映画『キャッツ』は、日本では好評だが、アメリカではさんざんな結果になっている。なぜ映画版ではウケなかったのか(写真:映画『キャッツ』公式サイトより)

映画『キャッツ』に、初めていいニュースが訪れた。先週末公開になった日本で、全国映画動員ランキングが堂々の1位に輝いたのだ。過去にミュージカル映画をことごとく当ててきた日本は、今作もまた両手を広げて歓迎したようである。

だが、残念なことに全体を見ると、日本の貢献も焼け石に水にすぎない。現在までの世界興行収入は、わずか6600万ドル。製作費は1億ドル弱、世界規模のマーケティングにほぼ同額がかかっており、製作配給のユニバーサルは、およそ1億ドル(約110億円)の赤字をかぶると見られているのだ。

それだけでも十分に悲しいが、今作はアメリカ公開以来さんざんジョークにされるという屈辱も受けている。『サタデー・ナイト・ライブ』は「早く終わってくれ!というのはまるで映画『キャッツ』ですね」とトランプの弾劾になぞらえたし、毒舌コメディアンのリッキー・ジャーヴェイスはゴールデン・グローブ授賞式で、今作をまだ弁護しているジュディ・デンチをネタにした。

アメリカではアカデミー賞も視野に入れての年末北米公開だったが、今やひどい映画に贈られるラジー賞の最有力候補。映画を鑑賞した観客の評価を集計した「シネマスコア」も低評価のC+だったという事実も、十分な“キャンペーン材料”となる。

なぜ『キャッツ』はウケなかったのか?

この映画がウケなかった最大の理由は、俳優にCG処理をほどこして猫に見せているのが「純粋にヘン」だということ。登場キャラクターたちは多くのシーンで2本足のまま立っているが、その姿勢でイアン・マッケラン扮する猫が皿のミルクを直接舌で飲んでいるのはバカバカしいし、テイラー・スウィフトの猫がハイヒールをはいてセクシーな身のこなしをするのは妙になまめかしい。


(左)イアン・マッケラン、(右)テイラー・スウィフト(写真:【左】David M. Benett、【右】Neilson Barnard/ともにGetty Images)

舞台は非日常が前提なうえ、俳優との距離も離れているので、受け入れられているのだろう。だが、日常が前提である映画で、顔も名前も知っている俳優が猫だと言われてもかなり受け入れづらい。

そんなことは最初からわかっていたはずと言えばもちろんそうなのだが、プロジェクトが発表されたときに、今作を絶対失敗すると予測した人は多くなかった。紙の上で見れば、むしろ成功する要素だらけで、やらない理由はない作品だったのだ。

第1の理由は、知名度である。リスクを恐れるメジャースタジオが、今日いちばん重視するのは、観客と作品の距離が近いかどうか。続編、リメイク、リブート、スピンオフ、おもちゃやビデオゲーム、テーマパークの乗り物の映画化が多いのはそのせいだ。

舞台ミュージカル『キャッツ』は、1981年にロンドン、1982年にブロードウェイでデビューして以来、数々の記録を打ち立ててきた。これまでに30カ国、15の言語で上演されているし、「メモリー」は舞台を観ていない人でも知っている名曲である。知名度においては、百点満点と言える。

さらに、製作陣も非常に豪華な顔ぶれだ。監督は『英国王のスピーチ』でアカデミー賞監督賞を受賞し、『レ・ミゼラブル』ではアン・ハサウェイを、『リリーのすべて』ではアリシア・ヴィキャンダーをアカデミー賞「助演女優賞」に導いたトム・フーパー。彼と脚本を共同執筆したのは、『リトル・ダンサー』を書き下ろし、その舞台版『ビリー・エリオット』も手がけたリー・ホール。

2人が組む作品に出ない手はない。もしかしたら自分もこれでアカデミー賞とはいかなくても評価されるかもしれないと、歌に自信のある俳優たちは、まさにこの映画に出てくるゴキブリ軍団のように列をなして押しかけてきた。先に述べたデンチ、マッケラン、スウィフトのほか、ジェニファー・ハドソン、イドリス・エルバ、ジェームズ・コーデン、レベル・ウィルソンなどである。

作品への期待感ばかりが募るが…

そうやって「すごい作品になる」条件がどんどん固まっていくと、スタジオも、ますます今作の成功を信じた。そもそも、あまり口出しをしないのがスタジオの流儀とされているし、これだけ実績がある監督に、これだけの俳優がついてきたとあれば、あえて口を出す必要はない。製作の途中で、「これはヘンじゃないか」と思った人がいたとしても、アーティスティックなプロセスに口を出すなんて何様だと、自制したのかもしれない。

それにCGが多用される今日においては、俳優が最終的なビジュアルがどうなるのかよくわからないまま演技を撮影することは日常茶飯事だ。

現場ではテニスボールを相手に驚いてみせる演技をしたが、完成作を見たらそこにはちゃんと恐ろしいクリーチャーがいて、「ああ、素直に飛び込んでよかった。やはり監督は信じないとダメなんだな」というような経験を俳優の多くがしている。今回もきっとそうなると、彼らは思っていたはずである。

「いや、やっぱりこれはおかしいよ」と最初に声を上げたのは、夏に出た予告編に反応した一般人だ。だがその頃には撮影も終わっていて、フーパーは公開日までに映画を仕上げるのに精いっぱいだった。あまりにギリギリの完成だったため、アメリカでは公開の数日後にCGをやり直したバージョンが新たに劇場に送られるという、めったにない出来事まで起きている。

修正前のバージョンでは、デンチの手が人間のままになっていて、結婚指輪まで見えていたそうだ。気づくのが遅かったら、この映画はさらにシュールなものになっていたことだろう。

『キャッツ』の失敗から何を学べばいい?

つまり、これは誰にでも起こりうる失敗だったのである。この例から何か学ぶとすれば、ヒットのための確実なルールは、やはり存在しないということかもしれない。

この作品と対極の立ち位置にあった『ラ・ラ・ランド』の成功も、それを後押しする。当時はまだ駆け出しに近かったデイミアン・チャゼルが書き下ろしたこのオリジナルミュージカルの知名度は当然ゼロ。「しかも、プラネタリウムにいる主人公たちが突然歌い出して空に飛んでいくんだから」と、チャゼルは、投資してくれる人たちを探すうえでの苦労を振り返っている。

たしかに、そう聞いただけだったら、人間が猫を演じるよりももっと奇妙な映画に聞こえるに違いない。だが、チャゼルは、最も共感できる形でそれをやり、見事、観客をその世界に引き込んだのだ。そして、3000万ドルという『キャッツ』の3分の1以下で作られたこの映画は、結果的に、全世界で4億5000万ドル弱を売り上げ、複数のアカデミー賞を受賞した。

映画は人が作るもの。その過程では、すてきなマジックも起こりえるし、逆もまたある。そこを見極めたいと誰もが思うが、それはどんなに研究しても不可能だ。『キャッツ』は残念ながら後者の例になってしまった。

この映画のために、時間と努力をたっぷりつぎ込んだ関係者は今、当然つらいだろう。しかし、「猫に九生あり」という言葉もある。次は別の運命が待ち受けていることを願い、気持ちを取り直して、また新たな作品に挑んでほしい。