滋賀県甲賀市にある櫟野寺の本尊「十一面観世音菩薩」(記者撮影)

外国人観光客でにぎわう京都駅から、東海道本線を疾走する新快速で約20分の草津駅。そこから単線の草津線に乗り換え、のんびりとした沿線風景を眺めながら35分ほど乗車すると甲賀駅に到着する。この「忍者の里」で知られる滋賀県甲賀市で現在、JR西日本が観光キャンペーン「ちょこっと関西歴史たび」を開催している。

甲賀市は少し前に「忍者の末裔調査」で話題になったが、今回の主役は忍者でない。舞台となるのは天台宗の古刹「福生山櫟野寺(らくやじ)」。秘仏本尊「十一面観世音菩薩」の33年に一度の大開帳に合わせ、特別企画を12月9日まで実施する。

像高3m超えの本尊「十一面観世音菩薩」

櫟野寺の始まりについては、延暦11年(792年)に比叡山の開祖、伝教大師最澄が根本中堂建立の用材のために甲賀の地を訪れた際、霊夢を感じて櫟(いちい)の木に一刀三礼(いっとうさんらい)で本尊を彫った、と伝わる。

その後、征夷大将軍の坂上田村麻呂が鈴鹿山の山賊を追討するにあたって観音像に祈り、平定後に祈願寺と定めて七堂伽藍を建立。自ら毘沙門天像を彫り、相撲を奉納したという。かつてはこの地の天台宗の中心寺院として広大な境内を有していたとみられている。

本尊の像高は312cmで、光背と台座を含めた総高は531.3cmにもなる。重要文化財の十一面観世音菩薩坐像としては最大という。頭と体は1本のヒノキから彫り出した「一木造(いちぼくづくり)」となっている。


法要が執り行われる中、厨子の重い扉が開かれて姿を現した本尊「十一面観世音菩薩」(記者撮影)

もともとは33年に一度しか拝むことができない秘仏だが、近年は年に数回、短期間の特別拝観の機会を設けている。今年は本来の大開帳の年にあたるため、拝観できる期間が長い。本尊の右手から「善の綱」が本堂の前の「回向柱」まで伸び、参拝者が触れることで縁を結ぶことができる、というのも大開帳ならではの特典だ。


十一面観世音菩薩は像高が3mを超える(記者撮影)


「甲賀三大仏」のひとつ薬師如来坐像(記者撮影)

櫟野寺は平安仏の宝庫といわれ、宝物殿には本尊を含む20体の重要文化財が安置されている。「薬師如来坐像」は本尊に次いで大きく「甲賀三大仏」のひとつに数えられる。これらのほか「地蔵菩薩坐像」や「毘沙門天立像」、「観音菩薩立像」など、表情や大きさがそれぞれ異なって、どれも独特の存在感がある。

宝物殿に並ぶ仏像は2年前の2016年秋、東京への「出開帳」で多くの人の関心を引きつけた。本堂と宝物殿の改修を機に、上野の東京国立博物館で開催した特別展「平安の秘仏」(櫟野寺展)には、4カ月の期間中に21万人超が訪れるほどの盛況ぶりだった。

櫟野寺の三浦密照住職は、10月5日の報道関係者向け内覧会のあいさつで「これまで東京や大阪に仏様を預けていたが、今回のご開帳に合わせ、約80年ぶりにすべての重要文化財20体が当山にお帰りになり、一堂に拝んでいただける機会ができた」としみじみ語った。

JR西日本が力を入れる「歴史たび」とは?

「ちょこっと関西歴史たび」は、JR西日本が「歴史を知ると、散策がさらに楽しくなる」をテーマにして、2013年度の春から季節ごとに開催しているキャンペーン。京阪神エリアにある寺社や城など、歴史ある名所旧跡を1カ所取り上げ、集中的にPRするのが特色だ。開催地は誰もが知っている観光スポットから、全国的な知名度は低い古刹まで幅広い。


櫟野寺には20体もの平安仏が残されている(記者撮影)

6年間で取り上げた寺社のなかには、奈良の興福寺(2015年度夏季)や比叡山延暦寺(2017年度秋季)といったユネスコ世界文化遺産の大寺院がいくつも含まれる。2018年度は京都伏見(春季)、奈良高畑(夏季)のエリアを取り上げた。櫟野寺の次の冬季は、兵庫県明石市の明石城での開催を予定する。

