『探偵!ナイトスクープ』初代P・松本修氏「時代が変われば依頼も変わる」
●新しいバラエティを作りたかった
2019年4月30日に幕を下ろす「平成」。マイナビニュースでは、「平成」の中で生み出されたエンタメの軌跡をさまざまなテーマからたどる。この「平成を駆け抜けた番組たち」は、平成の幕開けと同じ時期にスタートし、現在まで30年にわたって続く番組をピックアップ。そのキーマンのインタビューを通して、番組の人気の秘密を探っていく。
第5回は、平成が始まる約1年前の昭和63(1988)年3月にスタートした、ABCテレビのバラエティ番組『探偵!ナイトスクープ』(毎週金曜23:17〜)。深夜帯の放送でありながら、最高視聴率32.2%(98年5月1日放送、ビデオリサーチ調べ・関西地区)を記録したお化け番組の初代プロデューサー・松本修氏に話を聞いた。数々の傑作ロケを生み出し、バラエティ界に多大なる影響を与えながら、時代とともに進化を遂げてきた『ナイトスクープ』の魅力とは――。
○VTRにズバリとコメントする“発明”
――30年前に番組の企画が生まれたきっかけを教えてください。
初代局長の上岡龍太郎さんの存在が大きいですね。今でこそズバリと本音で斬り込むタレントはたくさんいます。マツコ・デラックスさんや小倉智昭さんなど、最低でも100人はいるでしょう(笑)。しかし当時は、テレビとなるとみんなキレイごとばかり言って、本質をズバリ言う人は2人しかいなかった。1人は横山やすしさん、そしてもう1人が上岡さんです。やすしさんは久米宏さんとの番組(『久米宏のTVスクランブル』82〜85年、日本テレビ系)で言いたい放題でしたが、メインの立場で番組を仕切っていたわけではなかった。ズバリと言いながら番組を仕切れるタレントは、上岡龍太郎ただ1人。そんな上岡さんの魅力を生かした番組を作りたいと考えました。
――そこで、探偵陣のロケVTRにメインの局長がズバリとコメントするスタイルが生まれたのですね。
視聴者にVTRをただ見せるだけではなく、探偵たちがスタジオで局長にプレゼンする。これを局長がズバリ批評する。ここまでが1つのエンタテインメントになっていて、こういうスタイルのテレビ番組は、30年前には他にありませんでした。既存の番組のマネではない、新しいものを作りたいという思いもありましたし、これは僕たちの“発明”だと自負しています。
今やこのスタイルはテレビでは当たり前になっていて、たとえば、ダウンタウンが若手のVTRを好き勝手言うのをごく普通に楽しんでいますよね。僕らの番組が、こういったお笑いバラエティの形を作る大河の一滴になったと思っています。
――発明といえば、今ではどのバラエティ番組でも使われている“出演者のコメントをなぞるテロップ”も『ナイトスクープ』が最初だったそうですね。
VTRの中のコメントが聞き取りにくかったり、内容を強調した方がよりおもしろくなるという場合にテロップでフォローするという手法は、番組が始まった年の88年にはもうやっていたので、僕らの番組が最も早かったと思います。後にルーツを主張する番組も出て来ましたが、断じてそれはない!ということを強調しておきたいです。
○“アホ”と“人の心”にこだわった30年
――取り上げる依頼の内容も斬新で、たとえば今でも傑作といわれる「謎の爆発卵」(93年放送「友人が電子レンジでゆで卵を作ったが、食べようとした瞬間に爆発したらしい。そのゆで卵を作ってみたい」という依頼を桂小枝探偵が調査)をはじめ、他の番組では見られないようなものが多いですね。
オナラでメロディを奏でてみようとか、そんなアホなことばっかりやってきましたね(笑)。アホにこだわって、しかもレギュラーでこんなに続いているお笑いバラエティは他にない。逆にそれが30年続いた理由でもあると思います。今はちょっと感動ネタが多い傾向にあるので、初心に戻ってもっとバカになろう!というのが、平成の次の時代を迎えるにあたっての目標でもあるんです。
――それは楽しみです!
