちこちにある。だからと言って、それを根拠に、救世主物語がメインプロットだ、と決めつけるのは、評論の僭越だろう。むしろ、『ジョナサン』の反復のような、バックの次の作品『イリュージョン』(1977)などを読むと、著者のバックが、救世主などというものにかなりシニカルな見解を取っていることがわかる。

そして、ブームが去ってから40年もたって、バックは2014年、電子書籍で第四部を追加公表する。バックによれば、この第四部は以前からあったが、当時、公表しなかった、とのこと。この部分のラッセル・マンソンの写真も揃っていることを見ると、たしかにあながちまったくのウソとも言い切れない。

しかし、前後の事情からすると、この部分は、もともとは、かってに救世主物語と誤解して熱狂した読者たちに嫌気して、バックが72年以降に書いたエピローグだったように思える。ただ、それを改版で追加することをマクミラン社の辣腕編集者エレノア・フリードに拒絶され、それで次の『イリュージョン』の執筆となったのではないか。実際、あんなシニカルなエピローグが追加されていたら、本が売れなくなるどころか、なまじ熱狂した読者たちから徹底的な反発を買っていただろう。

きちんと読みたければ、原書が必須だ。というのも、自分で「創訳」などと言うように、邦訳者は、団塊世代のフロック(群れ)の寵児で、米国の熱狂読者と同様、そのヒーローとしての救世主物語を勝手に読み込んでしまっている。そもそも『かもめのジョナサン』などという邦題からして、どうなのだろう。「○○さん」という日本語の響きが良かったからだろうが、原題は『ジョナサン・リビングストン・シーガル』。飛行機乗りの著者バックが私淑するジョン・リビングストン(1897〜1974)という、戦前の天才的エアレーサーにして、1500人もの空軍パイロットを育てた人物にちなんだ名前だ。そして、原題では「シーガル」が、より大きなファミリーネームになっている。

そもそもこれを「かもめ」と日本語にしてしまうと、肝心のニュアンスが落ちる。英語で「ガル」と言えば、騙されやすいまぬけ野郎、のこと。意訳するなら、アホウドリ、だ。食うものも食わず、ひたすら飛行訓練に明け暮れるすっ飛びバカのジョナサン。それも、うまく飛んだら、みんなにほめられる、尊敬される、などと期待していた。

ところが、生きるために飛ぶだけ、それ以外の余計なことをやるなんて、危険で無責任だ、と、親からも群れからも見放され、「ファークリフ(遙かな崖)」に追いやられてしまう。こうして、ようやく本当のジョナサンの物語が始まる。それは、徹底して「アウトキャスト」、群れから捨てられた者、の話。

しかし、ここからがすっ飛びバカのバカたる所以。フロック(群れ)から追いやられて、ファークリフで打ちひしがれるかと思いきや、ジョナサンは、もはやなんの掟にも縛られず、いよいよ自由に飛行訓練を楽しむ。その磨いた技術で、海の底の魚を捕り、陸の奥の虫を食べ、鳥目にもかかわらず夜の大洋をも渡り越え、まったく困りもしない。

ただ老いは感じていた。もう若くはない。衰えさえも自覚している。ところが、そこに「グレード・ガル」、大バカ・ファミリーの兄弟二羽が迎えに来る。表題に連記されたシーガルは、ファミリーネームなのだ。そして、彼らは「グレート・マウンテンの風」を越えて、わずかな仲間たちが切磋琢磨する海岸へと導く。

ジョナサンは、これが天国か、と思ったが、そうではない。ジョナサンはわずか数年でここに至ったものの、そこは本来はファミリー(類)として数千年をかけてたどりつくべき所。それも、ここは終着点などではなく、ここで学ぶことで、さらにまた次の世界へ旅立つべき所。

では、ここで学ぶべきこととは何か。ジョナサンは、エルダー(長老)ガルのチャンに聞く。チャンは、それを説明しようと、時空間の瞬間移動をしてみせたものだから、ジョナサンは、それが学ぶべきことと勘違いして、すっかりそんな高等技術の虜になってしまい、それを身につけていく。だが、やがてチャンは「飛ぶことの意味、愛に取り組み続けよ」と言い残して、次の世界へと消えて行ってしまう。

