まつだ整形外科クリニックの松田芳和院長【写真:編集部】

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再生医療が秘める可能性、一人の元陸上選手は「PRP注射」で劇的に変わった

 アスリートにとって、膝はプレーを支える上で重要だ。その分、負荷もかかり、故障はつきもの。大きな症例の一つが、半月板の損傷だろう。一般的に受傷すればダメージが大きく、手術なら長期離脱を避けられず、リハビリをするにしても痛みと付き合いながらプレーをしていくことになる。そんな中、これからスポーツ界で可能性を秘めているといわれるのが、再生医療である。

 “第3の治療”ともいわれる手法により、半月板の損傷を乗り越えようとしているアスリートがいる。陸上の秋本真吾さん。現役時代、400メートル障害で鳴らした元トップ選手だ。プロ野球・阪神タイガースでスプリントコーチを務め、競技を問わず、Jリーガーら多くのトップ選手の走りを指導する新進気鋭の37歳は大きな怪我を負ったが、一人の医師と治療法によって運命が変わった。

「本当に衝撃的でした。まともに歩けず、ジョギングだけで痛かった足でこんなに早く、ダッシュしようと思えているので」

 きっかけは昨年、36歳で陸上の世界マスターズに挑戦したことが関係している。引退から6年、トップ選手のスプリントコーチとして活躍していたが、「コーチングだけでなく、走って見せられる指導者でいたい」という思いから一念発起。ただ、練習を始めた早い段階で右膝が痛くなり始めた。

 悲劇は突然に訪れた。11月29日、スポーツ教室で子供たちにハードルのデモンストレーションを見せた際に患部を負傷。右膝が「バキッ」と音がした。その日から激痛でまともに歩けなくなってしまった。次第に日常生活の痛みは和らぎ、リハビリができる程度には回復したものの、スポーツ界で著名なドクターに診察を仰ぎ、MRIを撮って診断を受けると、すぐに「手術です」と言い渡された。診察時間は、たった1分ほどだったという。

「『ここでは手術ができないので、紹介状を書くからそちらに行ってください』と。でも、リハビリはできる状況。『そんな簡単に手術しなきゃいけないものなの?』と納得できなかった。手術をしたら最低3か月から半年はかかる。自分の場合、指導の仕事があるので、そんなことはできない。なんとかならないかと思って、自分で動くしかなかった」

 同じ症状を経験したことがある知り合いのサッカー選手に片っ端から電話し、あるJリーグクラブのチームドクターの紹介を受けた。その日のうちに診てもらえることになり、すがるような気持ちでMRI画像を持って病院を訪れた。すると「手術に必要な動作のチェック項目が8つあり、その1つしか満たしていない」との診断を受けた。初診とは全く異なるものだった。

「今の段階で手術をしたら、秋本さん自身が納得いかないでしょう。リハビリができるくらいなら、経過を見ながらやっていくのはどうか」。そんな言葉をかけられ、二つ返事で「お願いします」と即答した。保存治療の道が開けた時、頭に思い浮かんだのが再生医療を手掛ける「セルソース」という企業だ。これが、結果的に秋本氏の予後を大きく変えることになる。

保存療法が第1、手術が第2、その2つの間に存在する“第3の治療”

 自身も主催するスプリント指導のプロ組織「0.01 SPRINT PROJECT」を主催するアテネ五輪1600メートルリレー4位・伊藤友広氏が同社の社長・裙本理人氏と縁があり、相談すると、再生医療の分野で同社が加工を手掛ける「PFC-FD」を用いた新たな治療方法があることを知り、提案を受けた。日本ではPRP注射に対応する病院が少なく、紹介を受けたのが、埼玉・熊谷に整形外科クリニックを構える1人の医師だった。