もちろん、心を動かすようなネタも大事にしていきたいと思っています。たとえば、『ナイトスクープ』で同じような依頼をくり返しやっているネタがあって、それは“亡くなった身内が遺した料理を食べたい”というもの。今年も1月に、依頼者のお母さんが5年前に急に亡くなって、その日に作ってくれた豚の角煮を冷凍庫に残している、と。これを食べられないか?という依頼を放送しました。そして6月には、依頼者の亡くなった奥さんの得意料理だったインドカレーを、1人前だけ残しているわずかなカレーからレシピを再現できないか?という依頼を扱いました。
なぜこれほどやるのかといえば、人間の心に響くネタだからなんですね。心に訴えてくるものは、やはり何度も見たくなる。
――依頼者の人生が垣間見えるような依頼も増えたように思います。
時代が変われば依頼も変わる。今はインターネットが普及していて、大抵のことはネットで調べればわかる。ですから、ネットでは解決しないような“相談ごと”が増えているのも、今の時代ならではなのかなと思います。
●実は上岡龍太郎も泣いたことがある
――2001年には現局長の西田敏行さんが就任されました。このことで番組に変化はありましたか?
上岡局長の時代よりも、人間の弱い部分を晒すような依頼が増えました。上岡さんはズバリと言う人なので、弱さは見せられないというイメージがあったのかもしれません。一方、西田さんは人に寄り添う局長。自分の恥をさらけ出すことになるような依頼でも、西田局長なら親身になって解決してくれるという意識に変わってきたように思います。
――先ほど言われた“相談ごと”も、より依頼しやすくなったと?
今年の春、過去の依頼の中から視聴者投票でベスト10を決める特番(『30周年記念! 探偵!ナイトスクープオールタイムベスト10』)をやりましたが、そこで1位になった「10年以上口をきいてない父と母」(13年放送)は、依頼者の両親がまったく会話をしなくなった理由を探ってほしいという、他人にはなかなか言えない家庭の事情を相談するようなネタ。これも西田さんが局長だからこその依頼だったんじゃないでしょうか。
――西田さんはよく感極まって号泣されていますし、情に厚いお人柄が画面からも伝わってきます。
実は上岡さんも泣かれたことがあったんですよ。これを言うとご本人は嫌がるかもしれないけど、僕らはそんな上岡さんも知っています。涙を見せなかった理由は「ズバリと言う人間は泣いてはいけない」という上岡さんの男の美学があったからだと思います。
先ほども申し上げた通り、30年前には、歯に衣着せずズバリと言う人がテレビ界にほとんどいなかった。でも今は違います。“怒る人”が多いでしょう? 人を厳しく非難したり、知性で押し込んだり、なんでも上からの時代です。そんな中で、西田さんのように隣に寄り添うようにして“泣く人”は貴重な存在です。つまり僕らは、上岡さん、西田さんとその時代の貴重な人だけをリーダーに据えて番組をやってこられた。これはとても幸せなことです。
○“天才”に出会えなかった平成
――『ナイトスクープ』とともに歩んでこられた平成は、松本さんにとってどんな時代でしたか?
この30年、ニュースや情報番組は進化してきたと思いますが、バラエティ番組、ことお笑いバラエティに関していえば、進歩はなかったのではないかと感じています。『ナイトスクープ』でプレゼンのスタイルやテロップの新しい使い方を始めましたが、それ以降は新しいものが生まれていない。
これを象徴するのが、平成に昭和を凌ぐお笑いタレントが1人も出現しなかったということ。たとえば、“BIG3”と言われるタモリさん、ビートたけしさん、明石家さんまさん、その下の世代のダウンタウンにしても、昭和の時代に現れた人たちです。タレントで言えば“笑い”は進化していない。顧問として何度もご出演いただいているたけしさん、そして松本人志さんも好きな番組として『ナイトスクープ』を挙げてくれています。つまり、彼らの“笑い”のライバルはタレントではなく、『ナイトスクープ』なのだと僕は受け取っていますし、それを誇りに思っています。
――昭和はテレビから新しい才能が次々と生まれた時代でもありましたね。
テレビを作る側にも天才はいました。朝日放送の僕の先輩にも2人の天才プロデューサーがいて、1人はドラマ“必殺シリーズ”の生みの親である山内久司さん。もう1人は『てなもんや三度笠』(62〜68年)などの公開バラエティをヒットさせた澤田隆治さん。お2人が作る番組を、僕は浴びるように見てきました。
――革新的なものを世に送り出した先人たちに、松本さんご自身が刺激を受けてきたのでしょうか?