毎回、約3カ月のキャンペーン期間中、普段なら見学することができない貴重な文化財が特別に公開される。学芸員や僧侶が解説をしてくれる講座や、ボランティアガイドが案内をする町歩きなどの関連した特別企画も実施することが多い。

JR西日本は期間中、北陸エリアから山陽新幹線の博多駅まで、広大な自社管内のほぼすべての有人駅に、開催地の名称を大きく書いたパンフレットを置き、構内にポスターを掲示。京阪神エリアでは電車内の中吊りや車内ビジョンの放映でひっきりなしにPRをする。その宣伝効果は絶大で、キャンペーンの舞台となる寺社にとって、この3カ月は知名度を上げるまたとない機会になる。

同社の三輪正稔執行役員京都支社長は「四季折々の自然や、歴史ある寺院を紹介することで地域の皆さんと一緒になって盛り上げていくことが基本だ。キャンペーン期間だけでなくたくさんの方に来ていただいて交流人口を拡大したい」と話す。

同社は今年の春から草津線の貴生川―柘植間をICカード「ICOCA」が利用できる区間に加えた。今回、歴史たびのキャンペーンで櫟野寺を取り上げたのは、草津線の観光利用を拡大する狙いもある。

一方、地元の行政も地域活性化のチャンスを逃さない。甲賀市は2017年に同市が誇る「信楽焼」と「甲賀流忍者」が文化庁の日本遺産に認定されており、今秋のJR西日本の特別企画を起爆剤として観光客の呼び込みに拍車をかけたい考えだ。


櫟野寺の宝物殿では本尊のほか、貴重な仏像が一堂に会する(記者撮影)

岩永裕貴市長は「櫟野寺の大開帳は特筆すべき大きなイベントなので、成功するように市を挙げて頑張っていきたい」と力を込める。

甲賀は随筆家・白洲正子さんの著書「かくれ里」のゆかりの地でもある。室町時代の社殿が残る油日神社は、映画やドラマのロケ地として有名だ。最近では連続テレビ小説「わろてんか」の撮影に使われた。市内には朱塗りの楼門・回廊が印象的な大鳥神社も鎮座する。

ただ、いずれも草津線の甲賀駅やその隣の油日駅からは、歩いて訪れるのにはやや遠い。そこで甲賀市は大開帳の期間中、毎日7便の臨時バスを運行することにした。甲賀駅から油日神社、櫟野寺、大鳥神社の順に走るルートで、付近の由緒ある寺社を一度に周遊できる足を確保した。行政が協調してバス路線を設定するのはキャンペーンの産物といえる。

「歴史たび」を活性化のきっかけに

地方にとって観光需要の掘り起しは難しい課題だ。甲賀市の岩永市長は「甲賀には地元に根ざした魅力的な場所が多いが、あまりうまくPRができていなかった。今回のキャンペーンをきっかけに、ぎょうさんの方に来ていただければありがたい」と話す。


33年に一度の本尊大開帳を迎えた櫟野寺(記者撮影)


櫟野寺の三浦密照住職(中央)と甲賀市、JR西日本の代表ら(記者撮影)

櫟野寺の三浦住職も「滋賀県には立派な文化財がたくさんあるにもかかわらず、京都や奈良からもうひとつ足を伸ばせてもらえていなかった」と指摘。「仏様、観音様は湖北地域の文化財が有名だが、県南の甲賀地域にもたくさん残されている。ご開帳を機に知ってもらい、秋の山里を散策してほしい」と訴える。

これまでの「ちょこっと関西歴史たび」の開催地の中には、来訪者が前年同期の3倍に増えた場所もあるようだ。多くの参拝客に来てもらいたい寺社と、地域を活性化させたい自治体、沿線の乗客を増やしたい鉄道会社――。それぞれが単独でPRを頑張っても効果は薄いかもしれないが、3者で一体となって盛り上げれば大きな力を発揮できる可能性がある。沿線・地域の活性化の方策に悩む全国の鉄道会社や自治体も、ちょこっと参考にしてみてはどうだろうか。