「100年前にフェイクニュースと闘った「ひとりメディア」、カール・クラウスを知っているか? 最新号・第2特集「メディアの死」に寄せて」の写真・リンク付きの記事はこちら

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カール・クラウスという名前を、恥ずかしながら昨年まで知らなかった。秋頃だったろうか、編集スタッフのひとりが、「こういう本あるの知ってます?」と教えてくれたのが最初で、これが『人類最期の日々』というなにやら狂った本なのだが、狂ったは狂ったなりに価値の高いものではあるらしく、かつて出版されていた日本語訳が、普及版として復刻されたタイミングで、件のスタッフのアンテナに引っかかったらしかった。

本は2段組で上下巻あり、総ページ数は800近い。戯曲なのだが、実際に演ずるとなれば、10日は必要、登場人物はといえば700人にものぼるから、原理的に言えば上演は不可能、著者本人も、火星の芝居小屋でならうってつけだろうなどと、おちょくるような口上を、本の前書きにかきつけている。

にしても700人の登場人物はいかにも多すぎる。一体これはどういう戯曲なのか。実はクラウスは、この作品のなかで一文字も自ら執筆をしていないのだ。つまり、すべてのセリフは、人物や雑誌などのなかから拾ってきたもので、クラウスはコピペしたそれらの言葉を、構成してみせただけというわけだ。上は皇帝や将軍、神父から、下は人殺しや乞食まで、クラウスはいわばメディアに登場した人物たちの言葉の目録をつくりあげ、それを構成することで、腐りきった当時のウィーンの社会全体を記述することを目論んだ。

奇書には違いない。しかし、それは浮き世ばなれした暇人によるコンセプチュアルアートでは決してなかった。『人類最期の日々』は、時代への痛烈な批判であり、新聞に代表されるメディア産業に浴びせかけた冷や水であり、呪詛だった。

世紀末から、第一次世界大戦という未曾有の戦争を経て社会の動揺が深刻に深まり、やがてはナチスに屈することになるウィーンのイヤな感じを鋭敏に察知したクラウスは、それを批判することに生涯を費やした。クラウスは正義ヅラをしながら権力におもねり、大衆を欺きつづける、つまりはフェイクニュースを生産しつづけるマスメディアとの全面戦争に挑んだ、不屈の「ひとりメディア」だった。

雑誌『炬火』(ディ・ファッケル)を、1899年から1936年の間に922号刊行し、1人で執筆も編集もすべてつとめた。同時に、定例の独演会を自ら開催し、朗読、論説を行い、興が乗ると歌まで歌った。しかも、彼は大きなファンベースを抱えていた。炬火の創刊号の刷り部数は3万部、イベントにも毎回数百人動員した。クラウスはウィーンの知識界のオルタナティヴ・ヒーローだった。

カール・クラウス『人類最期の日々』(原書)PHOTOGRAPH BY KATSUMI OMORI

科学哲学の分野で、あまり評判のよろしくないポール・ファイヤアーベントというこれまたウィーン生まれの奇人がいる。トマス・クーン、ノーウッド・ハンソン、そしてファイヤアーベントは、1960年代に、科学をめぐる考え方に「パラダイムシフト」をもたらした科学哲学界のいわば三銃士のような存在だったが、なかでもファイヤアーベントは、その不真面目さがどうにも鼻につくのだろう、研究者からの評判がことさら悪いと聞く。

ファイヤアーベントの徹底した科学批判は、科学も迷信も所詮はおんなじと断じて「何でもあり」を主張する。ニヒリズムに陥る手前のギリギリのところで踏みとどまるような危い立場であったが、本気か冗談かわからないようなやり方で、科学・科学者の言葉を解体し全方位的に斬りかかる「アナーキズム」の文体を、ファイヤアーベントは、ヨーハン・ネストロイ、カール・クラウス、そしてダダイズムから学んだ、と自伝『哲学、唄、女、そして…』で語っている。

「私は十九世紀オーストリアの方言喜劇の作家であるヨーハン・ネストロイを大変尊敬する。彼の対句、対話、独白、そして創作はまことに普通の状況を扱っている。ところが彼はそれらを僅かに中心を外して見せてくれるのである。それが笑いを誘う──それももう一つの、普通で当たり前の現象である。ネストロイのなかで面白いと思うのは、その当たり前の積み重ねが、次第に皮肉な複雑さを規定するようになるところにある。ネストロイの方法は極めて単純である。

(中略)

その方法で、見せかけ、だまし合い、いい加減さ、など全世界の邪悪を露わにしてみせるのである。

(中略)

カール・クラウスはその現象を使って、広告、新聞記事、あるいは深遠な理屈付けなどの背後にある獣性の予兆を見せてくれた。(J・L・)オースティンと同様、彼は人々に字義通り読むことを薦める。言葉のための言葉、それが人々の前にあるものだ。オースティンと違うのは、彼は、無意味さだけでなく、非人間性をも見いだしていたのである。