そうですね。この天才たちに僕は育てられたと思っています。ですが平成の30年間には、残念ながら、僕の尻を叩いて鼓舞してくれるような巨大な天才には出会えませんでした。だからこそ、平成の次の時代には、新しく生まれてくる才能に期待していますね。天才の出現を楽しみにしています。
2019年4月30日に幕を下ろす「平成」。マイナビニュースでは、「平成」の中で生み出されたエンタメの軌跡をさまざまなテーマからたどる。この「平成を駆け抜けた番組たち」は、平成の幕開けと同じ時期にスタートし、現在まで30年にわたって続く番組をピックアップ。そのキーマンのインタビューを通して、番組の人気の秘密を探っていく。
第5回は、平成が始まる約1年前の昭和63(1988)年3月にスタートした、ABCテレビのバラエティ番組『探偵!ナイトスクープ』(毎週金曜23:17〜)。深夜帯の放送でありながら、最高視聴率32.2%(98年5月1日放送、ビデオリサーチ調べ・関西地区)を記録したお化け番組の初代プロデューサー・松本修氏に話を聞いた。数々の傑作ロケを生み出し、バラエティ界に多大なる影響を与えながら、時代とともに進化を遂げてきた『ナイトスクープ』の魅力とは――。
――30年前に番組の企画が生まれたきっかけを教えてください。
初代局長の上岡龍太郎さんの存在が大きいですね。今でこそズバリと本音で斬り込むタレントはたくさんいます。マツコ・デラックスさんや小倉智昭さんなど、最低でも100人はいるでしょう(笑)。しかし当時は、テレビとなるとみんなキレイごとばかり言って、本質をズバリ言う人は2人しかいなかった。1人は横山やすしさん、そしてもう1人が上岡さんです。やすしさんは久米宏さんとの番組(『久米宏のTVスクランブル』82〜85年、日本テレビ系)で言いたい放題でしたが、メインの立場で番組を仕切っていたわけではなかった。ズバリと言いながら番組を仕切れるタレントは、上岡龍太郎ただ1人。そんな上岡さんの魅力を生かした番組を作りたいと考えました。
――そこで、探偵陣のロケVTRにメインの局長がズバリとコメントするスタイルが生まれたのですね。
視聴者にVTRをただ見せるだけではなく、探偵たちがスタジオで局長にプレゼンする。これを局長がズバリ批評する。ここまでが1つのエンタテインメントになっていて、こういうスタイルのテレビ番組は、30年前には他にありませんでした。既存の番組のマネではない、新しいものを作りたいという思いもありましたし、これは僕たちの“発明”だと自負しています。
今やこのスタイルはテレビでは当たり前になっていて、たとえば、ダウンタウンが若手のVTRを好き勝手言うのをごく普通に楽しんでいますよね。僕らの番組が、こういったお笑いバラエティの形を作る大河の一滴になったと思っています。
――発明といえば、今ではどのバラエティ番組でも使われている“出演者のコメントをなぞるテロップ”も『ナイトスクープ』が最初だったそうですね。
VTRの中のコメントが聞き取りにくかったり、内容を強調した方がよりおもしろくなるという場合にテロップでフォローするという手法は、番組が始まった年の88年にはもうやっていたので、僕らの番組が最も早かったと思います。後にルーツを主張する番組も出て来ましたが、断じてそれはない!ということを強調しておきたいです。
○“アホ”と“人の心”にこだわった30年
――取り上げる依頼の内容も斬新で、たとえば今でも傑作といわれる「謎の爆発卵」(93年放送「友人が電子レンジでゆで卵を作ったが、食べようとした瞬間に爆発したらしい。そのゆで卵を作ってみたい」という依頼を桂小枝探偵が調査)をはじめ、他の番組では見られないようなものが多いですね。
オナラでメロディを奏でてみようとか、そんなアホなことばっかりやってきましたね(笑)。アホにこだわって、しかもレギュラーでこんなに続いているお笑いバラエティは他にない。逆にそれが30年続いた理由でもあると思います。今はちょっと感動ネタが多い傾向にあるので、初心に戻ってもっとバカになろう!というのが、平成の次の時代を迎えるにあたっての目標でもあるんです。
――それは楽しみです!
