戦後の日本は、「平和を愛する諸国民」=国連の仕組みに自国の安全と生存の保証を委ねた。

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日本国憲法はアメリカの「戦後処理」の一環でつくられた。だから憲法もアメリカを中心とする国際秩序の中にある。しかし日本の憲法学者たちは、「日本国憲法が正しく、国際法が間違っている」と論じ、集団的自衛権を否定してきた。なぜこんな理解が成り立つのか。「ガラパゴス化」する憲法学者の欺瞞を、国際政治学者が問う。

■「憲法9条=絶対平和主義」は本当か

東京大学法学部に代表される日本の憲法学者は、「憲法9条は絶対平和主義を表現するものだ」と主張してきた。しかし、それは正しい理解だろうか。体系的な憲法9条の読み方とは、むしろ国際法に合致した国際協調主義的なものではないだろうか。

国連憲章もまた2条4項において、武力行使を禁止する条項を持っている。その点では、日本国憲法と全く同じである。国連憲章は、武力行使禁止の一般原則に対する例外を明示している。国連憲章第7章で規定されている集団安全保障と、憲章51条の個別的・集団的自衛権だ。

憲法9条は国連憲章を前提として成立した。このため、武力行使禁止原則の例外規定も前提になっている。これは、連合国軍総司令部(GHQ)関係者だけでなく、芦田均元首相などの日本人たちにも共有されていた認識だ。

日本国憲法の前文は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とうたっている。「平和を愛好する諸国民」という概念は、国連憲章が加盟国を指して用いている概念である。

したがって憲法の前文は、「連合国=国連を信頼して日本の安全と生存を保持することを決意した」、ということを宣言しているわけである。それは、国連が定める武力行使禁止一般原則および集団安全保障や個別的・集団的自衛権の仕組みを信頼して、自分たちの安全と生存を維持する、ということを意味する。

当時の日本の状況を考えれば、国連に集う「平和を愛する諸国民」の集団安全保障体制を信頼して、自国の安全を図っていくという宣言は、自然なものだっただろう。1946年7月9日の憲法制定議会において、吉田茂総理大臣は、国連「憲章に依(よ)り、又国際連合に日本が独立国として加入致しました場合に於(おい)ては、一応此の憲章に依つて保護せられるもの、斯(こ)う私は解釈して居ります」と答弁している。

憲法前文と9条を素直に読めば、それらが、日本が第2次世界大戦後の国際秩序の中で自国の安全を確保していくことを宣言した条項であることは、明らかである。9条の解釈は、国際法体系の中で行っていくのが、もっとも正当な解釈だということだ。

■「逆コース」は憲法解釈の前提を変えたのか

ところが多くの憲法学者は、これを否定する。冷戦勃発によって国連の集団安全保障体制が機能しないことが明らかになったとき、9条は国際法システムから切り離されて、孤高の絶対平和主義の規定になった、などと説明するのだ。そのときアメリカは、自分が作ろうした国際法のビジョンを裏切って、自分が押し付けた日本国憲法の理想も裏切って、冷戦時代の汚い国際政治の都合で日本に再軍備を迫った、と描写する。

こうしたいわゆる「逆コース」路線は、単に「レッドパージ」のような流れを占領軍が導入した政策的な動きであるだけではなく、憲法解釈の社会的環境を根本的に変えた、とするのが伝統的な日本の憲法学者の見解なのである。

冷戦勃発によって、日本国憲法はアメリカが「押し付けた」ものから、アメリカが否定したいものに変わった。そこで戦前の軍国主義者や親米反共主義者がこぞって改憲論者になった。しかし平和を愛する一般市民とその守護神である憲法学者は、残された孤高の憲法典を武器にして、それに「抵抗」する――。憲法学者たちはそんな世界観を生み出し、「冷戦勃発によって憲法解釈の土台が変わった」と考える。

「もはや憲法を国際法に沿って解釈することは、邪悪なアメリカの軍事戦略に加担して憲法の精神を踏みにじる行為に等しい。アメリカの圧力にも、間違った国際法の仕組みにも『抵抗』して、強く絶対平和主義を唱えることが、憲法が日本市民に求めていることだ」といった前提で、全ての推論を進めていくことになる。

だが、本当にこれは妥当な態度だろうか。憲法を起草したマッカーサーらが、「日本の自衛権まで憲法は禁止していないはずだ」といったことを後に述べているのは、すべて冷戦勃発による詭弁でしかないのだろうか。そもそも1946年当時、アメリカは冷戦の勃発を全く想像していなかったのだろうか。そして冷戦勃発に狼狽し、自分が押し付けた憲法典を否定するべく奔走し始めた、ということなのだろうか。

アイゼンハワー政権時代に副大統領を務めていたリチャード・ニクソンが1953年に来日した際、「憲法9条を作ったのは間違いだった」という発言をしたことは、確かに有名である。だがニクソン発言は、本当に憲法典の仕組みに関するものだっただろうか。政治運動の方向性の話として、9条削除を求めたにすぎない発言ではなかっただろうか。

