名将・オシム氏がレアルやバイエルンを断り、日本のジェフ千葉を選んだ本当の理由【2022上半期惜別】

5月1日にオーストリアのグラーツの自宅で亡くなった、元サッカー日本代表監督のイビツァ・オシム氏。その人物像を広く日本に知らしめたベストセラー『オシムの言葉』の著者・木村元彦氏と、長年、オシム氏の代理人を務めた大野祐介氏による追悼対談の後編。今回は、オシム氏が世界の名だたるビッグクラブからのオファーを断り、ジェフ千葉の指揮を執るために来日した真相が明らかに。

契約金にまったく関心のなかったオシム

木村 そもそも、大野さんがオシムさんのマネジメントを始めるきっかけは、どういうものだったんですか?

大野 オシムさんと出会ったのは、僕がサッカーの代理人を始めたばかりの頃でした。最初に契約したのが、当時日本代表のキャプテンの宮本恒靖で、代理人を始めてまだ1、2年でした。駆け出しの若造だったので、もっといろいろな選手と契約したいと思っていた頃でした。それで、ジェフユナイテッド市原・千葉の練習場によく通っていたんです。

そこで、当時コーチをしていたオシム氏の長男・アマルと仲良くなりました。アマルは英語も流暢に話せるので、よくご飯を食べに行くようになり、そのうち「うちに遊びに来いよ」ということになって、浦安のご自宅にお邪魔するようになったんです。

サッカー選手や指導者のエージェント(代理人)として活動し、これまでに宮本常靖氏、イビツァ・オシム氏、ヴァイッド・ハリルホジッチ氏などを手がけた大野祐介氏。オシム氏の代理人は、2006年代表監督就任から亡くなるまで16年間務めた

木村 ご自宅に行けば、当然いますよね、いつもテレビで相撲を見ているシュワーボ(オシム氏の愛称)が。

大野 そうですね。最初はオシムさんの伝手でヨーロッパのいろいろな選手を紹介していただけたらと思ったのですが、アマルが言うには「そういう人じゃないよ」と。それで僕も欲を出すのはやめて、ときどきオシムさんも一緒に食事に行くときにサッカーの話をしたりして、自分の視野や見識を広げていくというお付き合いだったんです。

そうしているうちに、ジーコの後任の日本代表監督にという話になり、アマルから、今までは自分が父親の契約関係を見てきたけれど、自分もジェフの監督になって忙しくなるから、それを見てくれないかということで、始まったという経緯です。

木村 アマルが大野さんを信頼していたのは、よくわかりますね。でも、いきなり代表監督のマネジメントをするのは、大変な部分があったのではないですか?

大野 アマルから頼まれたのは、オシムさんはお金を儲けたいという人ではないので、変な契約を作られないようチェックすることでした。もっと価値があるはずなのに不当に安くされるとか、やらない方がいいものとか、日本のマーケットがよくわからないので、そのあたりを判断してほしいと。

木村 オシムさん自身は、契約金とかにまったく関心のない方でしたからね。一方で、人道支援のNGOとか平和運動のNPOの誘いには、いつもお一人でどんどん決めて、電車に乗って出て行っていましたね。

大野 はい。そこは僕が関与するべきところではないと思ったので、オシムさんが直接やっていたところもあったと思いますね。

「リスクを取れ」「勇気を持て」という話が何度も出てきた

木村 大野さんは、オシムさんのご家族との人間的なお付き合いも深かったんじゃないでしょうか。

大野 オシムさんにお会いしたときには、まだエージェントになりたてで、日本サッカー界の中では最年少代理人でした。「やってやるぞ!」みたいな気持ちが強かったんですが、それ以上に、オシムさんとの対話の中で「リスクを取れ」「勇気を持て」という話が何度も出てきて、それにはすごく影響を受けました。

この先の十数年にわたってサッカー界でやっていく自信とか、気持ちをいただいたという気がしますね。オシムさんの取材に同席して、話しているのを聞いているだけでも、いろいろなメッセージがどんどん自分の中に蓄積していきました。

木村 やっぱりサッカーを超える存在だったんだなという気がします。オシムさんは、たまたま自分の職場がサッカーだったので、ボスニアで3つの民族が融和した「ユーゴスラビア代表」をきっちりと残そうと動いた。