もちろん、心を動かすようなネタも大事にしていきたいと思っています。たとえば、『ナイトスクープ』で同じような依頼をくり返しやっているネタがあって、それは“亡くなった身内が遺した料理を食べたい”というもの。今年も1月に、依頼者のお母さんが5年前に急に亡くなって、その日に作ってくれた豚の角煮を冷凍庫に残している、と。これを食べられないか?という依頼を放送しました。そして6月には、依頼者の亡くなった奥さんの得意料理だったインドカレーを、1人前だけ残しているわずかなカレーからレシピを再現できないか?という依頼を扱いました。
なぜこれほどやるのかといえば、人間の心に響くネタだからなんですね。心に訴えてくるものは、やはり何度も見たくなる。
――依頼者の人生が垣間見えるような依頼も増えたように思います。
時代が変われば依頼も変わる。今はインターネットが普及していて、大抵のことはネットで調べればわかる。ですから、ネットでは解決しないような“相談ごと”が増えているのも、今の時代ならではなのかなと思います。
●実は上岡龍太郎も泣いたことがある
――2001年には現局長の西田敏行さんが就任されました。このことで番組に変化はありましたか?
上岡局長の時代よりも、人間の弱い部分を晒すような依頼が増えました。上岡さんはズバリと言う人なので、弱さは見せられないというイメージがあったのかもしれません。一方、西田さんは人に寄り添う局長。自分の恥をさらけ出すことになるような依頼でも、西田局長なら親身になって解決してくれるという意識に変わってきたように思います。
――先ほど言われた“相談ごと”も、より依頼しやすくなったと?
今年の春、過去の依頼の中から視聴者投票でベスト10を決める特番(『30周年記念! 探偵!ナイトスクープオールタイムベスト10』)をやりましたが、そこで1位になった「10年以上口をきいてない父と母」(13年放送)は、依頼者の両親がまったく会話をしなくなった理由を探ってほしいという、他人にはなかなか言えない家庭の事情を相談するようなネタ。これも西田さんが局長だからこその依頼だったんじゃないでしょうか。
――西田さんはよく感極まって号泣されていますし、情に厚いお人柄が画面からも伝わってきます。
実は上岡さんも泣かれたことがあったんですよ。これを言うとご本人は嫌がるかもしれないけど、僕らはそんな上岡さんも知っています。涙を見せなかった理由は「ズバリと言う人間は泣いてはいけない」という上岡さんの男の美学があったからだと思います。
先ほども申し上げた通り、30年前には、歯に衣着せずズバリと言う人がテレビ界にほとんどいなかった。でも今は違います。“怒る人”が多いでしょう? 人を厳しく非難したり、知性で押し込んだり、なんでも上からの時代です。そんな中で、西田さんのように隣に寄り添うようにして“泣く人”は貴重な存在です。つまり僕らは、上岡さん、西田さんとその時代の貴重な人だけをリーダーに据えて番組をやってこられた。これはとても幸せなことです。
○“天才”に出会えなかった平成
――『ナイトスクープ』とともに歩んでこられた平成は、松本さんにとってどんな時代でしたか?
この30年、ニュースや情報番組は進化してきたと思いますが、バラエティ番組、ことお笑いバラエティに関していえば、進歩はなかったのではないかと感じています。『ナイトスクープ』でプレゼンのスタイルやテロップの新しい使い方を始めましたが、それ以降は新しいものが生まれていない。
これを象徴するのが、平成に昭和を凌ぐお笑いタレントが1人も出現しなかったということ。たとえば、“BIG3”と言われるタモリさん、ビートたけしさん、明石家さんまさん、その下の世代のダウンタウンにしても、昭和の時代に現れた人たちです。タレントで言えば“笑い”は進化していない。顧問として何度もご出演いただいているたけしさん、そして松本人志さんも好きな番組として『ナイトスクープ』を挙げてくれています。つまり、彼らの“笑い”のライバルはタレントではなく、『ナイトスクープ』なのだと僕は受け取っていますし、それを誇りに思っています。
――昭和はテレビから新しい才能が次々と生まれた時代でもありましたね。
テレビを作る側にも天才はいました。朝日放送の僕の先輩にも2人の天才プロデューサーがいて、1人はドラマ“必殺シリーズ”の生みの親である山内久司さん。もう1人は『てなもんや三度笠』(62〜68年)などの公開バラエティをヒットさせた澤田隆治さん。お2人が作る番組を、僕は浴びるように見てきました。
――革新的なものを世に送り出した先人たちに、松本さんご自身が刺激を受けてきたのでしょうか?
そうですね。この天才たちに僕は育てられたと思っています。ですが平成の30年間には、残念ながら、僕の尻を叩いて鼓舞してくれるような巨大な天才には出会えませんでした。だからこそ、平成の次の時代には、新しく生まれてくる才能に期待していますね。天才の出現を楽しみにしています。