WTO新事務局長には、ナイジェリアのヌゴジ・オコンジョ=イウェアラ(ナイジェリア・アメリカ)氏(右)を推す声が6割超だが、アメリカは韓国の兪明希(ユ・ミョンヒ)氏(左)を支持(写真:AP/アフロ)

世界貿易機関(WTO)のアゼベド前事務局長の突然の辞任表明から半年、10月28日についに新事務局長候補がヌゴジ・オコンジョ=イウェアラ(ナイジェリア・アメリカ)に絞られた。BBCによれば、同氏には全164加盟国中104カ国、つまり6割超の支持が集まったと報じられている。しかしアメリカは、通商分野での四半世紀に及ぶキャリアを理由に対立候補の韓国・通商交渉本部長の兪明希(ユ・ミョンヒ)支持を表明し、コンセンサスでの新事務局長指名は暗礁に乗り上げた。

11月9日のWTO一般理事会会合も中止され、一時は不透明感が増した。しかし、国際協調を標榜するバイデンが混乱のアメリカ大統領選を制したことで、ここへ来て再び事態が動き出す可能性が出てきた。バイデン政権がこの問題をどうさばくかは、同政権下でアメリカの通商政策が大転換を遂げるか否かという点で最初の試金石となる。

アメリカはなぜアメリカ国籍者を支持しないのか

最終段階でのアメリカの対応は、実は筆者にはいささか意外だった。選挙戦当初は一部メディアでアメリカの意中の候補はオコンジョ=イウェアラと報じられていたことに加え、彼女は大学(ハーバード大学)、大学院(マサチューセッツ工科大学、MIT)を出て、その後の世界銀行勤務も含めてアメリカ生活が非常に長く、2019年にはアメリカの市民権、つまり国籍を取得した二重国籍者でもあるからだ。

日本国内の報道はもっぱらアフリカのナイジェリア出身であり、経済力で浸透している中国の影響を受けるのではないかという一般的な憶測ばかりだ。しかし、実はナイジェリアへの最大の投資国はアメリカで、サブサハラ・アフリカ諸国で2番目にアメリカの輸出額が多い。加えて、彼女がアメリカ国民であるならば、それが決定的な理由とは考えにくい。

この自国民を支持しないという不可解な対応は、むしろ彼女がアメリカ人であるがゆえであった。ブルームバーグの報道によれば、オコンジョ=イウェアラは、世銀副総裁在職中に仕えた当時の総裁であるロバート・ゼーリック(ジョージ・W・ブッシュ政権のアメリカ通商代表)に連なる共和党の自由貿易推進派に近い。そのため、このことが反対理由とされている。ちなみにゼーリックは、2016年大統領選ではトランプ候補(当時)の外交政策を批判する書簡にも名を連ねている。

トランプ政権としては、就任後はアメリカ国内でトランプ政権と異なる方針を持つ勢力が政治的影響力を及ぼしうる人物となれば、当然看過できないだろう。加えて、アフリカの信望を集め、閣僚や世銀ナンバー2といった経験豊富なオコンジョ=イウェアラに比して、アジア地域の支持も集まらず、韓国人で官僚出身の兪のほうが御しやすいと見て、このような結論に至ったのだろう。


トランプ政権はWTOを混乱に陥れようとした?(写真:REUTERS/Denis Balibouse)

ただ、オコンジョ=イウェアラの素性は最初からわかっており、この段階でアメリカが突然反対したことに、他の加盟国から非難や困惑の声が上がっている。また、アメリカの政治ニュースメディアの「ポリティコ」によれば、アメリカは最終局面に来ても態度未決定の国に在外公館ベースで兪への支持を働きかけるといった微温的な対応に終始し、積極的に兪のために選挙運動を展開した形跡もない。

だとすれば、うがった見方をすれば、トランプ政権のWTO嫌いからして、WTOをいっそう混乱に陥れるための、「ためにする反対」だったのかもしれない。

アメリカのはしごを外せない韓国

慣例ではこの段階で対立候補が辞退し、話し合いの結果一本化された候補が加盟国の総意(つまりコンセンサス)で選出されるが、韓国政府はまだ兪の辞退を表明していない。日本の保守系メディアではこの対応を全面的に非難する論調が目立つが、これはやや一方的な見方ではないだろうか。

もちろん韓国大統領府がアメリカの力を頼み、逆転を狙って降ろさない側面もあるだろう。しかし事務局長選でこちらから働きかけた支援を獲得し、しかもアメリカがオコンジョ=イウェアラ反対の「駒」として兪を擁立している以上、彼女を降ろすことはアメリカのはしごを外すことになる。

特に大統領選挙直前でアメリカの意向に反する行動は、その時点で来るべき選挙でトランプ大統領の足を引っ張るとも受け取られかねない。そうなれば、仮にトランプ大統領再選なら、米韓関係を損なうばかりか、他の加盟国が圧力で兪を下ろした、つまりアメリカの手駒を奪ったとして、WTOへのアメリカの感情的反発はいっそう強まるおそれがある。この時点では、韓国にとっては現状維持のまま様子見の姿勢を取ることは賢明かつ唯一取りうる対応だろう。

WTOもそのように考えていることは、今回の選考プロセスの責任者であるウォーカー一般理事会議長(ニュージーランド大使)の11月9日会合の延期通知から見て取れる。通知文は、「保健衛生上の状況と現下の出来事を含む諸々の理由(reasons including the health situation and current events)」により会合を延期する、としており、また、次回会合の開催時期も示していない。