その後も、ジョナサンは飛行訓練を重ねるが、チャンのように次の世界へはシフトできない。彼の飛行には「愛」が無い、意味が無いのだ。ただ飛ぶだけ。どこまでも飛ぶだけ。この飛行を、想像力、芸術、科学、経済、政治、等々、なんと言い換えてもいい。ただむやみに飛ぶだけ、野放図な想像力、芸術、科学、経済、政治、等々、その技術ばかりが向上し、規模のみが拡大しても、なんの意味もない。それどころか、ただ膨張に膨張を重ね、やがて自滅的に破綻するだけ。

飛ぶことの意味、愛について考え、それを求めて、ジョナサンは、帰ることにする。しかし、それは、彼を放逐した群れに戻る、ということではない。むしろ、彼と同様に群れを放逐されたアウトキャストを導くため。実際、「ファークリフ」には、アウトキャストされたフレッチャーがいた。そして、その後も、そのようなアウトキャストの若者たちを仲間に取り込んでいく。

彼は言う、我々ひとりひとりが、グレート・ガル(大バカ者)という思想の一部だ、と。そして、彼は、ある日、彼と彼らを追放した群れへ行くと言い出した。若者たち七羽も、これに付き従ったが、四千羽の群れは、当初、この追放という掟を破った者たちに、無視を決め込み、無視を破る者も追放する、と宣言した。しかし、ジョナサンたちは、ただ、自分自身、つまり、それぞれの中のグレード・ガルを気づかせるだけ、と嘯き、いつものような飛行訓練を続けるだけ。果たして、それが群れの中の幾羽たちの心を捉え、みずからアウトキャストに甘んじて来る者も出てくる。そして、やがてジョナサンは、フレッチャーに、他の群れにもまだ多くいるアウトキャストに思いを致す愛を求め、消えていく。

ここで初版は終わっている。フレッチャーもまた、アウトキャストへの愛を求め、また、次のフレッチャーが出て、ファミリー(類)としてのグレート・ガルが、絶えることなく飛び続ける、という終わり方だ。しかし、これが、「愛」を問うチャンの課題に対する答えなのか。個としてではなく、類として生きる。それがフロック(群れ)であろうと、フロックを嫌うエリート(すっ飛びバカ)の集団であろうと、結局のところ、ただの全体主義への逃走ではないのか。

もともとこの物語は、救世主イエスを描いた新約聖書以上に、その新約聖書をオマージュしたニーチェの『ツァラトストラ』に似ている。とくに『ジョナサン』の第二部から第三部かけて、「山」を降りてフレッチャーに会い、群れを挑発するところなど、『ツァラトストラ』第一部そのままのプロットだ。だとすれば、『ジョナサン』のエピローグが、『ツァラトストラ』第二部をなぞることになるのは、当然だった。

いくら本が売れ、一大ブームになっても、バック自身、この第三部の自分自身の答えには納得していなかっただろう。評論家の批判を待つまでもなく、結局のところ、ジョナサンとそのアウトキャストの弟子たちが新たな排他的なフロック(群れ)、カルトを作っていくだけの話なのか。この本に熱狂する読者たちは、そもそもアウトキャストなのか。むしろフロック(群れ)に甘いエサを撒いて、それを喜んでついばむ連中を作り出しただけではないのか。

だから、加筆されたエピローグ(後の第四部前半)では、飛ぶことの意味を考えるどころか、曲芸的な飛ぶ練習しかしない、それどころか自分で飛びさえもしないで、歩いてジョナサンの集会に集まってくるバカモメたちが描かれる。おそらく、それこそが、バックから見たブームのさなかの読者たちの狂騒だったのだろう。ジョナサン、そして、チャンが問いかけた謎に、自分で答えようともせず、ただ本を買って、それを読んで、鼻を高くする連中。

