「福田は平手造酒、インテリ浪人だ。欠点は取り巻きの話を聞きすぎること。太刀筋は鋭いが、立ち上がりが遅いことだ」

 すでに、こう政治家福田赳夫の本質、政治手法を看破していた田中角栄の「角福総裁選」に対する立ち上がりは早かった。対して、福田は持ち前の恬淡とした性格の一方で、佐藤栄作首相の後継意向が自分にあるとして安閑と構えていたフシがあった。同時に、佐藤派幹部の「策士」とされた“福田乗り”の保利茂、松野頼三、園田直も戦略に手間取っていたのだった。

 一方の田中は、さかのぼることの昭和41年(1966年)にして、池田勇人内閣ですでに大蔵大臣を歴任し、ぼんやりとではあるが天下取りが視野に入った段階で、大ブームを巻き起こした、後の「日本列島改造論」の原型となる「都市政策大綱」の取りまとめに入っていた。この年、すでに政権は佐藤栄作に移っていたが、田中は自民党に起こった「黒い霧事件」の責任を取る形で幹事長を辞任、突出する者を抑え込むという「人事の佐藤」の差配により、閑職と言っていい党の都市政策調査会長のポストをよぎなくされ、これをチャンスと受け止めての取りまとめへの没頭だった。

 この「都市政策大綱」取りまとめの過程では、改めて田中という人物の凄さが垣い間見られた。例えば、会社勤めの人間が人事で閑職に回された際、クサって無為な時間をすごす向きも少なくないが、田中は逆であった。すなわち、余裕のある時間を自らの今後の栄養にと、天下を取ったときのための政策づくりに腐心したということだった。

 その執念は凄まじかった。目をつけたのは、折りから高度経済成長の過程で潜在化していた日本列島の太平洋側と日本海側、都市と地方の過密・過疎、経済格差の是正に視点を置いた新たなこの国の設計図づくりということだった。都市政策調査会長ポストでの1年2カ月における田中の意気込みについて、当時の政治部記者の証言が残っている。

「田中ほどの有能な人物を遊ばせておくのはもったいないと、田中と親しい議員が持ちかけたのがこの新しい政策づくりだった。田中も若くして戦後復興のために、道路、鉄道、住宅関連など33本という異例の議員立法をつくったほどの男、この国の新たな課題へ向けて渡りに舟で乗った。やるときは何事も全力投球、率先乗範の人物だけに、意気込みは凄まじかった。

 資金量はもとより豊かなことから私費1000万円を投じ、すでに大蔵大臣、幹事長も経験した若き実力者として人脈も豊富で、まず有能で新たな国づくりに燃える国会議員、官僚、地方自治体の首長を選りすぐってテーマごとに分科会をつくった。集まった衆参の議員は100人近くに達していた。彼らが集めた資料は、じつに2トン・トラック1台分に達した。各分科会は深夜、深更に至っても徹底議論、田中も時にこうした分科会に顔を見せ、『責任は全部オレが持つ。思い切ってやってくれ』などと顔を紅潮させて檄を飛ばしていた。このセリフは、かつて学歴なしで大蔵大臣として大蔵省に乗り込み、エリート幹部を前に発した第一声挨拶、決意をにじませたそれにそっくりだった」

 結果、昭和43年(1968年)5月22日に、およそ6万字に及ぶ「都市政策大綱」としてまとめられ、5月27日には自民党総務会の了承も得たのだった。

★戦闘開始の佐藤引退表明
 一方、この「大綱」は自民党はもとより革新陣営からの拍手もあったが、普段から田中をあまりホメることのなかった、言うなら“天敵”でもあった朝日新聞さえ、珍しく「自民党の都市政策に期待する」と題した次のような社説を揚げたのも印象的だった。

「産業構造の変化と都市化の急激な流れは、都市地域の過密と地方の過疎による幾多の弊害をもたらし、国民に不安と混乱を与えている。ところが、わが国ではこれまで政府も与党も、総合的、体系的政策に欠け、その政策は個々バラバラの対症療法として、ほころびを繕うものばかりであった。それを20年後の都市化の姿を展望し、問題解決の方向、手法を単なる理論だけでなく、政策ベースに乗せたという意味で、この大綱は高く評価されてよいだろう」(昭和43年5月26日付)