同じようにダダイストも、壮大だが非人間的な思想を、地面に引き降ろし、それらが元あった下水へと差戻す」

ファイヤアーベントは、クラウスを含めた先人たちからの薫陶のもと『方法への挑戦』という著作(本人は「本ではない。コラージュである」と語っている)を投下したが、それもまた議論を巻き起こさずにはいられない問題作だった。「読者の一部は、私のスタイルに反感を持った。その人々は、事実の言明をあてこすりととり、冗談を真面目な言明ととった。『彼は鼻を鳴らす、彼は悪口を言う』とある人は書いた。『彼の書き振りはカール・クラウスと同じだ』と書いた人もいる」。ファイヤアーベントは、意気揚々と綴っている。

(ちなみに、ファイヤアーベントが「大変尊敬している」と語った戯曲家ヨーハン・ネストロイの才能の再発掘に尽力したのは、カール・クラウスその人だった)

これらファイヤアーベントの著書は、『WIRED』日本版VOL.27の特集「科学のゆくえ」を制作している時に出合ったものだ。知ったばかりのクラウスの名を、科学哲学者の著書から見出すとはまさに意外だったが、さらに意外な発見もあった。

日本における科学哲学の大家である村上陽一郎先生の自宅に取材でお邪魔した際、先生がこれまで翻訳された本で(ファイヤアーベントの著作の日本語訳はすべて村上先生の訳だ)お気に入りのものを訊ねたところ、挙がったのがアーウィン・シャルガフの『ヘラクレイトスの火』という本だった。

シャルガフは、ワトソン&クリックに多大な影響を与えたとされる分子生物学の巨匠であり、「ノーベル賞を取り損なった科学者ランキング」では必ず上位に選出される人物だと教わった。その素晴らしい自伝のなかで、この隠れた名科学者は、カール・クラウスにわざわざ1章を丸々割いている。

青年時代をウィーンで過ごしたシャルガフは1921〜28年の間、カール・クラウスが主催した独演会のほとんどに顔を出したと語る。シャルガフによれば、1921年だけでもそれは実に17回も催され、1927年を見ても18回行われている。10年近くにわたってそのほとんどに参加したというのだから、よほどハードコアなファンだった(ちなみに若きヴィトゲンシュタインも、エリアス・カネッティも、クラウスの追っかけだったという)。生き生きとした筆致でクラウスの思い出を語るシャルガフは、実に楽しそうだ。クラウスの独演会というのが一体どのようなものであったのか、シャルガフの回想から、かいつまんで紹介したい。

「クラウスの朗読会は、通常、ニューヨークのカーネギー・リサイタルホール程度の規模の小さなコンサートホール、もしくは講演会場で行われた」

「数百名程度の聴衆で、会場はいつも満員でときに札止めになった」

「聴衆は圧倒的に若い世代で、ヒステリックに熱狂し、大騒ぎで喝采した。これは明らかに、クラウスにとっては大きな喜びであった」

「若い一見の聴衆に加えて、もっと年輩の、しかし献身的であることでは一歩もひけをとらない常連がいた。そのなかには、非常に重要な人物も多かった。たとえば、ほとんどいつの催しでも見かける、美しい男女が、大抵は最前列に陣取って、熱心に拍手をおくっていたのを想い出す。かなりあとになってようやく私は、それが作曲家、アルバン・ベルク夫妻であったことを知った」

「かつてオーストリアを偉大たらしめていたすべてのものが一つずつ、売りに出され、オーストリア内部のありとあらゆる公共機関、つまり政党、新聞、美術界、劇場、大学などがこの簾売りに参画していたが、こうした状態に対して、文化的な、それゆえまた政治的な抗議を表明するほとんど唯一の機会として、このクラウスの会合への出席が考えられていた」

「何年間も、クラウスは、講演で得た謝礼を、飢饉に苦しむロシアの子供たちや、戦争の犠牲者たち、あるいはそれに似た境遇にある人々に寄進し続けたのであった」

「彼の発表会は、ちょっと信じられないほど幅広い多様な作品類をとり上げていた」

「彼が朗読するのを最も好んだのはシェイクスピア、ネストロイ、オッフェンバッハであった」

「朗読は机に向かって座ったままで行われた」

「ときには彼の手は空中高く突き出され、毒舌の区切りでは机を鋭く叩いたりした。非常に高揚した箇処では、彼は立ち上がり、草稿は両掌でくしゃくしゃになり、声は鋭利なスタッカート、差迫る破滅を示す深い裏声(ファルセット)になることもあった」

