何不自由ない生活なのに、なぜか満たされない。

湾岸エリアのタワマンで、優しい夫とかわいらしい娘に囲まれ、専業主婦として生きる女。

ーあのときキャリアを捨てたのは、間違いだった?

“ママ”として生きることを決意したはずの“元・バリキャリ女”は、迷い、何を選択する?




2019年 2月


「寝顔、かわいいなあ…」

未希はスヤスヤとベビーベッドで眠る我が子・咲月の顔を見つめ、心からつぶやいた。

本当にかわいいものを目の当たりすると、それ以上言葉が出てこないのだ。

3月末に新卒から10年勤めていた会社を退社し、5月に出産した天使のような女の子は、現在8か月になった。

健康で夜泣きもなく、運よくあまり手がかからない赤ちゃんだったためか、育児中と言えど驚くほど穏やかな日々を送っている。

―1年前までは仕事仕事の毎日だったのが嘘みたい…。

大手総合商社に勤務する夫・慎吾との結婚を機に購入した、湾岸のマンション。リビングは大きな窓がたくさんの日差しを迎え入れ、冬のこの時期でも床暖房だけで充分暖かい。

午前中に一通りの家事や育児をこなす。そして咲月が昼寝に入った後はBoConceptで購入した大きめのソファに寝転がり、Netflixで海外ドラマを見るのが毎日の日課だ。

たまに地域の子育て広場や幼児教室、銀座やお台場にショッピングへ行くことだってある。

寒い日が続いていたので、このところ外出は控え気味だったが、不意にどこか行かなきゃと感じていたその時、未希のスマホにLINEがあった。

『佐橋さん、こんにちは。お時間あったら、子ども連れて銀座にお買い物でも行きませんか? 素敵なカフェを見つけたんです』


未希のもとに届いたメッセージの主とは…?


