モンゴルに自由と統一を!日本人と共に民族独立を目指した悲劇の英雄・バボージャブの戦い【完】

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これまでのあらすじ

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清国の支配を脱し、民族独立の大志を抱く南モンゴル(現:中国内モンゴル自治区)の青年バボージャブ(巴布扎布。1875〜1916)は、日露戦争で日本側の義勇兵「満洲義軍(まんしゅうぎぐん)」の主力メンバーとして活躍、大いに戦功を上げました。

その後、辛亥革命(清国の滅亡)に乗じて北モンゴル(現:モンゴル国)に建国した「大モンゴル国(ボグド=ハーン政権)」に参加、南モンゴルを解放(南北モンゴルを統一)するべく中華民国(清国の後継国家)との戦いに身を投じます。

しかし、大モンゴル国の後ろ盾となっているロシアの意向によって民国四1915年「キャフタ協定」を締結。正式に「ロシア・中華民国への臣従=南モンゴルの放棄」を承認させられてしまったのです。

大モンゴル国皇帝ボグド=ハーン(左)。露中の圧力に屈し、誰よりも忠義に篤かったバボージャブを見限った。

これを不服としたバボージャブは、なおも抵抗の意思を示したところ、ロシア・中華民国に逆らえない傀儡ボグド=ハーンから追討命令を下されてしまいます。

追い詰められるバボージャブが日本に支援を求めたところ、陸軍通訳官の川島浪速(かわしま なにわ)がこれを快諾。武器弾薬や軍資金、兵員を調達して派遣してくれました。

最大3,000にまで復活した軍勢を「勤王師扶国軍(きんのうすいふこくぐん)」を称し、その総帥となったバボージャブは「大モンゴル国が真の独立を勝ち取り、南モンゴルの解放を実現」する決意を新たにするのですが……。

袁世凱の死により、大陸は混沌の乱世へ

さて、勢力を確保したバボージャブは「民族独立には、満洲・モンゴルの連携が不可欠」と考え、南モンゴル東部から満洲地方の西部にかけて地盤を築くべく、中華民国・ロシアに敵対する馬賊勢力にアプローチします。

「皆で手を携えて、満洲・モンゴルの民族独立を実現しようではないか!」

しかし、満洲馬賊たちは縄張り争いに忙しく、民族の独立・国家建設よりも目先の利権に汲々としてまとまりません。

また、南モンゴルの中でも「民族の独立を主張して多くの血が流れるくらいなら、中華民国の支配下で貧しいなりに安穏と暮らしたい」という意見が蔓延し、あくなき独立闘争を訴えるバボージャブは次第に疎まれるようになっていきました。

手を拱(こまね)いている内に民国五1916年6月、中華民国の大総統・袁世凱(えん せいがい)が亡くなると、中華民国は内部抗争・分裂によって大陸をまとめ切れなくなり、各地の軍閥が割拠する混沌の乱世に突入します。

こうなると、日本としては中華民国が大きな脅威でなくなり、中華民国に対する牽制として満洲・モンゴルを特別に支援する必要がなくなった事から、バボージャブに対する支援を打ち切りにしてしまいました。

「やはりか……大国の連中は、いつだってそうだ!」

大国の都合による支援は、大国の都合によって打ち切られる不安定なもの。覚悟していたバボージャブでしたが、もう後には退けません。バボージャブ率いる勤王師扶国軍はハルハ川から奉天を目指し、満洲馬賊の大親分・張作霖(ちょう さくりん)の攻略に乗り出します。

満洲馬賊の大親分・張作霖。Wikipediaより。

流石に滅ぼせるとは思っていなかったにせよ、短期決戦で痛打を加えた上で和睦を持ちかけ、モンゴル族が「満洲支配に利用価値がある」とほのめかす事で、満洲・モンゴルそれぞれの独立に協力関係が構築できる可能性に賭けたようです。

張作霖さえ(一時であれ)味方にできれば、満洲の馬賊たちは態度を軟化させる筈……かくして民国五1916年7月下旬、バボージャブたちは張作霖の軍勢と兵火を交えたのでした。