「また、驚嘆すべき、目を見張らせるほど素晴らしい言葉遊びの息もつかせぬ速射が行われることもある」

「おそらくクラウスはドイツ語で書く作家のなかで最も機智豊かな人物であった。燦然たる美文のきらびやかな洪水は、彼独特の声音で語られるとき、驚くほどの直截さをさまざまな連想に隠した急襲となった」

「これほど文学上の才能と舞台上の才能とが見事に結びついた例を、私は他に知らない」

「クラウスはブレヒトに最高の評価を与えており、ブレヒトの詩『愛し合う者』を朗読した一夜はまことに忘れられない体験となった。今世紀ドイツが生んだ最も激越な作家であるクラウスとブレヒトとがお互いに尊敬し合っていたのは、決して偶然ではないのだ」

「なぜ私はこんなことを書き連ねたのだろうか。主として、これほど素晴らしい師を私が得ることができたという好運を、読者に識っていただきたかったからだと思う」

独演会に際してつくられたポスター。PHOTO:GETTY IMAGES

興味ある方はぜひ原著を手にとっていただきたいが、これだけでも十分、クラウスの鬼気迫る姿が伝わってはこないだろうか。それにしても、クラウスの魔力は、一体どこにあるのだろう。もちろん美しい文学作品を美しく朗読したところではない。シャルガフは、当時の時代状況をこんな風に語る。

「とかくするうちに、四年間の戦争が、何百万という若い生命を奪い、古い帝国は崩壊し国家は疲弊した。ロマノフの帝権も没落しソヴィエトの共和制がこれにとって代った。ハプスブルグ家の専制も散り散りになってしまった。ドイツは不安定な共和国になった。科学は膨れ上り、その応用の過程で力をもった。ファシズムがイタリア、ドイツ、スペインを席巻した。世論産業は人間の脳を自由に操る方法を学んだ」

いまからちょうど100年ほど前、クラウスが獅子奮迅の活動を見せたのは、こういう時期だった。おそらく好運にも、クラウスはナチスがウィーンを制圧する景色を見ることなくこの世を去ったが、クラウスは、20世紀のはじまるその頃から、時代の頽廃を嗅ぎ取っては、その行く末に待つであろう破局を読み取っていた。しかしなぜ彼にだけ、それを見通すことが可能だったのだろう。

彼が標的にしたのは、まさにシャルガフが語ったところの、「人間の脳を操る方法を学んだ世論産業」、つまりはメディアだった。クラウスは当時のメディアの王者だった「新聞」を「黒魔術」であると断罪し、それが吐き出す嘘をとことんまで撃ち続けることを旨とした。彼が主宰した雑誌『炬火』の創刊号には、その激しい意気込みが語られている。

「当誌が何をもたらすかは二の次である。何を殺すかが問題だ」

しかし、クラウスが取った方法は一筋縄ではいかないものだった。彼は、独自の調査によって新聞が吐き出す嘘を暴くこともあったが、主たる戦術は、事実を提示することをもって嘘を暴くというものではなかった。そもそもメディアが言説を支配している空間においては、「事実」は多数派が信じていることがらでしかない。事実をもって事実に対抗するのは泥仕合でしかない。では、どうするのか。

『WIRED』日本版最新号内の記事「炬火は燃えつづけ、カール・クラウスは吼えつづける」のなかでインタヴューに答えてくださったクラウス研究の第一人者・池内紀先生のことばから一部を引こう。

「当時のジャーナリズムといえば、主役は新聞です。『無冠の帝王』と称されていたことからもわかるように、新聞が、メディアとして最も影響力を有していた時代だと言えるでしょう。そんな新聞や、ときの権力者たちが発信する表現──たとえば美しい言い回しや常套句を、 クラウスは精緻に追いかけ、そこに隠された真意を暴いていきました。 権力者たちが人々に追従を語るとき、あるいは真実を隠すとき、彼らはそれを悟られまいと言葉に細工を施します。その『細工が施されている』こと自体が、発せられた言葉がカラクリであることの証明にほかならない、 というのがクラウスのロジックでした。探偵に喩えるなら、言葉を証拠物件にして相手の犯罪を暴く。そうした手法を、クラウスは用いたわけです」

自らジャーナリストであると任じながらも、クラウスが、当時のすべてのジャーナリストが陥っていった隘路に陥ることがなかったのは、彼が、ヨーロッパの古典からブレヒト作品にまで通じた文学者であったことと深く関係している。

たとえば、彼が、方言喜劇作家ヨーハン・ネストロイの作品を再発掘したのが、ファイヤアーベントが語った通り、「見せかけ、だまし合い、いい加減さ、など全世界の邪悪を露わにしてみせる」ことの技芸を評価してのことであったとするなら、クラウスは、そうした技芸をリヴァースエンジニアリングしてみせることで、新聞の文章のなかに隠された「見せかけ」や「だまし合い」や「いい加減さ」をたやすく読み解くことができたに違いない。それは、高度に「文学的」な読解だが、同時に、最も効果的な戦術でもある。