「秋本さんの場合、内側半月板を損傷し、一部断裂していました。ただ、うちに来た段階でやれる処置としてはやっている状態。それでダメなら手術もやむを得ませんが、我々のところで取り組んでいた再生医療に代表されるバイオセラピーが効く可能性はありました。秋本さんはまだ若く、これからスポーツ界の第一線の現場で活躍しなければいけない人。少しでも良くなるのであれば、やりましょうと」

 こう語ったのが、まつだ整形外科クリニックの松田芳和院長である。話を進める上で、整理しておきたいのが、そもそも「再生医療とはいったい何なのか」ということだ。

 まず、再生医療について、松田院長は「保存的治療を“第1の治療”とすると、手術が“第2の治療”、その『1』か『2』でしたが、今、2つの間に“第三の治療”として再生医療がある」と説明。従来はリハビリなどで経過を見ながら復帰の道を探り、難しければ手術に踏み切っていた。しかし、今は手術の前段階として再生医療の道がある。その一例がPRP注射だ。

 PRPとは「Platelet-Rich Plasma」の略で、日本語にすれば「多血小板血漿」。松田院長によると、血液中にある血小板には血を止める作用があり、出血したら自然とかさぶたになり、自力で治癒するのは血小板のほか、同じく血液中にある白血球がマクロファージという成分を持ち、これに自己修復作用があるためだ。PRPはこの効果を利用した治療法という。

「血液中にある組織を修復する作用を持った“良い因子”を濃縮して取り出し、患部に入れる。それがPRP、再生医療といわれています。元来持っている自己修復力を高め、加速させるものです。メリットとして合併症がほぼなく、とても安全性が高い事があげられます。

 従来行われたヒアルロン酸の注射は人によってアレルギーを発症するというリスクがありましたが、PRP注射は自分の血液を抽出し、自分の体に入れるので、アレルギーなどの副作用はまず生じないと考えていいでしょう」(松田院長)

 さらに、専門的な話になるが、PRP注射にも白血球が含まれるもの、含まれないものがあるという。白血球は前述の通り、自己修復機能を持っているが、細胞を破壊してから修復する。膝についてはこの自己修復機能がマイナスに働く可能性があるため、白血球を含まない方が望ましいというのが、松田院長の見解だ。

 実際に白血球を多く含むPRPを注射すると、注射後数日間関節の痛みを訴える方がいるという。一方、白血球を含まないPRPでは、注射後に痛みを訴える人は皆無だ。ただ、多くのPRP注射は白血球が含まれているのが現状という。

秋本氏が経験したセルソースの「PFC-FD」の効果とは

 そこで今回、秋本氏に選んだのが、セルソースが加工・受託する白血球を含まない「PFC-FD」を用いたバイオセラピーだ。血液を採ってセルソースに送ると、3週間ほどで血小板から抽出したサイトカイン成分のみを凝縮し、凍結乾燥粉末にして戻してくれる。医師はそれを生理食塩水に溶かし、注射するだけ。松田院長は「正常な軟骨を攻撃する可能性がない。どの程度効くかは差が出るけど、損になることはないと選手に伝えています」と話す。

 また、粉末は保存期間が長く、例えば、海外遠征中に負傷したとしても、帯同ドクターが注射することができれば、効果が見込める。「日本でも病院ですぐに治療を受けたり、注射を受けたりも難しい。それが海外であっても、注射を打てる人さえいれば問題ない。保存できるということが最大のメリット。アスリートにとってもいいこと」と松田院長は認めている。

 こうした狙いがあり、3月、実際に秋本氏に注射を行うと、本人も驚くべき変化が表れたという。秋本氏は当時の経験を興奮気味に振り返りながら、このように明かしてくれた。

「打ったその日から明らかに違ったんです。ストレッチをしていたら膝を曲げて戻す時、痛さがあった。ただ、夜に何気なくしていて、膝を伸ばしたら『あれ? 痛くないんだけど』と気付いて、次の日になったら『痛くないぞ』と。試しにちょっと走ってみたら今まで痛かったはずの動きでも痛くない。もちろん、無理やりな動きをしたら痛さは出るけど、普通に走るくらいなら痛くなかったんです」