「モンゴル民族、万歳!」英雄バボージャブ、戦場に散華

戦いは、予想以上に長引きました。日本からの支援がないため、物資は現地調達……要するに略奪しかありません(南モンゴルならともかく、満洲に乗り込んで来た異民族に喜んで物資を差し出す人は稀だった筈です)。

いくら戦場の習いとは言え、奪われる側にしてみれば迷惑以外の何物でもなく、バボージャブたちはどんどん支持をなくしていきました。それでも引き返せばこれまでの犠牲がすべて無駄になる訳で、一縷の望みを賭けて進むより他にありませんでした。

かくして8月14日に郭家店(現:吉林省四平市)を占領しましたが、味方は大きな被害を出し、また張作霖は和睦どころかより大軍を率いて奪還に乗り出す姿勢を見せており、バボージャブは進退窮まってしまいます。

「……なぁ。ここは一度、撤退しないか?ウジムチン(現:内モンゴル自治区シリンゴル盟)ならひとまず安全だから、お前の妻子も首都フレーから移って貰った。そこで態勢を立て直すんだ」

説得に来たのは、盟友の川島浪速。日本国としての支援は打ち切られてしまっても、個人的な交流は続いていました。

「今の状態でここに籠城しても、張作霖の大軍に包囲されておしまいだ。お前の志はモンゴル民族の独立そして南北統一であって、満洲のチンピラ(張作霖)に喧嘩を売ることじゃなかった筈だ」

「……やむを得まい」

バボージャブが郭家店を去ったのは9月2日、張作霖の追撃をかわしながら撤退し、1ヶ月ほど右往左往の末、10月初旬に南モンゴルへの入り口である林西(りんせい。現:内モンゴル自治区赤峰市)まで辿り着きました。

ここまで来れば、ウジムチンはあと一息ですが、林西城の軍勢は張作霖に味方する姿勢を示したため、ここを通らねば帰れないバボージャブは林西城に攻めかかります。

「突撃!」勇猛果敢に攻めかかるバボージャブ軍(イメージ)。

「者ども、かかれ!モンゴル騎兵の意地を見せてやれ!生きてウジムチンへ帰るんだ……っ!」

緒戦でこそ勝利したバボージャブ軍ですが、これは敵の罠。勢いに乗ったバボージャブが精鋭300騎を率いて突撃を敢行したところ、伏兵による機関銃掃射を受けてしまいます。

「モンゴル民族、万歳……っ!」

左肩に被弾したバボージャブは、あえなく戦死。時に民国五1916年10月8日、享年41歳でした。

エピローグ・受け継がれるモンゴル民族の大志

バボージャブの戦死によって「第二次満蒙独立運動」は失敗に終わり、勤王師扶国軍の残党たちは散り散りになって命からがら逃げ延びて行きました。

「……そうですか。かねて覚悟はしていましたが……」

別ルートで帰還した川島浪速からバボージャブの戦死を告げられた妻は、子供たちと共に保護されます。

「バボージャブ将軍は、かのチンギス=ハーンの後裔に恥じぬ戦いをなされました。自分はその偉大なるご遺志を、ご子息たちにお伝えしたく思います」

川島浪速に引き取られた四人の遺児たちはみな軍人となり、モンゴル民族独立の大志を胸にモンゴル人民共和国(大モンゴル国の後継・共産国家)や満洲国(清国の末代皇帝・愛新覚羅溥儀による国家)で活躍するのですが、それはまた別の話。

モンゴル族の魂は、子孫たちに受け継がれる(イメージ)。

バボージャブ将軍の、そしてモンゴル民族の大志がどのような形で果たされるのか、そして日本と日本人がどのように関わっていくのか、歴史の延長線上に生きる一人として、とても興味深く見守っています。

【完】

※参考文献:
楊海英『チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史』文藝春秋、2014年11月
波多野勝『満蒙独立運動』PHP研究所、2001年2月
渡辺竜策『馬賊−日中戦争史の側面』中央公論新社、1964年4月