「「あつまれ どうぶつの森」で起きた突然の金利引き下げは、この世界が“楽園”ではない現実を浮き彫りにした」の写真・リンク付きの記事はこちら

新型コロナウイルスの影響で英国がロックダウン(都市封鎖)されている間、ずっと「あつまれ どうぶつの森」でタランチュラを捕獲していた。「あかいわふうのはし」の建設費用を支払うための、孤独で恐怖を感じる作業だ。

真夜中に狡猾なクモと向き合っていない日中は、屋外でせっせと働く。木を揺らし、岩を叩き、獲物がいなくなるまで海で釣りをする。飛行機代を出す余裕があれば別の島へ行き、その島の資源もすべて回収して、懐がいっぱいになるまで貯め込む。

ただひたすらコツコツと働くのみだ。唯一の人間であるプレイヤーは、ぎこちない動物たちのコミュニティのなかで生きている。動物たちが島という監獄をフラフラさまよっている間、プレイヤーはあり得ないほどの富を蓄え、もっとあり得ないほどの借金を支払おうとする。それが「あつまれ どうぶつの森」での生活だ。一見かわいらしい箱庭シミュレーションに見えるが、その中身は中毒性のある道徳劇なのである。

突然やってきた「利下げ」

爆発的な人気となっているこの任天堂のシミュレーションゲームは、ロックダウン生活を楽しむための最新の方法として人気になっている。それもそうだろう。なにしろ現実世界で家に閉じ込められているのだから、楽園で浮かれ騒ぎながら毎日を過ごさない手はない。

ただし、「どうぶつの森」は楽園ではない。言葉をしゃべるリスのいる、後期資本主義の世界だ。

このゲームの主な欠点は、最大の強みにもなっている。ストリートミュージシャンの犬(「とたけけ」)を自分の島に連れてきたら、事実上クリアしたことになる。プレイヤーは自由の身になるが、その自由とは幻想だ。ゲームに登場する親切なタヌキの権力者「たぬきち」に管理されながら、より高い目標であると自分が思い込むものを永久的に追い求めて働くことになる。

それに従わなければ、それなりの結果が待っている。ゲーム内の中央銀行(「たぬきバンク」)が4月22日、ルールに従わない者をさっそくつぶしにきたのだ。

「このたび、かってながら『おあずけいれ』のきんりを ひきさげることにいたしました」

たぬきバンクからの手紙にはそう書かれており、銀行からはお詫びの品も送られてきた。「ベルぶくろのラグ」という、ほぼ完璧なネーミングだ。

この金利引き下げは、時間の操作という“裏技”を防ぐために導入されたようだ。プレイヤーは、ゲーム内の時計を操作することでゲーム内通貨「ベル」の貯金の金利を最大化し、たぬきちが課す借金まみれの苦役から解放され、莫大な富を築くことができたのである。

たぬきちのディストピア

たぬきちの悪徳資本家ぶりは、ゲームで長い間ジョークの種になってきた。だが、今回の措置は間違いなく、たぬきちのディストピアが最も完全なかたちで表れたものである。

プレイヤーは熱帯の孤独な島にいる。その使命はといえば、島の資源を回収し、荒れ地に一定の秩序と文明をもたらすことだ。発売から1カ月強が過ぎ、その労働の成果が出始めている。

「自然界はわたしたちに開拓されるのを待っており、どうにかして文明社会として進化できる」という信念に基づいた、精巧につくられた島。基本的にはイースター島のような場所だが、そこには本当に愉快な青い2匹のハリネズミがやっている素晴らしい仕立て屋もある。

たぬきちに何をすればいいか尋ねても、彼は肩をすくめ「好きなことをすればいい」と答えるだけだろう。だが、両者とも取り交わした契約については完全に理解している。自由という幻想と引き換えに、限界まで働かなくてはならない。楽園のすべての場所の可能性を最大限に引き出すまでだ。

もちろん、つつましい家に暮らし、島に依存して生きていくこともできる。もしくは正気を失った資本家のブタのように、原型をとどめないほど島を搾取することもできる。その場合はもちろん、道を思い通りに舗装するのであろう。

このゲームが巧みに設計されている点

どうぶつの森」の最も興味深い面、そしてゲームとして大成功した確実な理由は、結末のない資本主義のひとつのかたちを提示したことだろう。借金まみれになって、1ベルも返さないで過ごすこともできる。それでも太陽は朝に上り夜には沈むし、自分の完璧なバラ園では蝶が舞い飛ぶ。たとえ現実世界で住む場所を失い、人生がズタズタだったとしても。

どうぶつの森」では、そうはならない。もちろん、借金で身動きがとれない状態なのに、熱帯の冒険の遊び場に莫大なベルを費やしていることになる。それが何だというのだろう? 借金はいつか返せるかもしれないし、返せないかもしれない。たぬきちは気にしない。だが、プレイヤーは気になるだろう。

それこそが、このゲームが巧みに設計されている点である。借金は目的を与えてくれるのだ。返済に失敗すれば、ゲームはそこでストップする。進行が止まれば、自分の文明社会も発展しなくなる。発展がないということは、目的を見失うということだ。

もちろん死にはしないが、死んだも同然になる。借金を返して、キラキラした家を建てることができたら、今後は特に意味もなくオンラインにつなぎ、ほかのプレイヤーの島を探し始めるだろう。

そしてパニックに陥る。「ほかの人たちの熱帯の庭園は、どうして自分の場所よりも素敵なんだろう?」「なぜ自分の『テラフォーミング』が突然、見事どころかずさんに見え始めたのだろう?」

ここでもたぬきちは気にしないが、自分は気になる。そして、また借金を重ね、コツコツと作業に励むというわけだ。

現実世界で手に入らないもの

ここで再度、たぬきバンクの金利引き下げの話に戻る。このゲームの究極の通貨が「コツコツ作業」であるならば、一攫千金を目論む詐欺行為は、牧歌的な資本主義への究極の裏切りになるだろう。

借金が目的を与えてくれるという考え方は、「どうぶつの森」のすべてを支えている。特に家を増築しようとしたときに、それが明らかになる。すべての拡張パーツの値段が、前のパーツよりも桁外れに高いのだ。

できるだけ多くのベルをできるだけ早く稼ぎながら、自分の島をのどかな「PEZ(ペッツ)」の容器のようにするというバカバカしい作業の繰り返しにはまっていくことになる。その間ずっと、たぬきちは島の理念に取り組むプレイヤーを称賛する。その考え方はシンプルで、「十分な期間コツコツ働けば、報酬が得られる」というものだ。

その報酬は自分のものにはならない。つまるところ、隣のゾウが1日中ずっと虫を追いかけて走り回っている間、なぜ自分はそんなに懸命に働くのか? 報酬は家族でもない。ゾウはあなたのことが好きだ。だが、ゾウとおしゃべりしたからといって、種族を超えた成人指定のロマンスが生まれるわけではない。

報酬は資本だ。大きな家だ。プレイヤーの労働の成果で輝く島。2001年に登場して以来、「どうぶつの森」シリーズは、現実世界でますます手に入りにくくなっているものをわたしたちに与えている。それは「わが家」と呼べる場所だ。その唯一の対価が、プレイヤーの自由なのである。

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