 実際、PRP注射から11日後に華麗に走っている動画をSNSに上げると、知り合いのサッカー選手から「半月板切れてるんじゃなかったの?」と驚きの電話が入ったという。それほど、他のトップアスリートからしてもインパクトのある変化だった。他にも一般のフォロワーから問い合わせが相次ぎ、半月板治療で悩んでいる人たちの大きさを実感したという。

 以降も順調に回復。手術を受けることなく、秋本氏の経過は良好だ。8月には北海道マスターズで復帰戦に挑み、100メートルを走った。「全く痛みもない」という。松田院長は「私の見解としては切れている半月板がみるみるうちに元に戻っていく魔法のような注射ではないと思っている」と前置きした上で、意義を語る。

「ただ、膝の関節内部の状況が良くない患者に対し、PRP注射によって関節の炎症が収まり、組織を修復する因子が吸着され、関節内部の環境が劇的に良くなることはあり得ます。炎症が収まると痛みが取れ、それによって動けるようになる。秋本さんの場合は筋肉が発達し、体のバランスが取れ、関節の環境が良くなったことにより、動けるようになったということだと思います」

 さらに、松田院長は「3か月から半年で元に戻る可能性はあります。どれくらい効き、効果があるのか。3か月に1回ずつやれば予防できるものなのか、半年持つのか、それは個人によってわからない部分もあります」と付け加えた。それでも、この再生医療に代表されるバイオセラピーがスポーツ界に価値をもたらす影響は大きいとみている。

シーズン残り1か月で負傷すれば、シーズン後に手術を遅らせることも可能

「秋本さんの場合、動きを実践できないことは仕事ができないことを意味する。完全に治せなかったとしても、どうしても手術が今できないという人が、手術をするまでの期間を延ばすことはできる」と言い、こんな例を挙げた。

 Jリーガーがシーズン残り1か月で半月板を損傷した。しかし、優勝を争う時期。手術は避けられなくとも、PRP注射により一定の回復が見込めれば、試合に出ることはできる。結果として、シーズンを戦い抜いた後で手術を受け、来シーズンに備える。それは野球、バスケ、ラグビーなどのスポーツでも置き換えられることができるだろう。

「手術を避けられなくても、少しでも膝の状態を良くすることはできます。現状は保険が利かず、15万円という費用はネックになる。ただ、手術して3〜6か月、試合に出られなければ、その期間の収入が得られない可能性を考えれば十分にペイできる、安いという見方もある。いろんなアスリートにとっては大きな可能性があると思います。何よりも痛みがなくなる。いつも『痛い、痛い』と言って日頃生活していたのが、楽になることはお金には代えられません。

 しかも、自分の体に傷をつけなくていいというメリットはあります。もちろん、効果が出ないケースもありますが、その善し悪しを考えても、アスリートの体にとってマイナスになることはないと、私は考えています。体を動かすことでご飯を食べている選手にとって死活問題。そこで治療の選択肢が1つ増えただけでも素晴らしいこと。こういう人には効く、効かないというデータがもっと集まれば、より治療の選択の確度を高めて提示できます」(松田院長)

 多競技に渡るトップアスリートを指導する秋本氏もその考えに同調する。「サッカー選手は不意な接触で故障しがち。野球も長距離打者は軸足を固定してフルスイングするので、痛めやすいと聞く。サッカー、野球の選手にとって需要は大きいと思いますし、それが一般の高校生、大学生にまで広がっていけば素晴らしい」と力説した。

「半月板損傷=手術」というイメージが定着していたスポーツ界。しかし、“第3の治療”の出現でアスリートを取り巻く環境は大きく変わるかもしれない。トップアスリートの膝も変えた手法はさらに脚光を浴びていきそうだ。(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)