「私が地下鉄にサリンを撒きました」 坂本弁護士一家殺害事件の犯人が自首した理由 から続く

 1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。この事件の2日後には、同年2月に目黒公証役場の事務長を拉致した疑いで、オウム真理教の教団施設への一斉家宅捜索が行われ、教団の実態が明らかになる。その恐るべき凶行の1つが坂本弁護士一家殺害事件だ。そして1998年の秋、実行犯の1人である岡崎一明への死刑判決がくだされた。その判決公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(前2回目の後編。前編を読む)

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自首の成立

「3人殺せば死刑だな」と事件後の麻原が刑法の条文を前に呟いたように、この自首が認められれば減刑による死刑回避は大いに期待できる。

 ところが検察官は、これを自首とは認めていなかった。地下鉄サリン事件以降の当時の状況からすれば、坂本事件の共犯者たちは別件とはいえ相次いで逮捕されていたところであり、やがては事件の真相も明るみになったはずであると主張する。

 しかもだ。最初の岡崎の自白は、自分はアパートの玄関で見張りをしていただけで、殺害の実行には加わっていないと、嘘を語っていた。本当は、率先して坂本弁護士宅の玄関に施錠がされていないことを確認し、自宅に押し入ってからは、坂本弁護士の背後から首を絞めて、そのまま殺害している。その核心部分は、あとになって認めるようになった。


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 だから、これは自首にはあたらない。捜査への貢献も大きくない。そこに最大の争点があった。

 ところが、だった。

 林郁夫とまったく同じシチュエーションで読み上げられていく判決では、岡崎の自首を認めてしまったのだ。

 法廷でぼくも耳にしてきたこれまでの事実関係をひとつひとつ確認しながら、自首が成立することを認定したのだ。

 理由は、簡単にいってしまえば、そもそも捜査本部が「失踪事件」として立ち上がったように、坂本弁護士一家が殺害されているという事実は把握できていなかった。それに、教団の関与が疑われていたとはいえ、それも確かな裏付けがあるものでもなく、まして岡崎本人が事件に関与しているとは捜査関係者も知らずに、情報提供者としての間柄にあった。それを、自身の口から、殺害の事実も、教団での共謀も、現場に居合わせたことも暴露したのだ。教団による殺害事実が捜査機関に発覚する前に自白がなされている。

 それも、自発的だった。なにか証拠を突き付けられてのものでもなく、自首制度の説明や、知っていることがあったら話してくれ、程度の説得はあったとしても、黙っていればそれ以上の追及も受けずに済んだ。むしろ身に危険を感じて保護してもらいたいという、切迫した内情から進んで告白している。

捜査への貢献をはっきり認定

 確かに殺害の事実については虚偽の申告をしていたとしても、麻原の指示を受けて準備や殺害後の証拠隠滅をしたことを語っていれば、その時点で殺人罪の共同正犯となるのだから、「犯罪事実の申告」をしていたことになるとする。その際に、岡崎自身が「罪に服したい」とも語っていたことからすると、「自己の処罰を求める告知」をしたことにもなる。

「捜査機関に発覚する前」「自発的申告」「犯罪事実の申告」「自己の処罰を求める告知」、この要件を満たしているのだから、自首は成立する。裁判所はそう認定したのだ。

 それどころか、この岡崎の自首が坂本弁護士一家殺害事件の解明に大きく貢献しているとまでいった。「失踪事件」としていた当時の捜査の進捗状況からすれば、岡崎の自白が突破口となった。それによって、共犯者の自白も引き出せたはずだとするのだ。