リビングストンは人名だが、もとは地名だろう。同様に、ヒューストンやボストンなど、○○ストンというのは、特徴的な「石」のあった地名に因んでいる。つまり、リビングストンという名前は、そのままに意を取れば、生きた石、ということだ。それは、アウトキャストとして捨て石だが、それがアウトキャストを救う生き石にもなる。そんな両義性をわかってか、わからずにか、ジョナサン教団の信者、バカモメたち、つまり、この本の読者たちは、けっして自分自身では高く飛ぶこともなく、ただ美しい小石を拾ってきては、それを落として積み上げ、各地に塚を築く。それはまるで、迫害の苦難の中で芸術や科学などの道を切り拓いてきた天才や英雄をいまさらながらに美辞麗句で礼賛する偉人伝全集のようだ。

いくら著者の希望であろうと、こんなシニカルなエピローグを、大ベストセラーの改版に追加する編集者などいるわけがない。本が売れなくなるというだけでなく、実際、ここまでであれば、わざわざ改版するほどの魅力あるプロットではないからだ。ニーチェの『ツァラトストラ』にしても、ここから、七転八倒して、長々と第二部、第三部、第四部まで彷徨することになる。飛行として象徴を絞り込むことで先鋭的にメッセージを打ち出した『ジョナサン』には、そんな思想的な展開を繰り広げるほどの力は無い。かくして、このエピローグはお蔵入りとなった。

バックも、その後、一連のニーチェ風の壮大な幻想物語にひたったが、2000年代になると、擬人的フェレットたちを登場人物として、自分でイラストを付けた生活感のある短編集を楽しんで出していた。ところが、2012年に瀕死の墜落事故を起こす。この体験が、放置されていた『ジョナサン』のエピローグを第四部として改めて完成させることになる。

だから、もともとのエピローグに新たに加筆された第四部後半は、その前半とプロットも文体も大きく違っている。話も、エピローグのジョナサン教団の確立から、いきなり200年後に飛ぶ。そこで、アンソニー・シーガルが教団地域学鳥に問い質す、なんでこんなことをやっているのか、と。すると、地域学鳥は、その名を聖とされたる大ガル・ジョナサンは、飛行こそ生きることの奇跡であると、と答えようとするが、アンソニー・シーガルは、それを遮り、生きることは奇跡なんかじゃない、ただの無意味だ、それに、あんたのジョナサン・シーガルは、時速200マイル(320キロ、ジェット旅客機の離陸速度)で飛んだだって? それなら、それを見せてくれ、そんなのはおとぎ話だ、と言い出す。

キリスト教を知る者なら、この懐疑に「ヨハネ福音書」20:25を想起するだろう。イエスの復活を聞いても、ただトマスだけは、イエスの脇腹の槍傷に指を突っ込んでみないかぎり、そんなことは信じない、と言い張った。また、ここでわざわざアンソニー・シーガル、ジョナサン・シーガルと、同じファミリーネームを共有させている。ジョナサンは聖別されているのではなく、アンソニーと同じグレート・ガル(大バカ者)の兄弟だ。

ニーチェよろしく、神は死んだ、死んでいた、いや、そもそも存在さえしていなかった、とばかりに、アンソニー・シーガルは、無意味に生きることに絶望する。だが、しかし彼はまた、そこに答えを可能性を見出し、それに賭けた。死ぬ前に、いちど時速200マイルで飛ぶというのを、自分自身で見てみることにしよう、と。そして、彼は2000フィートの上空から、海へ真っ逆さまに急降下する。ところが、そのとき、なにかが、もっと速く、彼の横を追い抜いていったのだ!

飛ぶことの意味は、無意味な生きることに意味を与えることだ。飛ぶことの愛は、生きることを愛することだ。ほら、生きるのは、飛ぶのは、楽しいだろ、と、ジョナサン・シーガルはアンソニー・シーガルに言った。ただ、それは自分自身、時速200マイルで飛んでみようとするガルだけの特権なのかもしれない。