■国際法を無視した「自衛権」論の不毛

日本の憲法学者たちは、無意識のうちに強力な「国内的類推」の推定をかけ、恣意(しい)的な結論を導き出す。集団的安全保障=世界警察に類するもの、個別的自衛権=自然人の正当防衛に類するもの、と推定し、前者が機能しないと、ただ後者だけが残される、という世界観を自明視しがちになる。

そこですっぽりと抜け落ちてしまうのは、国際法特有のその他の制度的仕組みである。例えば国連憲章51条の集団的自衛権について考えてみよう。

憲法学者は、国際法特有の制度を謙虚に学んでから憲法と国際法の関係を論じようとはせず、むしろ集団的自衛権を定めた憲章51条を、「本来の(個別的)自衛権とは論理構造を全く異にする異物です」(石川健治「集団的自衛権というホトトギスの卵」『世界』2015年8月)などと描写する。そして、「同盟政策を否定する日本国憲法9条の解釈にもちこもうとしたとき、再び集団的自衛権の異物性があらわになった。(中略)それが国際法の常識に反するという見方もあるようですが、むしろ国際法上の自衛権概念の方が異物を抱えているのであって、それが日本国憲法に照らして炙(あぶ)りだされた、というだけ」(石川健治「憲法インタビュー安全保障法制の問題点を聞く」『Ichiben Bulletin』2015年11月1日)などと主張する。

集団的自衛権の「異物性」とは、いったいどういう意味なのだろうか。国連憲章51条は、集団安全保障の機能不全の場合に、補完的措置として集団的自衛権を行使することを容認する条項である。「平和愛好国」である国連加盟国が、「国際の平和及び安全を維持するために力を合わせ」、集団的に行動することを容認するのでなければ、自衛権は机上の空論に終わる。

憲法学者の方々は、国家の自衛権の発動はそれ自体が公権力の発動であり、自然人の正当防衛のようなものではない、という点を理解しようとしない。結局のところ安保理が加盟国に行動を勧告する事態に至るかもしれないとしても、それは「世界政府の世界警察」とは違う。あくまで、より広範な共同行動で対処する、ということにすぎない。集団安全保障も、個別的自衛権も、そして集団的自衛権も、国家が持つ正当な公権力の行使の積み重ねの上に成り立っている。国連憲章は、それを国際法が認めていることを明らかにしているのだ。

「国際法における集団的自衛権の考え方は、刑法には見られない。だから異物だ。国際法は間違っている」などと考えるのは、典型的な「ガラパゴス思考」である。

国際法における自衛権は、国内刑法における「正当防衛」とは制度的仕組みが異なる。そういう当たり前のことを、なぜ理解しないのか。あるいは、憲法学者は「憲法98条は国際法遵守を求めてはいるが、最後は憲法優位説をとるべきだ」といった論点を持ち出す。憲法が国際法の遵守を求めているのに、なぜそれを無視するのか。

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▼日本国憲法(*1)

【第9条】
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

▼国際連合憲章(*2)

【第2条】
4. すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。

▼同第7章:平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動

【第39条】
安全保障理事会は、平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定し、並びに、国際の平和及び安全を維持し又は回復するために、勧告をし、又は第41条及び第42条に従っていかなる措置をとるかを決定する。
(中略)
【第41条】
安全保障理事会は、その決定を実施するために、兵力の使用を伴わないいかなる措置を使用すべきかを決定することができ、且つ、この措置を適用するように国際連合加盟国に要請することができる。この措置は、経済関係及び鉄道、航海、航空、郵便、電信、無線通信その他の運輸通信の手段の全部又は一部の中断並びに外交関係の断絶を含むことができる。
【第42条】
安全保障理事会は、第41条に定める措置では不充分であろうと認め、又は不充分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍または陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。
【第43条】
国際の平和及び安全の維持に貢献するため、すべての国際連合加盟国は、安全保障理事会の要請に基き且つ1又は2以上の特別協定に従って、国際の平和及び安全の維持に必要な兵力、援助及び便益を安全保障理事会に利用させることを約束する。この便益には、通過の権利が含まれる。
前記の協定は、兵力の数及び種類、その出動準備程度及び一般的配置並びに提供されるべき便益及び援助の性質を規定する。
前記の協定は、安全保障理事会の発議によって、なるべくすみやかに交渉する。この協定は、安全保障理事会と加盟国との間又は安全保障理事会と加盟国群との間に締結され、且つ、署名国によって各自の憲法上の手続に従って批准されなければならない。
(中略)
【第51条】
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

(*1)総務省・法令データ提供システムより
(*2)国連広報センターのウェブサイトより

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東京外国語大学教授 篠田英朗(しのだ・ひであき)
1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程修了、ロンドン大学(LSE)大学院にて国際関係学Ph.D取得。専門は国際関係論、平和構築学。著書に『国際紛争を読み解く五つの視座 現代世界の「戦争の構造」』(講談社選書メチエ)、『集団的自衛権の思想史――憲法九条と日米安保」(風行社)、『ほんとうの憲法 ―戦後日本憲法学批判』(ちくま新書)など。

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(東京外国語大学教授 篠田 英朗)