宮古市田老総合事務所の3階が三陸鉄道の新田老駅になっている(筆者撮影)

6月8日水曜日の昼下がり、宮古市内の海沿いにある休暇村宮古から、津波被災地を公共交通機関でたどる旅を再開する。


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ここは宮古駅前―宮古病院―田老駅前―岩泉小本駅前間を国道45号経由で走る岩手県北バスの幹線から分かれた、支線の終点にあたり、いったん13時40分発の宮古駅前行きで戻る形になる。田老方面へ乗り継ぐなら、ほほえみの里バス停まで戻ればよいが、地図を見るとかなりの迂回ルート。崎鍬ヶ崎で降りれば“本線”の崎山バス停まで歩いて5分ほどとわかって、変化をつけてみた。13時48分着、170円で、岩手県北バスでのSuica払いにも慣れた。

本数があるバス路線

次の目的地は、同じく支線のように系統が分岐している崎山ニュータウン。崎山13時55分発があり急げば間に合ったが、14時22分発もあるのであわてずに見送る。バス停名の通りニュータウン路線だが、それほど大きな規模の住宅街でもない。かなりの山間部に開けており、太平洋の遠望が美しかった。


岩手県北バスの崎山ニュータウンバス停付近(筆者撮影)

宮古駅前―崎山ニュータウン間のバスは下り9本、上り10本と比較的多い。どこでも自家用車は普及し切っているはずだが、小学校、中学校が沿線に立地しているので、通学需要が存在するのか。

時間があるので、民家の玄関先に標識だけあるような崎山ニュータウンバス停まで歩き、14時35分発の宮古駅前行きで戻る。わずか3分で国道に合流し、崎山貝塚で下車。運賃は150円で、道路の向かい側に移り、14時46分発の岩泉小本行きを待つ。

三陸と言えばリアス式海岸とのイメージがあり、実際、これまでも複雑な地形をたどるバスの乗り継ぎには苦労してきた。しかし、宮古から北の三陸地方の海岸は沈降海岸のリアス式ではなく隆起海岸で、海岸線には急峻な崖が連なる。鉄道や国道などは丘陵地を縫うように走り、海はなかなか見えない。人口は一部の湾沿いの平野に集中している。


崎山貝塚バス停に到着する岩泉小本駅前行き(筆者撮影)

岩泉小本行きも時々トンネルを抜けながら丘陵地を走る。宮古―田老間のバスは1日12往復、岩泉小本まで行く便は7往復あり、筆者が乗った便も昼下がりの時間帯ながら、5人の利用があった。

田老は、そうした湾沿いの平地にある町の1つで、2005年に宮古市と合併するまでは、独立した下閉伊郡田老町であった。広く太平洋へ向かって湾の入り口が開く地形ゆえに、ここは古くから何度も津波を被害を受けてきた。昭和の初めからは大型防潮堤の建設が始まり、1966年に全長1350m、高さ10mの、町を囲む堤防が完成。防災対策のモデルとまで言われた。しかし、東日本大震災の津波は防潮堤の2倍の高さに達し、中心部は再び壊滅してしまった。

三陸鉄道の田老駅

国が計画を進めていた前谷地(宮城県)―八戸(青森県)間の三陸縦貫鉄道のうち、宮古―田老間が国鉄宮古線として開業したのは1972年だ。国鉄時代は終着駅だったが、1984年には三陸鉄道へ移管され、同時に田老―普代間が開業して久慈方面とつながり、中間駅になっている。ホームは築堤上で、駅前には田老物産観光センターが建設され駅舎を兼ねていた。場所自体は町の南の外れに近いが、駅前には集落も形成されていた。


目立った建物がない田老駅前(筆者撮影)

14時57分に着いた岩手県北バスの田老駅前バス停は、国道から脇道に入った、まさに駅前で、崎山貝塚から320円。しかし今、公衆トイレ以外、周囲に目立った建物はない。すべて津波で流されてしまった。旧田老町の海岸沿いのエリアは、震災復興事業により公共施設または防災緑地などに変わっている。防潮堤も再建されたが、住民の多くは山沿いへ移転した。

田老駅の周辺には現在、神田川の谷間に残る集落と、歩いて15分ほどのところにある岩手県立宮古北高校程度しかない。乗降客の大半は通学の高校生だ。旧田老町の中心部は区画整理事業が実施され、宮古市の田老総合事務所も新庁舎へ移転することになった。その際、三陸鉄道の活用が図られ、田老からわずか0.5kmの距離ながら、総合事務所と駅を兼ねた建物が、新しい玄関口として設けられたのだった。地域に密着した第三セクター鉄道らしい施策で、これが2020年5月18日に開業した新田老駅だ。

ちょうど田老15時29分発の久慈行きがあったので、ひと駅乗ってみる。ゆっくりしたスピードでトンネルを1つ抜けると、わずか2分で到着。運賃は170円だった。新田老は駅としては1面1線だけ。ホームは新しい建物の3階にある待合室に直結している。もちろん冷暖房完備で、真夏や真冬にはありがたい。駅としては無人だが、1階、2階には行政機関や商工団体、宮古信用金庫の支店が入居しており、エレベーターも完備。1970年代の建設で薄暗い階段しかない田老駅より、よほど立派に見える。