先日、テレビの取材でこんな質問をされました。「ロシアのウクライナ侵攻について、オシムさんだったら何て言ったでしょうか」と。オシムさんだったら「それを聞く前に、日本人のお前はどう思うんだ?」と、返してきたと思います。そして「お前は何をするんだ?」と。

だから、「それぞれの職場で、生活の場で、自分ができることがあるということを、彼は身をもって示してくれた」という話をしました。

オシムさんの言葉というのは、日めくりカレンダーにするような「語録」ではなくて、実践を伴っていたからこそ、説得力があったのだと思います。

ベストセラー『オシムの言葉』の著者であるジャーナリストの木村元彦氏(左)。ジェフ千葉の監督として来日した2003年よりオシム氏を取材

大野 その通りですね。

「木村とは付き合うな」とサッカー協会から言われた

木村 代表監督になってからは、やっぱりちょっと遠い存在になってしまって、あまり僕も取材していないんです。

大野 協会のガードもかなり固かったですからね。僕はオシムさんとハリルホジッチさんという2人の日本代表監督のマネジメントをやりましたけれど、どんな取材や出演であっても、最終的には協会がオーケーしたものでないと受けられない。かなり管理が厳しかったです。

木村 本来はもっと発信すべき自由を与えるべきだと思うんですけど、そこをコントロールしたがるんですよね。これはアシマさんから聞いたんですけれど、「協会から、『木村と付き合っちゃダメだ』って言われているのよ」って(笑)。

あの頃は、ドイツW杯惨敗の批判をかわすためか、当時の川淵会長がシーズン途中でオシムさん本人に一言の打診もないままに、「(次の代表監督は)オシムって言っちゃったね」と会見で失言し、既成事実化。結果的にジェフから監督を強奪した。そのやり方を、僕が批判していたからでしょう。

大野 日本はクラブにおいても、選手や監督の発言をコントロールしたがる傾向にはあります。SNSが普及して選手の発言機会の自由度は増していますが、一方でコロナ禍もあって、本音を聞き出す対面の取材の機会は少なくなっているように思います。

木村 考えてみると、大野さんのオシムさんに対するマネジメントは、倒れた後の方が、圧倒的に長いですね。

大野 そうです。代表監督は、結局、1年とちょっとくらいでした。2007年11月に地元オーストリアで開催された3大陸トーナメントでは、オシムさんらしいサッカーができてきたところでした。代表で、本当にやりたいことがやっと浸透してきた、その直後に倒れてしまいましたね。スイス戦(2007年9月11日)とか、本当に素晴らしかったですね。

木村 素晴らしかったですね。前半に2失点していたのを、後半に逆転して4対3で勝った。あのまま、元気なままで日本代表を引っ張ってもらえていたらと思います。そして倒れた後、日本サッカー協会はもう少し解任の判断をするのを待てなかったのかなというのが残念ですね。

なぜレアルのオファーを断ってジェフに来たのか

大野 僕はオシムさんやアシマさんと話していて、いつも答えが出ていなかったんですけれど、木村さんは、なぜオシムさんはジェフに来たんだと思いますか。

アシマさんから聞いていたのは、あの時点で、いろんなオファーがあったと。レアル・マドリードやボルシア・ドルトムント、FCポルトからも何度もオファーがあった。それを全部断って、ジェフに行ったんですよね。

木村 バイエルンからもオファーがあったと聞いています。あれはジェフのGMだった祖母井秀隆さんだけが、直接会いに来てくれたからだと、『オシムの言葉』のインタビューの中で、そうおっしゃっていました。

大野 それが、理由ですか?

木村 そうオシムさんから聞きました。ミヤトビッチが当時レアルのスポーツディレクターをしていて、ものすごく呼びたがっていたんですよね。僕はレアルでミヤトビッチ本人にインタビューしたんですけれど、「グラーツにいた頃から、シュワーボに来てもらいたかった」と言っていました。

大野 そうなんです。グラーツにいる頃、必ずアシマさんが自宅の電話に出ていたみたいなんですが、「レアル・マドリードから電話よ」と言うと、オシムさんは、電話に出ないのだそうです。

アシマさんが、よくその話をしてくれました。何度も何度も電話が来ても、出ないって。そのうち「アシマさんが取り次がないのでは」と噂になって、アシマさんに贈り物がいっぱい届くようになったらしいんです(笑)。

