2000連休を過ごした男が「インターネットで時間を浪費してしまい集中力が落ちてしまう」という問題の真実に迫りました(写真:yoshan/PIXTA)

ゴールデンウイーク(GW)が終わって1週間。長い休みの後はやる気が出ない、集中力が落ちる、といった問題に悩む人も多いのではないでしょうか。

結果的に6年間、驚異の2000連休以上を過ごした『人は2000連休を与えられるとどうなるのか?』の著者・上田啓太氏。あまりに長い連休の間に、人間の感情や身体はどのように変化していくのか。同書より一部抜粋、再構成して4回連載でお届け。

今回は最終回。インターネットで大半の時間を浪費してきたことに気づいた筆者は、この問題を解決するための実験を始めますが……。

第1回:「人は2000連休を与えられると一体どうなるのか?」4月30日配信
第2回:「2000連休を過ごした男が悟った生活リズムの真実」5月5日配信
第3回:「2000連休で自己啓発本を多読した男が悟った真実」5月8日配信

ネットに膨大な時間を食われてきた

ネット環境があると集中できない。この問題には長く悩んできた。これまでの人生で、ネットに膨大な時間を食われてきた感覚がある。行動記録を付けて再確認した。読書をする時間もかなり増えたが、ネットもあいかわらずよく見ている。どちらも文字を読む行為だが、読書とちがい、具体的に何を見ていたのか思い出せないことが多い。

そもそも、ネットという言葉はあまりに曖昧で、ほとんど何も言っていないに等しく、実際にはネット上の特定の何かを見ているのだが記憶にない。たまに反省してブラウザの履歴を見る。カラスが食い散らかした後のゴミ捨て場を見たような気分になる。数分で関心が切り替わり、たくさんの断片的なコンテンツを消費している。だからこそ時間を浪費した感覚も生まれるのだろう。

自己嫌悪に襲われて、ネットを完全にやめようとしたこともあった。案の定失敗した。普通に便利な技術としてのネットがあり、娯楽として面白いネットもあり、全面禁止は難しい。

今回、やみくもに禁止するのではなく、ネットをしている自分を観察してみることにした。 

具体的には、初心者のような気分で、ゆっくりとネットを見てみる。私はネットに慣れており、操作に悩むことはないのだが、あえて速度を落としてみる。たとえば、ツイッターのタイムラインを見る。具体的には、ツイートを読む。ページをスクロールする。リンクをクリックする。動画の再生ボタンを押す。検索ワードを入力する。タブを切り替える。普段は無意識にしている色々な操作を、ひとつひとつ意識に上げてみる。ゆっくりと操作してみることで、普段はいかに異常な速度だったのかを実感した。

タイムラインに関しては、読むというよりはスキャンしている。つまり、視界に入ったものの大半を無視して、興味を引いた文だけを読み、リンクをクリックしている。リンク先を見終えればタブを閉じる。最後まで見ずに閉じることもある。そしてスキャンを再開する。眼球の動きは速く、瞬時に膨大な情報を処理している。指先の動きも異様に速く、トラックパッドをこすり、ショートカットキーを多用している。椅子に座って、身体を固定したまま、眼球と指先だけがものすごい速度で動き続けている。指先と目玉の化け物がここにいる。

デバイス依存はまるで「赤ん坊のおしゃぶり」

結果、2時間ほどネットを見るだけでも、大量の断片を消費して、何を見ていたのか、うまく思い出せずに首をかしげる。本を読む場合、基本的には冒頭から順に読んでいく。特定の内容を探してスキャンするようにページをめくることもあるが、それでも書物自体が一定の統一感を与えられたものだし、それぞれにまったく無関係なものが雑多に集まっているネット空間とはちがっている。

ネットに慣れた状態で分厚い本を読もうとすると、やはり数分で集中が切れてしまう。集中のリズムが非常に細かくなっている。本というものは、ネットに比べるとゆったりとしたリズムで書かれているから、ネットのリズムのまま読もうとすると、うまくいかないのだろう。

たまにネットで面白い人を見つけて、その人のブログやツイッターのログを辿って読む。このとき、体感としては読書に近づく。大量の選択肢をスキャンして特定のものだけを見るのではなく、順を追って見ていくからだろう。この場合、記憶にも残る。

パソコンにふれること自体が目的になっていることにも気づいた。具体的に見たいものがあるわけでもなく、なんとなくパソコンを開く癖がある。コンテンツではなく、デバイスの中毒になっている。私はスマホには慣れておらず、画面の小ささや、操作法のちがいや、文字入力の面倒くささによって、ネットをしてもストレスばかりたまる。

パソコンを禁止してスマホのみを許可してみると、必要最低限のことしかしなくなった。人によって、スマホは際限なくいじっていられるとか、とにかくテレビを付けていないと落ち着かないとか、色々とありそうだ。赤ん坊のおしゃぶりに似ている。特定のデバイスに結びつくことで、大人は心を落ち着かせているのだろうか。

ネット環境のない状態でも集中は切れている

その後、集中の問題を考察した。よくある失敗パターン。パソコンで作業している。しばらく集中しているが、ふっとネットを見てしまう。連鎖的に色々なページをだらだらと見てしまい、ふと我に返る。こんなことをしている場合ではない。あわてて作業を再開する。しかし、またしばらくすると、ふっとネットを見てしまう。どうして集中が続かないんだろう?

これは勘違いだった。観察してみると、ネット環境のない状態でも集中は切れている。たとえばスタバにパソコンを持ちこんで大喜利の仕事をする。このスタバは珍しくWi-Fi環境が用意されておらず、逆に重宝している。集中が切れると店内をなんとなく眺める。時間としては数十秒。接客している店員を見る。周囲の客を見る。本を読んでいる客や雑談をしている2人組がいる。ぼんやりと視線を漂わせて、どこにも固定されない。そしてまた作業に戻る。


集中というのは一定の時間で切れるもので、普通にしていても、人間の意識は集中と発散を繰り返している。2時間集中していたというときも、2時間ぶっ続けで集中しているわけではなく、何度も途切れているのだが、途切れた意識の空白を、「ぼんやり」が埋めている。

集中が続かないことは問題ではなく、定期的に生まれる意識の空白をネットで埋めてしまうことが問題だった。変な言い方だが、ネット環境があると、集中が切れたときに「ぼんやり」に踏みとどまれない。ネットは人目を引くものにあふれているからだ。反対に言えば、ネット環境のない場所だろうが、周囲に気になるものがあれば集中しにくい。実際、このあいだスタバで隣の席に暗い顔をしたカップルが座り、「私たち、何が駄目だったのかな」と、ドラマみたいな別れ話をはじめて、まずい、これは聞いてしまう、とイヤホンで強制的に遮断した。

(最初から読む⇒第1回:「人は2000連休を与えられると一体どうなるのか?」4月30日配信)

(上田 啓太 : ライター)