 自首の成立を認めて、讃辞まで贈っている。

 これを聞いた瞬間、岡崎の背中が心なしか少し弛んだ気がした。思惑通りにことが運んでいる、といったところか。

 ぼくの頭の中にちらつく林郁夫の影。

 その林郁夫と同じ「自首」の成立。

 それとまったく同じ裁判長が、主文を後回しにして、いま岡崎に判決理由を唱えている。

 しかも、林郁夫と同様に自首の成立と、捜査への貢献をはっきり認定しているのだ。

 これは、ひょっとすると──。

動機の違い

 ところが、ここからが同じ裁判長による、岡崎と林郁夫の評価の違いだった。

 死刑と無期懲役を分ける被告人への評価、裁判所の認識というものを、厳然と示したところだった。言い換えるなら、社会の良識とされる裁判所の本領を見せつけていた。

 自首の成立と捜査への貢献を認めたまではよかったが、そこから判決は意外な方向へ動き出す。

 自首の動機を説きはじめたのだ。

 4月7日に捜査官に自白した、その理由は何か。

欲得と打算に根ざした行動である

 岡崎自身が法廷でも語っていたように、教団によって殺されることから身を守るという自己保身にあった。

 反省からではない。

 だから、その時にも嘘をついた。刑事責任が軽くなることを狙って、坂本弁護士の首を絞めたことを隠し、玄関で見張っていたと言った。

 龍彦ちゃんの遺体を埋めた地図を送ったのも、教団からカネをせしめることであり、証拠を握っていることを見せしめて身を守ることにあった。

 これを裁判長は「もっぱら欲得と打算に根ざした行動である」と断言したのだ。

 だから、神奈川県警が事件から10カ月後に接触してきたときにも、平然と嘘をついた。そして、捜査の進捗状況を確認する目的で捜査協力者を装って捜査機関と連絡を保っていた。その間も、ずっと真相を隠したままだった。

 そういえば──。

 林郁夫は、よく泣いた。法廷でやたらに泣いていた。

 初公判の罪状認否の時から既に泣き出し、傍聴席の遺族被害者が、いっしょになって号泣していた。

 証人として呼び出された法廷でも地下鉄サリン事件の犯行場面を証言する度に、ポケットからハンカチを出して目頭をおさえる。

打算的ではなかった林郁夫の自白

 裁判も終盤になると、被告人質問中に溢れてくる感情を抑えきれずに、号泣する。

 ある時、自白に至るまでの心境の変化、特に自分が殺した駅員2人の家族のことを慮ったことを回顧している時のことだった。それまで、はあはあと、深呼吸するように供述をつないでいたものが、突然何かに詰まったように、「う、だぁっ!」と叫んだかと思えば、そのまま証言台に突っ伏して、泣き声をあげ続けることもあった。やむなく、裁判長が休廷を宣言したほどだった。

 それを見ていた裁判長が、反省・悔悟の情は顕著であるとして、

「死刑だけが本件における正当な結論とはいい難く、無期懲役刑をもって臨むことも刑事司法の一つのあり方として許されないわけではない」

 判決理由の最後をそう締めくくっていたのだった。

 そうして最後にこう告げていた。

「主文。被告を無期懲役に処す」と──。

 法廷で自首を主張する弁護側立証はいっしょでも、事件を自白したところに打算的なものはなかった。

 真剣にサリンを撒くことを「救済」や「戦い」と信じたように、狂信的なまでの純真さで事件を自白したのだ。教団という単一的価値観の閉鎖的空間から引き離されて、環境が変わった直後のことだった。それが林郁夫だった。