1924年のウィーンにおけるナチスの選挙カー。PHOTO:GETTY IMAGES

数カ月前、『すべての政府は嘘をつく』というドキュメンタリー映画を観る機会があった。その宣伝文句は、こういうものだった。

ポスト・トゥルース時代に“真実”を追求するフリー・ジャーナリストたちの闘い──公益よりも私益に走り、権力の欺瞞を追及しない大手メディア。それに抗い、鋭い調査報道で真実を伝えるフリー・ジャーナリストたちが今、世界を変えようとしている。彼らに多大な影響を与えたのが、1940〜80年代に活躍した米国人ジャーナリストのI.F.ストーンだった。I.F.ストーンは「すべての政府は嘘をつく」という信念のもと、組織に属さず、地道な調査によってベトナム戦争をめぐる嘘などを次々と暴いていった。そんな彼の報道姿勢を受け継いだ、現代の独立系ジャーナリストたちの闘いを追ったドキュメンタリー。

これだけを読むと、あたかも現代の独立系ジャーナリストたちこそ、クラウスの嫡子であるかのように思えるかもしれない。けれども、そうではない。

映画自体は面白く、ここに登場した「独立系ジャーナリストたち」の仕事ぶりには、もちろんメディアに関わる人間の端くれとして頭の下がる思いではあった。だが、白状すると、観ているうちに段々苦しくなってきてしまったのは、彼らが大手メディアや、トランプに対してムキになればなるだけ、それが無効化していき、同じ言語体系のなかで永遠に終わらないイタチごっこをしているように思えてきてしまったからだ。しまいには、なぜか、彼らの言葉がトランプや大手メディアの言葉と相補関係にあるような気すらしてきてしまい、ポスト・トゥルース的状況の不毛さを改めて痛感した。

クラウスが戦いを挑んだのは、まさしくこうした泥沼の様相そのものだったのではなかっただろうか。「正義を振りかざす悪を、クラウスは徹底的に糾弾したのです」と池内先生は語る。正義を語るトランプと、それを真っ向から批判しつつ自らの正義を語る独立ジャーナリズムが、ともに自分の語る正義に酔いしれ、どこか互いを支えあってしまっているようにさえ見えたのは、クラウス的な視点から言えば、大手メディアも、独立系ジャーナリストたちも、違う内容を語っていながら、その語り口や抑揚、つまりは「文体」が同じだからなのかもしれない。

右も左も、それぞれがフィルターバブルのなかに気づかぬうちに押し込まれ、批判が批判として機能しなくなったとき、どんな手立てをもってその状況を批判することが可能になるのだろうか。そう考えたとき、クラウスの取った戦術は、まさに時宜を得たものとして浮上してくる。

あらゆる言説が、のれんに腕押しにしかならないような時代にあって、クラウスの取った方法は、困難ではあるが、いまむしろ価値がある。「言葉のための言葉」に執拗に向き合い、広告、新聞記事、あるいは深遠な理屈付けなどの背後にある「獣性」、「無意味さ」、そして「非人間性」を見い出すこと。人間の脳を自由に操る「世論産業」の嘘を暴くこと。クラウスは、言葉の探偵に徹することで、それを可能にした。それは、時代のあらゆる言説を、文学のスキルをもって解体していく作業であり、奇書『人類最期の日々』は、まさにその作業の果ての集大成でもあった。

同じように時代の言説を執拗に追いかけ、隠された真意を暴いていった本として近年思い出すのは、新聞を通して吐き出された、原発をめぐる「非常時のことば」を絢爛たるあてこすりでもって嘲った金井美恵子の『目白雑録5 小さいもの、大きいこと』だが、これもまた文学者にしかなし得ない批判・批評であったという意味で、どこかクラウス的だったと言えるかもしれない。

最後に、クラウスは読者であるところの公衆というものにも、強烈な釘を刺してもいるので、念のため記しておこう。

「書かれた言葉の天分に与るために大衆が入場料を払うからといって、彼らに拍手喝采や不服表明を行う正当な権利が与えられるわけではない。ハム付きパンの値段で精神的作品を誰でも買えるようにするというのは、なんともばかばかしい優遇措置と言う他はない」

「世論という合唱団員の一人が不遜にもしゃしゃり出て私のアリアのじゃまをし、全体の中でしか印象を与えることしかできないある愚鈍さのニュアンスを私が知るはめになるということは、ほんとうにおぞましい」

(『黒魔術による世界の没落』山口裕之・河野英二訳〈エートル叢書〉より)

SNSなる「魔術」が跋扈するこの時代を、クラウスは一体何と評したであろうか。

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