新田老駅から歩いて5分ほどで岩手県北バスの田老中町バス停に行き当たり、15時58分発の岩泉小本駅行きで再びバスの旅に戻る。ここから北側の谷間には、新しい商業施設や住宅が建設されている。震災遺構のたろう観光ホテルを右手に見つつ、高台に建設された新しい山王地区の住宅街に立ち寄ると、3人ほどいた乗客は全員、降りてしまった。

海岸まで町域が広がる岩泉町

この先の路線も丘陵地を縫う国道45号を進む。三陸道が開通してから大型車はめっきり減っており、バスは順調に走る。三陸鉄道は長大トンネルで摂待まで抜けており、影も形も見えない。岩手県北バスと三陸鉄道リアス線は、並走はしているが、特に競合関係にはない。バスは鉄道駅から離れた地域の需要をこまめに拾い、鉄道は高校生などの集約輸送や、観光客輸送に当たっている。


岩泉町内を走る岩泉小本駅前行き岩手県北バス(筆者撮影)

このあたりの海沿いにはわずかに集落もあるが、公共交通機関は通っていない。例外が総合レジャー施設「グリーンピア三陸みやこ」で、すべての路線バスが立ち寄る。もっともここも観光客目当てというより、途中通る集落の便を図っていると思われる。元より閑散期の平日で人影はない。

浄土ヶ浜といい、休暇村宮古といい、三陸地方にはかなりの観光スポットがあるのだが、路線バス利用者は顧みられていない。グリーンピアの敷地内には仮設店舗がまだ片付けられず残っており、「仮設住宅前」とのバス停案内も車内に流れたが、空き地が広がっているだけだ。

摂待は海からかなり離れた狭い谷にある集落で、バス停は三陸鉄道の駅のすぐ脇にあった。すぐまた曲線が多い山道に戻り、宮古市と岩泉町の境を越えて、茂師でようやく海の景色を拝めた。

トンネルを1つ抜けると、いよいよ小本だ。ここは小本川の河口に広がる町だが、行政上は下閉伊郡岩泉町になる。2014年に廃止されたJR岩泉線が思い浮かぶが、終着駅があった山間部の岩泉が町の中心地。町域が海まで広がっているのだ。急峻な海岸沿いを通る南北方向より、小本川をさかのぼるほうが往来しやすかった事情がうかがえる。

田老から筆者を乗せたバスは16時47分に岩泉小本駅前着。610円かかった。ちなみに三陸鉄道だと、新田老―岩泉小本間は400円だ。この駅は内陸部にあって、津波の大きな被害を受けずに済んだが、震災後の2015年に新しい駅舎に建て替えられた。同時に小本駅から岩泉小本駅へと改称されている。


防災センターに建て替えられた岩泉小本駅(筆者撮影)

今は3階建ての小本津波防災センターとなっており、岩泉町小本支所、集会所、三陸鉄道・バスの待合室などが入居する。

バス乗り場は1階の屋根下にあり、天候に影響されずに鉄道から乗り換えられるのもいい。三陸鉄道ホームへの通路は2階だ。

列車内でバスの案内

路線バスは田老・宮古方面のほか、岩泉消防署前(旧JR岩泉駅前)―岩泉小本駅前―大牛内間の岩泉町民バスが乗り入れている。このバスは岩手県北バスと岩泉自動車運輸が受託しており、町内の観光名所の龍泉洞にちなんで、「ふれあい龍泉号」との愛称がある。三陸鉄道に乗っていると、岩泉小本到着直前の放送で岩泉方面のバスの案内が流れ、こちらでも地域密着が見られるのがいい。


岩泉小本駅前で発車を待つ岩泉町民バス大牛内行き(筆者撮影)

一方、岩泉小本駅からさらに北へ、田野畑村方面へ海岸に沿って向かうバスはない。三陸鉄道は通じているが、やはり長いトンネルを延々と走って抜けると、やっと駅があり、すぐまたトンネルとの路線だ。田野畑村にも村営バスがあるけれど、これが難物で、やむなく次回まわしにする。

実はふれあい龍泉号に乗り、終点の大牛内で降りると、そこは町村境のすぐ近く。田野畑村営バス「タノくんバス」の旧真木沢公民館バス停までは歩いて10分ほどとみられ、平日朝の7時15分発の1本のみバスがある。岩泉小本駅前6時07分発のふれあい龍泉号に乗れば、大牛内6時23分着。十分間に合いそうだ。ただし、海岸からは離れている。この記事の主旨はバス乗り継ぎではなく、海岸沿いの被災地の公共交通機関の実情を伝えること。このルートは取りやめ、素直に三陸鉄道で島越へ向かうよう決めた。

(土屋 武之 : 鉄道ジャーナリスト)