 しかし、教祖を強請るまでした岡崎の本性は違っていた。

岡崎の本性を見抜いていた裁判所

 自首の動機が自己保身であり、真摯な反省でないからには、減刑の対象にはならない。

 裁判所は、そう言ったのだった。

 自首が成立すれば、なんでもかんでも減刑にする必要はないのだ。

 むしろ、捜査機関と関係を保ちつつ、多額の取材協力費を得てマスコミとも接触していた事実を引き合いに、

「したたかさと狡猾さが認められ、このような態度が麻原と縁を切った後のものであることからすると、人間性の欠如という被告人の人格の一端を垣間見ることができる」

 とまで指摘されてしまったのだった。

 自首がかえって仇となっている。

 裁判所は見抜いていた。法的根拠を裏付けておいて、岡崎の期待を見事に裏切っていた。

 そうすると──。

 判決は、量刑の理由を述べる。

 坂本弁護士一家殺害の実情を振り返る。

 そこにこんな一文があった。

「とりわけ、都子が自ら絶命の危機に瀕した状況の中で最後の力を振り絞って、『子どもだけはお願い。』と龍彦の延命を哀願したにもかかわらず、いささかの躊躇も逡巡も見せずに、いたいけな幼児の生命を奪った凶行には戦慄を禁じ得ず、被告人らの冷酷さと非情さを窺わせるに十分である」

 確かに、それだけで十分だった。

証言台の前にじっと立ち尽くしたまま

 そして、最後にこう締めくくる。

「死刑が真にやむを得ない場合にのみ科し得る究極の刑罰であることに思いを致しても、本件は死刑を避けてあえて無期懲役に処する事案とは一線を画すものであり、被告人に対しては極刑をもって臨まざるを得ない」

 この時には、裁判長の指示で、被告人は証言台の前に立たされていた。

 そして、直立不動の被告人を前に見据えて、裁判長が言った。

「主文。被告を死刑に処す」

 岡崎は微動だにしなかった。動こうにも動けなかったのかもしれない。

 続けて裁判長が言う。

「なお、この判決に不服のある場合は14日以内に東京高等裁判所に控訴の申し立てを行ってください」

 それだけ言うと裁判長以下、左右の裁判官がすうっと立ち上がって、そろって一礼した。するとそのまま背後の扉を開けて足早に法壇から去っていってしまった。

 その間も、岡崎は証言台の前にじっと立ち尽くしたままだった。

はじめてみた死刑判決の瞬間

 その背中を傍聴席から遠く見つめながら、ぼくは、公判中に岡崎がこう話していたことを思い出していた。

 岡崎が林郁夫の法廷に証人として呼ばれていった時のことだった。教団の草創期を知り、共にオウム事件で自首をした間柄。そこで林郁夫の弁護人が、こんな質問をしたことがあった。

「世の中に、今後、オウムのようなものが出ないようにするためには、あるいはこんな事件を防ぐためには、どうしたらいいと思いますか」

 その時、岡崎は「私が言ってはアレですが」と前置きしてから、答えた。

「まず、教育改革ですね」

 そういってニヤリと笑った。その人を食ったような笑い顔を、いまでも忘れることができない。

 その男が死刑になった。

 これが、ぼくがはじめてみた死刑判決の瞬間だった。

 同時に、裁判所の畏敬ともつかぬ恐ろしさを見たような気がした。

 ところで、この死刑判決には、後日談がある。

 岡崎の判決に署名、押印した3人の裁判官。

 そのうちの左陪席とは、それから10年後に広島高等裁判所で、ぼくは再会する。山口県光市母子殺害事件の差し戻し控訴審で左陪席を務めていた。この時も、犯行当時18歳の少年だった被告人に死刑の判決を言い渡している。彼はまた、Y裁判長といっしょに、林郁夫を無期懲役とした判決にも加わっていた。

 それから、もうひとり右陪席だった女性裁判官。彼女もまた10年後に名古屋地方裁判所で裁判長を務めるまでになった。そこで、闇サイトを通じて知合った男性3人が、帰宅途中の見ず知らずの女性1人を襲って殺害した事件を担当。被害者が1名でも死刑になるのか、注目の集まった、いわゆる闇サイト殺人事件で、2人に死刑、1人に自首の成立を認めて無期懲役判決を言い渡していた。

 あとになって感じるところだが、死刑を言い渡す側にも、どこかにつながった糸のようなものが、あるのかも知れない。

 そして、岡崎と林郁夫に判決を言い渡したY裁判長。出世を拒んで判事を退官。いまは、東京の弁護士会に所属する弁護士となっている。

 

(青沼 陽一郎/文春新書)