「保健衛生上の状況」が欧州での新型コロナウイルス感染症の再流行にともないWTOで対面の会議が当面開催できなくなったことを指すのは明らかだが、「現下の出来事」は、暗にアメリカ大統領選挙の混乱を指している。つまり、後者の決着までは、現状維持が好都合であることを示唆している。

しかし、もしいつまでも兪の立候補を取り下げないことで混乱を長期化させれば、韓国に国際的批判が高まることは必至だ。しかも、仮にアメリカ頼みでポストに就いたとして、手続き無視のゴリ押しで就任した正統性がない事務局長では加盟国の支持も得られず、「善良な仲介者」としての役割は果たせない。

そうなれば、兪自身はもとより韓国も強い非難にさらされ、国際通商システムへの依存度が高い韓国にとって痛手になる。実際、大統領選挙でトランプ大統領の劣勢が伝えられると、相前後して兪の「美しい辞退」が報じられ始め、韓国政府も辞退に向けた環境づくりに本格的に入ったように見える。

ただ、ここへ来て、兪は「最終候補を対象にコンセンサス(意見一致)を作っていく過程」と現状を称して辞退を否定し、さらに報道されている票差をマスコミの非公式情報として否定しているという(中央日報2020年11月17日)。

同時に「主要国と協議しながらコンセンサス形成プロセスに加わる」(聯合ニュース2020年11月17日)とも発言しているので、コンセンサス形成の過程での辞退を示唆しているとも理解でき、またトランプ大統領の敗北宣言までは現政権の顔を立てるという意味合いもあるのかもしれない。

いずれにしろ、おおむねバイデン候補の当選が確定的となり、政権移行準備が本格化しつつあるこれからが、辞退による事態打開のチャンスであることを韓国は自覚すべきだろう。

決着は来春までかかる可能性も

では、バイデン次期政権がオコンジョ=イウェアラを支持するか、と問われると、もちろん現時点では確定的なことは言えない。ただ、筆者は今のところ楽観している。

まず、バイデンは政策綱領や選挙戦中のスピーチでも同盟国との連携を訴えており、トランプ政権が脱退を決めたWHO(世界保健機関)やパリ協定といった多国間枠組みに留まることを早くも表明している。その意味ではWTOについても同様で、トランプ政権のようにWTOを過度に周辺化し貶めるのではなく、アメリカに有利な方向での改革に積極的にコミットすることが期待される。だとすれば、事務局長の長期不在解消にも協力的であることが期待できる。

また、加盟国主導(“member-driven”)のWTOでは本来事務局長の権限は限られており、オコンジョ=イウェアラ支持でアメリカが失うものはさほど多いようには思われない。特に今回は、アフリカが切望する初の大陸出身事務局長だ。アフリカに対する中国の影響力を懸念するなら、彼らを「肥溜め」などと侮蔑したトランプ大統領とは違うことを印象付けるのは、悪い選択ではない。

ただ、実現の時期は不透明だ。仮に韓国がバイデンの政権移行チーム(すでに通商関連のチームの人員は発表されている)と接触し、兪を降ろすことは差し支えないとの感触を得ても、実際にオコンジョ=イウェアラの指名は最短でも2021年1月20日の政権交代以降になる。もしアメリカ通商代表部の代表だけでなく、次席代表や在ジュネーブ大使など、実務レベルの新体制が立ち上がるのを待たなければならないとすれば、来春ぐらいまでかかる可能性もある。

またコロナ対策や人種問題、何より今回の選挙で顕わになった国内の政治的分断など、新政権の課題の中で通商を含む外交政策は必ずしも優先順位は高くないとも言われる。場合によっては、事態の収束までにはより長くかかる可能性もある。現状の迅速な打開のために、日本を含む同盟国としては、韓国による兪撤退の了承と、オコンジョ=イウェアラ支持を政権移行チームにしっかりと打ち込む必要がある。

新事務局長を待ち構える難問・WTO改革

新事務局長が誰になるにせよ、最大のミッションは再びアメリカを関与させながらWTO改革を成功に導くことだが、短期的に大きな成果を上げることは難しい。とりあえずは新型コロナウイルス感染症で延期され、日程さえ決まっていないカザフスタンでの第12回閣僚会議(MC12)をできるだけ早期に開催し、また成功裏に終わらせ、改革を軌道に乗せることが最優先課題だろう。

特にデジタル貿易、漁業補助金、投資円滑化の交渉では、この年末までにはすべて議長テキスト(両論併記の協定原案)が出揃う。MC12で最終合意には至らなくとも、これらを土台に少しでも合意に向けた具体的な前進が必要だ。

また、上級委員会も昨年12月の機能停止からそろそろ1年を迎えるが、WTO紛争解決手続の信頼性・実効性は大きく損なわれたままだ。これも1日も早く正常化の必要がある。そして新型コロナウイルス感染症によって落ち込んだ貿易の回復も急務だ。

オコンジョ=イウェアラ自身、11月16日のアメリカのピーターソン国際経済研究所のウェビナーで、特にポストコロナ対応、上級委員会危機、そして漁業補助金交渉を喫緊の課題に挙げ、課題な成果を期待せず、まずは加盟国間の地道な信頼醸成が必要だと説く。

事務局長選中、彼女は自身が開発畑出身で通商畑ではアウトサイダーであることから、WTOの諸課題を「新たな目(a fresh pair of eyes)」で眺めることができる、という表現を好んで使っていた。ワシントンの通商人脈にパイプを持ち、アフリカを中心に途上国の信望を集める彼女は事務局長の資格が備わっていることに疑いはないが、加えてこの「新たな目」がもたらす斬新なアプローチに期待したい。

(文中、敬称略)