「日本資本主義の父」として知られる渋沢栄一の実像に迫る。左は兼子夫人(写真:共同通信)

2024年から新一万円札の「顔」になる

日本を代表する実業家、「渋沢栄一」が脚光を浴びている。2024年からの紙幣刷新においては、新一万円札の顔に選ばれて、福澤諭吉からバトンタッチ。それに先駆けて2021年から放送が始まる、NHK大河ドラマ第60作「青天を衝け」は、渋沢を主人公とした物語だ。


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急速に注目を集める渋沢栄一とは、いったいどんな人物で、結局のところ、何をしたのか。そんな疑問を密かに抱いているビジネスパーソンも少なくないだろう。無理もない。

「日本資本主義の父」といわれる渋沢。日本初の株式組織の銀行として創設した第一国立銀行(みずほ銀行の前身の一つ)をはじめ、経営を手がけた企業は500社以上。活動分野も多岐にわたるうえ、実業家になるまでにも紆余曲折があった。全容を把握するのはなかなか難しい。

渋沢のことを一から知るには、まずはエピソードを通して、どんな性格だったのか、その人間性に触れるのがてっとり早いだろう。思想を形作る人間性を知れば、渋沢が多岐にわたる企業の経営に携わりながら、どんなビジョンを持ち、何を成し遂げて、何を成し遂げられなかったのかが見えてくるはずだ。

短期連載第1回となる今回は、若き日の渋沢の逸話を紹介する

「その無縁仏の出たときは、およそ何年ほど前のことでありましょうか?」

15歳の渋沢栄一は、さきほどから祈祷を始めた女性にそう尋ねた。「この家にたたりがある」という親戚が家に怪しげな連中を連れてきたのだが、どうにも信じられなかった渋沢少年。祈祷の間、不審なところはないかとじっと観察したうえで、「無縁仏がたたっている」という相手の言葉に食いつき、その時期を確認したのである。

「およそ50、60年より前である」と祈祷する女性が答えれば「それはいつの年号の頃ですか?」とすかさず質問。「天保3年の頃である」という答えを引き出すと、「それならば23年前のことですね」と間違いを指摘して、祈祷を信じ込むほかの家族を前にこう言った。

「無縁仏のいる、いないが、はっきりわかるような神様が、年号を知らない訳はないはず。こういう間違いがあるようでは、信仰も何もまるでできるものじゃない」

そう言って、祈祷師たちを追い返してしまった。このとき、渋沢の姉は病に苦しんでおり、家族も皆、わらにもすがる気持ちで祈祷に頼った。そんな中、最も若い渋沢だけが、冷静に事態を見守り、家族が間違った方向に向かうことを一人で阻止したのである。

状況に応じて合理的な判断をするリアリスト

実業家はリアリスト(現実主義者)でなければ、経営は立ち行かなくなる。その点、渋沢は状況に応じて、合理的な判断をすることに長けていた。大阪紡績会社の経営では、欧米で新しい技術が台頭すれば、工場の機械を一新するという大きな決断もいとわなかったし、原料に安い輸入品を用いるという当時は画期的なコストカットにものぞんでいる。

極めて合理的な渋沢の判断力は、祈祷師を論破して撃退した15歳の頃にすでに発揮されていたのだった。

合理性に長けた渋沢だったが、それだけでは、実業家の巨人として活躍するほどまでにはならなかったに違いない。会社の経営において、ただ合理性のみを追求すれば、人心は離れていく。経済を動かすのは人である。渋沢はそのことも少年時代からよく理解していた。

1840(天保11)年、渋沢は現在の埼玉県深谷市の裕福な農家の長男として生まれた。商売と剣術に長けた者が多いのが渋沢家の特徴で、渋沢もまた文武両道を成すべく、育てられた。

父の市郎右衛門は、商才があり、武芸にも通じていただけではなく、『四書五経』を十分に読めるほどの教養と、俳諧も理解するという風流さも兼ねそろえていた。そんな父に中国古典の手ほどきを受けた渋沢。同時に、近所に住む従兄弟の尾高惇忠のもとに通い、日本史や中国古典を学びながら、教養を高めていく。

