東京海上ホールディングス会長 隅 修三

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■公的保険に先がけ「未踏の地」へ挑戦

1989年5月まで2年間務めた火災新種業務部の企画課長のとき、介護費用保険と青年アクティブライフ総合保険という、個人向けの新商品をつくった。40代を迎えたころだ。入社以来、ずっと企業向けの保険分野を歩み、新種保険の開発と営業がほぼ半々の経歴。自動車保険や住宅の火災保険など本流と言える分野の経験はなく、ニッチな世界が続いた。

損害保険の原点は、加入者間で「リスクを分け合う」ことで、さらには保険の対象を分散することで損保会社のリスクも分散する。ニッチな分野は、その一環を担っているし、収益性もあった。常に自然体でこなし、初の個人向け保険でも、とくには構えない。

ただ、介護費用保険といっても「介護とは何?」というほど無縁の世界。医療など生命保険と損害保険の中間にあるものは「第3分野」と呼ばれ、生保各社と市場の獲り合いが始まっていたが、介護保険は一部が手がけていただけ。公的な介護保険制度が始まるのは2000年で、10年以上早く「未踏の地」へ挑戦した。

まだ家族の認知症などを隠す例が多かった時代で、データは乏しく、要介護の基準もない。まず課員と介護の定義を定め、わずかなデータをもとに、何十年か先の介護費を保障するには保険料をいくらにして、保険金はどう払うのが妥当か、推計を重ねた。作業が積み上がり、徐々に流れの先がみえてくる。途中、保障の対象に、介護サービス自体も提供するか、ずいぶん悩んだ。でも、結局は自分たちには無理だ、と見送った。

89年10月、別の部署へ異動後に発売された。それなりの意義があって売れていくが、大きくは成長しなかった。営業部隊は「未踏の地」なので、説明が大変。他社も簡単にはついてこられないから、競争による相乗効果もない。それでも、公的な介護保険ができる際、参考にしてもらえたようだ。

介護のほうが大仕事なので、若者向けの保険は、部下に任せた。提携先の米国損保と首脳同士で決めた新商品。当時、話題になっていた「ヤッピー」(都会で知的専門職に就く若者たち)や「ディンクス」(子供がなく共に収入がある夫婦)を、対象のイメージとした。傷害保険の特約や積立保険に付けて89年2月に発売すると、業界で激化した積立保険競争と重なって、けっこう売れた。

2つの新商品とも、「何でもやる、やらせる」という先人から受け継いだ企業文化の成果。ニッチな分野でも、大事な継承だ。

自分は私立大学卒で、専門は土木工学。国立大学の文科系出身が主流を占めた社内で「どけん(土建)とほけん(保険)を間違えて入ってきたのだろう」と言われたこともある。そんなだから、ニッチな担当が続くのだろう、と思った。でも、それが損害保険の原点に触れ、領域も広げた気がする。

「上善如水」(上善は水の如し)──理想的な生き方とは水のようなものだとの意味で、中国の古典『老子』にある言葉だ。水は万物に恵みを与えていても、他と功名を争うことはない。高みを望まずに、低いところへ自然に流れていく。そして、低いところだからこそ集まって、大きな力にもなると説き、静かに力を蓄えることを求めている。ニッチな分野でも、功を焦らず、着実に力を蓄積した隅流は、この教えに通じる。

1947年7月、山口県錦町(現・岩国市)に生まれる。男ばかり8人兄弟の末っ子だ。瀬戸内海から30キロほど山に入った小さな町で、小学校時代は野山を裸足で走り回る。中学は岩国の私立に入り、農家の納屋に下宿した。高校は、兄が1人出た東京の早稲田学院。東京で結婚していた次兄の家で部屋を借りて通学。漕艇部に入り、4人乗りのボートを漕ぐ。都代表で国体にも出場し、高校生では国内最高の水準になった。

■閉塞感をなくす「働き方改革」

早大理工学部の土木工学科へ進むと、当然、漕艇部に誘われたが断った。欧米では社会人のクラブチームが強く、五輪にも出る。ちょうど東京五輪の元日本代表らがクラブチームをつくったので、高校時代の仲間たちと入る。だが、どうしても社会人とリズムが合わず、結局はやめた。

就職は、土木工学科からは土建会社や官庁が多かったが、理系の採用を始めた東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)を選ぶ。70年4月に入社し、新人研修を終え、7月に火災保険業務と火災新種業務の担当部で火災業務課へ配属された。担当は、企業向けに、工事の事故や台風、地震などの損害が対象の特殊な保険だ。

「日本列島改造」のブームで、日本中でダムや橋、道路やトンネルが造られていた。ヘルメットをかぶって、各地の現場で査定する。次は石油危機で、エンジニアリング会社が中近東へプラント輸出を始めたので、その建設保険も担当した。数少なかった先輩が異動でいなくなり、入社3年目から中近東へ出張に出る。相手国との契約交渉に同席し、工事の遅延や資材の高騰などがあった際の責任範囲やリスクの評価を、手伝った。

どれもこれも小さな分野だが、「上善如水」でこなしていく。すべてが損害保険の原点と言え、この課で過ごした7年間が、その後の仕事に大きく役立った。

その後、横浜支店で企業営業を経験し、結婚もして本店の営業部門へ戻る。37歳で営業の課長となり、その後が冒頭の火災新種業務部。再び営業部門へ出て、人材の育成に力を注ぎ、海外に子会社をつくり、ロンドンにも駐在したが、詳しくは次号で触れる。

社長になる前で強く印象に残るのは、事務作業とシステムの抜本改革だ。常務になって2年目の03年夏から手がけ、いまで言う「働き方改革」に大きく先行した。

損保は2000年に自由化が始まり、激しいたたき合いとなり、個人向けの各種保険に様々な「おまけ」を付け、営業担当も説明できないほど複雑化。事務規定が次々に変わり、作業は膨れ上がる。当然、社内に閉塞感がたまる。事務とシステムを統括する立場に就くと、それが俯瞰してみえた。

閉塞感をなくすには、商品の構造を変えねばならないし、同時に事務やシステムも変えなければいけない。だから、03年暮れに「全部を一緒に変えて、会社を変えよう」と提案する。改革の流れは、自然に決まった。システムを変えて仕事を簡素化するのではなく、仕事のやり方やビジネスの進め方を変える。最大の苦労は、なぜそれが必要かを、全社に理解させることだった。でも、問題は浮き出ていたから、誰もが納得する。最後には評価システムも変え、「働き方改革」が完結する。

事務が、3割以上消えた。作業が減るのではない、不要な作業が消えたのだ。一般職と言われた女性陣の役割ががらりと変わり、男性陣がやっていた代理店の指導やお客への対応を受け持つ。社内や代理店の景色も、変わった。

07年6月に社長に就任。その半年前に表面化した保険金の不払いや保険料の取り過ぎの問題に、迅速に対応できたのも、この改革があったからだ。東日本大震災や熊本地震での被災者への対応も、同様だ。そして、いま社業が順調なのも、あのときに仕事のやり方を全部変えたからだ、と思う。

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東京海上ホールディングス会長 隅 修三(すみ・しゅうぞう)
1947年、山口県生まれ。70年早稲田大学理工学部卒業、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)入社。95年本店営業第七部長、98年企業商品業務部長、2000年取締役ロンドン首席駐在員、02年常務、05年専務、07年社長。09年東京海上ホールディングス社長、13年より現職。

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(東京海上ホールディングス会長 隅 修三 書き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)