「私が止めているみたいで、困ったわ」とアシマさんは言っていました。「でも、一回くらい話を聞いてもよかったんじゃないの」というような愚痴を、僕に言うんですよ。「レアル・マドリードに行っていたら、どんなことになっていたかしらね」とも。「でも、行ったのはジェフなのよ」って(笑)。

木村 やっぱり、監督の裁量権の問題かなと思います。僕には、「正直に言うと、私はビッグクラブ向きの監督ではない。なぜなら、大きなクラブを指揮するためには制約がものすごくたくさんある。短い時間で結果を求めてくるし、人気があるスター選手を外したら、監督のほうの首が飛ぶだろう」と言っていました。

例えばレアルだと、それぞれの選手にスポンサーが付いているじゃないですか。契約の中にも、最初から何試合出場させろというのが入っている。日本に来るスーパースターも同じですが、オシムさんは、それを嫌がっていたんじゃないでしょうか。

大野 オシムさんは、わかっていたんですね。ただ、ザルツブルクは、レッドブルの創業者でオーナーのマテシッツ氏が、直々に会いにいって、新しいチームなので、全権を与えるみたいな話をしたらしいですが、それでも行かなかったというんです。それはもしかしたら、同じオーストリアの中での、グラーツへの愛情があったのかもしれないですね。

サッカーによる街おこしをグラーツで実践

木村 そうですね。そもそもパルチザン・ベオグラードとユーゴ代表監督を退いた後、ギリシアのパナシナイコスに行ったのも、シュトルム・グラーツに行ったのも、サラエボに近いからという理由ですからね。当時はアシマさんとイルマさんがサラエボ包囲戦で閉じ込められていたから、とにかく近くにいたいと。

それに、僕はこれは後で知ったんですが、グラーツは“リトル・ユーゴスラビア”なんですね。

大野 そうなんです。本当にその通りなんです。

木村 西側で一番、旧ユーゴに近い都市なんです。当時、旧ユーゴ系の人が移民・難民となると、まず最初に行くのがグラーツだと。

そこには旧ユーゴの全民族のコミュニティがあって、皆が融和して、すごく仲良く生活している。それにはビックリしました。

大野 グラーツを選んだのは正解だったと、オシムさんから何回か聞きました。旧ユーゴの選手をチームに呼びやすいと言っていました。今回のお別れの会でも、あれだけ、ボスニアの外に住んでいるボスニア人が集まるという、それだけのコミュニティがあるということですよね。

木村 シュトルム・グラーツで監督を7~8年やって、チームは劇的に変わるわけです。チャンピオンズリーグに3年続けて出場して。それでビックリするんです、グラーツの人々は。特に3年目は1次リーグを1位で突破してベスト16に進んで、「シュトルム旋風を巻き起こした」と言われました。

これは、当時シュトルムの選手としてチャンピオンズリーグにも出場したポポビッチから聞いたのですが、チャンピオンズリーグの初年度から、「守りに入るんじゃなくて攻めて行け」と言われたと。「リスクをかけて戦えば、成し遂げることができるんだ」ということを、自分も含めてグラーツの市民が目の当たりにしたと、言っていましたね。

チャンピオンズリーグ出場で、お金もものすごく入ってきて、街が潤ったということも言っていました。ヨーロッパ中からサポーターが観戦に来るわけですから、ホテルも建つし。そのことによって街が豊かになっていくことを、グラーツ市民が実感した。「シュワーボはそれもわかっていて、俺たちを育ててくれた」とポポビッチは言っていました。

大野 サッカーで街おこしに成功したひとつの例ですよね。オシムさんとは、語りきれないほどいろいろなエピソードがありますが、もう1回、日本に来てほしかったというのは、やっぱりありますね。

木村 本当にそうですね。先ほど、倒れた後も日本代表の指導者をできたのではないかと言いましたが、やはりクラブチームで監督するオシムさんをもっと見たかったと思います。

代表はある意味で一発勝負ですが、そうではなく、キャンプから準備して、シーズンに入ってから長期間の戦いを、ほぼ同じメンバーで戦っていく。

Jリーグでオシムさんのサッカーを見ることによって、すごく大きなサッカーの普及、告知につながっていったんじゃないかなと思います。ジェフの監督時代、オシムサッカーを毎週観ることができたのは、本当に至福のときでしたからね。

大野 わくわくしましたね、本当に。

木村 リーグ全体がわくわく感をもった、あのサッカーをもう一度、観たかったですね。

写真/AFLO 撮影/苅部太郎