メッセージは同じマンションに住む高田華子からだった。華子とは地域の赤ちゃん交流会で知り合ったいわゆる“ママ友”だ。

同じ月齢の女の子の親で、年齢は未希の3つ上。

さらに、未希が通院していた不妊治療クリニックに彼女も通っていたようで、共通点が多く話が弾んだのだ。

『ぜひぜひ行きましょ♪今のところ、幼児教室のある月曜以外はいつでも大丈夫です!』

未希は、出産前には一切使っていなかった絵文字や、彼女とやり取りするためにわざわざダウンロードしたスタンプでメッセージを彩り、そう返信した。

するとそのタイミングで、ふぎゃあ、ふぎゃあと咲月が泣き始める。

この泣き方はお腹が減ったのだろう、と感覚的にそう分かってしまう自分が誇らしい。

―穏やかな毎日、幸せだなあ。

授乳をしながら、窓の外に遠く見えるオフィスビルのタワー群を眺め、その中で働くかつての自分のような人々に思いを馳せる。

―本当に、幸せなんだから。

未希は繰り返す。まるで自分に言い聞かせるかのように。



「高田さんって、あの、カメラマンの高田明久さんの奥さん?」

夜、華子に誘われたことを、会社から帰ってきた慎吾に報告すると、驚いたように答えた。

「そう。赤ちゃん交流会で知り合って、仲良くしてもらってるの」

華子の夫は、テレビCMにも出演したことがある有名カメラマンである。目鼻立ちが整っていてモデル並みの美男である彼は、マンション内でもちょっとした有名人なのだ。

「でも未希、前に公園でたむろする人たち見ながら、『ママ友とか苦手かも』って言ってたよね」

「子どもを産んだら別よ。情報交換もできるし意外と楽しいの」

慎吾の顔が少々不満げになっていることに未希は気付く。すると聞こえるか聞こえないかの微妙な声で、慎吾がつぶやいた。

「…ま、ほどほどに。仲良くするのは奥さんだけにしておいてよ」

かなり小さな声だったが、未希の耳にはハッキリとそう聞こえた。

「なにー、嫉妬?」

未希は慎吾の顔を覗き込み、ニヤニヤと笑いながらからかう。

「そうだよ!!」

慎吾はお返しとばかりに未希の頬を両手でつねる。「痛いー」とお互い大声で笑い合うと、ベッドルームから咲月の泣き声が聞こえてきた。

「いいよ、そのまま寝てきな。洗い物も僕がしておくから」

ニッコリと笑う慎吾の優しさに、未希は今日も甘えることにした。

「じゃあ洗濯もお願い」

「オッケー」

慎吾は子供が生まれてからというもの、以前にも増して優しくなっている。

不安定になりがちな産後と言えど、慎吾の存在のお陰で未希も心穏やかに過ごせていると言っても過言ではなかった。


おしゃれなママ友・華子


それから3日後のこと。未希は、華子と出かけることになった。

銀座で子ども服を見た後、少し散歩をしてから丸の内の『ローズベーカリー』に入る。




昼下がりの穏やかな雰囲気が店内に流れており、子連れでものんびりできそうで未希も安心した。

場所柄、ビジネスマンやOLが遅めのランチをとっている姿もある。

彼らを横目に見ながら、子供をあやしつつママ友と食事をする自分。それはいまだに、くすぐったいような不思議な感覚がある。

「咲月のお洋服、華子さんに選んでもらえてよかった。私、センスないから」

未希はルイボスティーを飲みながら華子に感謝すると、彼女は得意げに答える。

「ファッションのことなら何でも聞いて。それが私の仕事だったもの」


ママ友・華子の何気ない告白に未希は愕然とする…


華子は出産前、大手出版社でファッション誌の編集をしていたのだそうだ。

確かに、いつ見ても抜かりのない流行ファッションでキメている。今日着ているコートはロンハーマンで購入したものらしい。

「もしよければ、今度一緒に子ども服ブランドの展示会に行きましょうよ」

「え、いいの?」

恐縮しながら言うと華子はニッコリ笑った。

「4月には復職するから、あまり会えなくなるけど…。招待状もらったらすぐに連絡するね」

「復職…?」

その2文字に、未希はどこか凍り付くような感覚をおぼえた。

「そう。保育園に入れるの。夫はフリーランスだし、収入もあるから切られるかなって思っていたんだけど。先週、認可決定の通知が来たんだ」

華子が出版社で働いていたことは知っていたが、その話しぶりからすでに退職したものだと思い込んでいた。

「そう、おめでとう」

嬉しそうに話す華子に、お祝いの言葉を言うしか選択肢はなかった。ただ、なぜか華子が復職するという事実が、自分の中に重くのしかかる。

寂しい、というわけではない。それとは違う心のざわつきが収まらなかった。

―なんだろう、この胸騒ぎ…。

未希の脳裏に、退社した日の光景がおのずとよみがえってくる。




2018年 3月


「入社から今までありがとうございました」

大手損害保険会社の法人営業部。シンと静まり返ったフロアの中央では、今日をもって退職する未希が、同僚たちの前で挨拶をしている。

「右も左も分からなかった私が、1人前の会社員になれたのも、ご指導いただいた先輩方と、共に励まし合った同僚、支えてくれた後輩のおかげです」

未希は同僚たちの顔を見回して、まっすぐな目で言う。

「これからはお腹の中の赤ちゃんの、1人前のママになれるよう頑張ります」

そう言ってニッコリ微笑むと、周囲の拍手に囲まれながら頭を下げる。

その瞬間、ある男性上司が小声でつぶやいたのが聞こえてきた。

「あんな鉄の女でも、妊娠すると変わるんだな」

周囲はうなずき、同僚の1人が答える。

「彼女、不妊治療していたんですよね。そこまでしていたんだから、会社の期待があってもアッサリ捨てるのは当然だと思いますよ。彼女も所詮、女だったんですね」

社内のほとんどの人間は、自分を“得体の知れない異質な存在”として認識していた。

「鉄の女」や「宇宙人」など、未希を表す異名は数限りなかったのだ。

それもそのはず。未希は男社会と言われるこの大手損害保険会社で優秀な営業成績を誇り、30歳という若さで初めて課長代理になった女だったのだから。

社内の女性活躍推進リーダーとして、メディアに出演したこともある。もちろん社内からは慰留の声もあったが、未希の意志は固かった。

「順調だったのに」
「ここまでキャリアを積んだのになぜ?」

そんな声に、未希はお腹をさすりながらこう答えたのだ。

「私がいなくなっても代わりはいます。でも、この子のママの代わりはいないんです」

このときの未希は、自分の選択を後悔する日が来ることなど、想像もしていなかったのだった…。

▶他にも:「夫の海外赴任中に、寂しすぎて…」豪邸に残された妻が取ってしまった予想外の奇行

▶Next:9月14日 月曜更新予定
残りの育休を満喫する華子の姿に、未希の心には黒い感情が芽生え…?



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