保元の乱の前哨戦!“悪源太”を生んだ平安時代の戦い『大蔵合戦』とは?

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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で注目を集める源氏。武家が政治の場へ出てくるきっかけとなった1156年の「保元の乱」には、前哨戦とも呼べる合戦がありました。

その名も、「大蔵合戦(おおくらかっせん)」。この戦いでは、とある人物が“悪源太”と呼ばれるようにもなったのです。

今回の記事では、そんな“悪源太”を生んだ大蔵合戦についてご紹介したいと思います。

大蔵合戦の背景―源氏内部の関係性―

大蔵合戦は、秩父氏の家督争いと源氏内部での争いが結びついて起きた戦いです。

元平治合戦源義朝白河殿夜討之図(歌川芳虎 画)

源頼朝の父・源義朝(よしとも)には、長男・義平(よしひら:頼朝や義経の異母兄弟)を現在の神奈川県である相模国に置いて自身は京都にいました。しかし、源義朝は父・為義(ためよし・頼朝らからみると祖父にあたる)との関係が悪くなっていました。

為義は武蔵国に置いていた次男・義賢(よしかた)に命令して下向(南下)させました。

大蔵合戦の背景―源義賢と秩父氏の関係性―

源義賢は、当時強い勢力を誇っていた秩父氏の秩父重隆(ちちぶしげたか)の娘と婚姻関係を結びます。二人のあいだには1154年に駒王丸(こまおうまる)という男の子が生まれていました。

ちなみに、この駒王丸はのちの木曽義仲(頼朝や義経のいとこ)です。

大蔵合戦の流れ

源義賢が秩父氏と結びついていることで、関東圏で義賢の勢力が大きくなることを危惧した兄の義朝は、自身の息子である義平に命じて義賢を攻撃させます。ちなみに、秩父氏でも家督争い(秩父重隆と兄・畠山重弘(はたけやま しげひろ)との争い)がありました。

このことから、義朝・義平の相模国川は畠山重弘とその息子と手を組み、義賢・秩父重隆との対立軸を作っていきます。義賢が婚姻後に移り住んだ大蔵館に攻めたことから、「大蔵合戦」と呼ばれています。

合戦は、相模国側の勝利に終わります。

源義平は“悪源太”と呼ばれた

月岡芳年 画

源義平はこの大蔵合戦当時15歳だったと言われていますが、義賢と秩父重隆を討ち取り武名を挙げたこと、その暴れようから、“悪源太(あくげんた:または鎌倉悪源太とも)”と呼ばれるようになりました。

15歳にして「悪(にく)らしいほど強い武士!」となった鎌倉悪源太こと源義平の武勇伝(上)

15歳にして「悪(にく)らしいほど強い武士!」となった鎌倉悪源太こと源義平の武勇伝(中)

15歳にして「悪(にく)らしいほど強い武士!」となった鎌倉悪源太こと源義平の武勇伝(下)

ちなみに、源義平は大蔵合戦の際にまだ幼かった駒王丸にも危害を加えようとしまいたが、相模国側の斎藤実盛という武士とともに木曽へと逃れています。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。