残忍で勇猛!戦国時代の武将・宇喜多直家の戦歴と荒々しすぎる所業がすさまじい

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その華々しい「経歴」

皆さんは「梟雄(きょうゆう)」という言葉をご存じでしょうか。辞書で引くと「残忍で勇猛」「荒々しくて強い」「悪者の首領」などと書かれており、私などはこれを見ると三国志の呂布奉先を真っ先に思い出します。

では、日本史で「梟雄」の名にふさわしいのは誰だろう? と考えた時、真っ先に思い浮かぶのがこの宇喜多直家(うきた・なおいえ)です。

宇喜多直家の木像(Wikipediaより)

斎藤道三や松永久秀と並び、「日本三大梟雄」に数えられる、暴れ牛のような武将です。

戦国時代だったからよかったものの(よくないのですが)、この人の経歴を書こうとすると「何年に誰それを追い詰めて殺した」とか「誰それを暗殺した」とか、そんな話ばかりになってしまうのです。

下手に生い立ちとか経歴を書くよりも、彼の手になる被害者とその手口を箇条書きにした方が早いんじゃないか、とすら思います。

しかもカッとなって相手を死に至らしめたとかではなく、謀殺、つまり計画殺人がほとんどなので猶更たちが悪い。今回はそんな宇喜多直家の人物像……というかその所業を追ってみたいと思います。

直家が生まれたのは1529年。場所は備前国邑久郡豊原荘(現・岡山県邑久郡邑久町)の砥石城です。しかし1534年に、祖父の宇喜多能家(よしいえ)が隣地の高取山城主・島村貫阿弥に攻められ自害すると、父の興家とともに城を脱出して放浪生活を送ることになります。

父の興家も、逃げのびて備前福岡の豪商・阿部善定に庇護されたものの、その後1536年かあるいは1540年に病死・あるいは自害とされる死を遂げています。しかもそれまでは牛飼いのような生活をしていたとか。直家という人物は、幼少から十代の頃にかけてこのような境遇にあったのでした。

たくさん殺して大活躍

そんな直家が頼ったのは、当時播磨国と備前国東部に権力を持っていた天神山城主・浦上(うらがみ)氏でした。当主の浦上宗景に認められた彼は、その配下として備前国内を転戦し、若くして乙子城を任されることになります。

城の主となった直家は、ここから「梟雄」としての能力を発揮し始めます。

まず手始めに岳父・中山信正を謀殺して居城と領地を奪い、祖父を討った仇敵である島村盛実を謀殺して、祖父の旧領地である砥石城を奪還することで領土を伸長。娘婿の浦上宗辰や後藤勝基、姉婿の谷川久隆なども殺害しました。

砥石城石垣跡

これだけでも眩暈がするようですが、彼の「活躍」はとどまるところを知りません。

1561年には、砥石城に引き続き信正の沼城も陥落。さらに、以前から浦上氏と敵対関係にあった松田氏配下の武将・穝所職経を謀殺します。ちなみに職経の妻は直家の妹でもあり、つまり職経は直家の義弟にあたる人物でした。

1566年には、敵対していた備中国(現在の岡山県)の大名・三村家親を短筒の火縄銃で銃撃して暗殺します。銃による有力者の暗殺は、日本史上でこれが最初と言われています。

まだ続きます。1568年には、備前国の金川城主・松田元輝の長男である松田元賢の軍事行動に不満を抱き、金川城を包囲して元輝・元賢親子を死に追いやりました。

ちなみに直家の妹は備中に嫁いでおり、直家は、妹の夫である伊賀久隆を唆して寝返らせています。そして金川攻めで松田親子を滅ぼすために利用しているのですが、この久隆も後に急死しており、直家による毒殺とも言われています。

直家はさらに同時期、備前国石山城主であり家臣でもあった金光宗高に「内通者だ」と言いがかりをつけて切腹させています。こうして直家は、備前国南西部をほぼ支配下に入れることになりました。

恩人に仇なす男

そして直家は、西から東に向かって勢力を伸ばす毛利氏と手を組み、織田信長と組んだ浦上宗景に反旗を翻します。

彼は、浦上氏に不満を抱いていた家臣たちを次々に寝返らせ、浦上宗景を播磨国に追放することに成功。ついに備前国を支配する有力大名として名を上げることになったのです。

そんな直家でしたが、織田信長の命で中国地方進攻に乗り出した羽柴秀吉(豊臣秀吉)にはあっさり服従し、今まで世話になっていた毛利氏に対する「手のひら返し」をやってのけています。

毛利氏は当然激怒し、備前国に向かって進撃を開始します。秀吉の配下となった直家は備中国高松城で毛利軍と対峙し、その後も美作・備前各地を転戦して毛利氏と合戦を繰り返しました。そして1581年2月14日、戦のさなかに岡山城で病死したのですが、その折、子の秀家には織田への忠誠を誓うように命じています。

宇喜多秀家(Wikipediaより)

秀家は、信長が本能寺の変で敗死してもなお父の言いつけに従って秀吉に忠誠を誓い、秀吉が天下を統一すると「五大老」の一人として豊臣政権の中枢を担うことになります。

ですが、秀家には直家ほどの先見性がなかったらしく、秀吉の没後には権力争いに巻き込まれました。そして関ヶ原の戦いでは三成方について敗北、領地を没収されて八丈島に流されています。

秀家については、父親のような過激な行状は伝わっておらずマトモな人だったのだろうと推測されます。もしも父親の直家ほどの才覚があれば、直家の血を引く名将として、今よりももっと有名だったかも知れませんね。

参考資料
・大西泰正『宇喜多秀家 (シリーズ・実像に迫る)』戎光祥出版・2017年
・大西 泰正『宇喜多秀家: 秀吉が認めた可能性 (中世から近世へ) 』平凡社・2020年
・大西 泰正『「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家 』角川書店・2019年