「昼夜、読書三昧では困る。家業にも精を出してくれ」

読書に傾倒する一方の渋沢に、そうブレーキをかけたのは、ほかならぬ父である。読書ぐらい自由にさせてあげてもいい気がするが、渋沢はあまりに夢中になりすぎた。

本を読みながら外を歩いて溝に落ち、服がぐちゃぐちゃになったこともある。それも運悪く、正月のあいさつ周りのときだったため、晴れ着が泥まみれになったという。両親がとがめるのも無理からぬことだった。

それから渋沢は素直に心を入れ替え、父が注力していた藍玉の製造と販売に取り組み始める。14歳のときには、不在の父に代わって初めて藍の葉の買い付けを任されている。

「ただこれを知ったばかりでは、興味がない。好むようになりさえすれば、道に向かって進む」。そんな言葉を好んだ渋沢。家業で生きた知識を実践したいと考えたのかもしれない。

藍玉の製造者をランク付けして競争心をあおる

実際に渋沢は、藍玉の販売で新しい試みをしている。弟と一緒に、各製造者による藍玉の品質を調査。藍玉の製造者たちを招いてランキングを発表すると、その結果で席順を決めて、ごちそうを振る舞ったのである。

そうして製造者たちの競争心をあおることで、藍玉の品質は向上していく。どうすれば人はやる気を出すのか。渋沢はすでに人間の心の動きに着目していた。また、工夫一つで商売の結果が大きく変わることも、実感したのではないだろうか。

ちなみにこの藍玉の事業は、村全体を豊かにするために、父が農家に藍の葉の栽培を勧めて始めたものだ。「新事業で地域の経済を豊かにする」、そんな渋沢の発想と商才の豊かさは、父から受け継がれたのであろう。

合理的で、かつ、人間の心の動きもよく理解した渋沢。経営者として成功するための、もう一つ、大事な素質も兼ねそろえていた。それは「反骨精神」である。

渋沢が17歳のときのことである。当時、祝い事などの行事があると、岡部藩の領主は「御用達」という名目で領地別に借金をした。だが、それは返済されることはなく、事実上、年貢のようなものだった。渋沢の村にも借金の額が割り当てられ、渋沢の父は強制的に領主に金を貸さなければならなかった。

ある日、渋沢の父が、岡部藩の藩庁が置かれた陣屋に呼び出される。しかし、父は用事で行くことができないため、渋沢が代理で足を運ぶことになった。「御用の内容を聞いてこい」と父から言われた渋沢。代官から金額を伝えられると、こう言った。

「父に申し聞いてから、さらにお受けに参ります」

しかし、代官はその場で、金銭を受け取ろうして引き下がらない。

「父に申し聞くなどと、そんなわからぬことはない。その方の財産で500両くらいは何でもない。すぐに承知したという挨拶をしろ」

代官からののしられても折れなかった

相手が子供だからと甘く見たのだろう。高圧的な態度でねじ伏せようとしたが、渋沢はどれだけ代官からののしられても、折れることなく断って、陣屋を後にしている。

「そもそも官職を世襲するという徳川政治から、このような無礼な代官が出てくるのではないか!」

帰り道、渋沢は受けた屈辱を思い返し、徳川家という強大な権力への反骨精神を燃えたぎらせたという。

反骨精神といえば、こんなエピソードもある。渋沢はのちに大蔵省から声がかかり、初めは断っていたものの、次官の大隈重信から説得されて、引き受けることになる。それにもかかわらず、大蔵省内からは渋沢の採用に反発の声があがったという。

省内の反発を知って、渋沢はますます燃えたらしい。貨幣制度や禄制の改革や鉄道の敷設など、矢継ぎ早に改革を行い、周囲の評価を改めさせている。闘志あふれる渋沢らしいエピソードだ。

実業家として大空に飛び立つ――。その資質の片鱗を青春時代にすでに見せていた渋沢。だが、やがて、価値観をまるごとひっくり返すような、大きな挫折を経験することになるのだった。

(文中敬称略、第2回に続く)


【参考文献】渋沢栄一 、守屋 淳『現代語訳 論語と算盤』(ちくま新書)渋沢栄一『青淵論叢 道徳経済合一説』 (講談社学術文庫)幸田露伴『渋沢栄一伝』(岩波文庫)木村昌人『渋沢栄一 日本のインフラを創った民間経済の巨人』 (ちくま新書)橘木俊詔『渋沢栄一』 (平凡社新書)岩井善弘、齊藤聡『先人たちに学ぶマネジメント』(ミネルヴァ書房)