大会中はずっと、中村俊輔(中央の黄色ビブス)と同部屋だった。お互いに核心には触れず、他愛のない話をしていたという。(C)SOCCER DIGEST

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【週刊サッカーダイジェスト 2000年10月18日号にて掲載。以下、加筆・修正】
 
 続く第2戦のスロバキア戦でも、日本は2-1と勝利を飾る。
 
 中2日で試合という日程から、疲労は確実にチームをむしばんでいたが、連勝している事実がそれを感じさせない。チームの明るさも相変わらずだったという。

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 やがて日本は、うららかな陽光が立ち込めるブリスベンへ移動し、決勝トーナメント進出を賭けた運命の一戦に挑む。相手は2位のブラジルだ。日本は本気の王国と、一戦を交えることとなった。
 
「本気で来てた時間帯はさすがに強烈だったけど、ブラジルはチーム自体、大したことがなかったように思う。みんなもやりながら、そう感じてたんじゃないかな。南アのほうがよっぽどインパクトがあったからね。

 日本はグループリーグを突破する力があったと思うし、結果的に上へ行けたのも当然だと思ってた。でも、スゴイことをやったんだなって感じる反面、やっぱ複雑なところはありましたよ。目の前で試合はやってる。自分がそのピッチにいないってことがね。

 ロッカールームに戻って、みんなはやっぱ、喜んでるわけじゃないですか。そこに入って行きづらいというか、自分の気持ちを押し殺して一緒に『ヤッター!』とか言ってるんだけど、どこかで冷めてる自分もいる。とにかく苦しかった。あれはきっと、僕ららにしか分からないっすよ」
 
 遠藤のルームメイトは、ずっと中村俊輔だった。
 
 試合に関する話はほとんどせず、たまに中村が感想を聞く程度だったという。
 
 中村にも遠藤にも、それぞれ語りたい想いがあっただろう。左サイドに配置されることの多かった中村は、中央のポジションでプレーできないことへのもどかしさがきっとあっただろうし、遠藤には、試合に出られないという厳然たる現実があった。
 
 だがいまは、戦いの最中である。決して気遣いではない暗黙の会話が、ふたりの間で交わされていた。
 
「どうってことない話ばっかりですよ。シュン(中村)とは性格が合うみたいで、サッカー以外のいろんな話をしたし、同部屋になって良かったなって、お互いに言ってました。日本に帰ってから僕のカバンをひとつ譲ることにもなったしね(笑)」
 
 では、どうすれば試合に出られるのか。

 簡単なことだ。怪我人が出れば、代替登録される。
 
 誰かが怪我をしないだろうか──。ともすれば、自己嫌悪の極致に至るかもしれない。バックアップメンバーたちもギリギリのところで、自問自答を続けていた。
 
「ブラジル戦でコウジ(中田浩二)が腰を傷めたとき? う〜ん、あれは検査をしてからじゃないと分からない状況だったし、アメリカ戦に勝ってればもっと現実的に考えてたのかもしれないですけどねぇ。

 むしろスロバキア戦が終わったあとのほうがショックだった。ヒデさん(中田英寿)と森岡(隆三)さんが出場停止になって『よし、オレたちの出番だ!』って。さすがに欠員が出るんだからベンチには入れるだろうって盛り上がってた。盛り上がったぶん、ルール上無理なんだって聞かされたときの反動は大きかったですね。

 誰かが怪我をすればいいとか、そういうのは考えないようにしていました。もちろん試合に出たいし、僕らにはそういう状況にならない限りチャンスはないんだけど、やっぱ、みんなずっとやってきた仲間だから……」

 そして準々決勝、ヒンドマーシュ。日本の進撃はここで急停止する。
 
 アメリカなんて大したことない。日本が恐れるほどの相手でない。1年前のワールドユースで快勝を収めた遠藤にとって、それは明白だった。
 
 しかし、刻々と移りゆく戦況の中で際立ったのは、アメリカの選手たちの頭の良さであり、試合巧者ぶりだった。

 オーストラリア入りして4試合目。スタンドからの景色も見慣れてきた。ある意味で、自らをピッチ上の選手に置き換えることができなくなり、ゲームを観る側へと回っていた。
 
 開き直りでも余裕でもない。延長戦前に見せた笑みは、結果的にバックアップメンバーたちが緊張感を共有できなかったことの証明でもあった。
 日本はPK戦で涙を呑み、遠藤の2週間に渡る闘争も、終わりを告げた。
 
「最初は長く感じたけど、大会が始まりだしたらあっという間だった。

 自分としては、サッカー人生で2度目の屈辱だと思ってる。1度目は、最終予選のカザフ戦(1999年11月6日)、途中で交代させられたとき。でも後になって思うと、レギュラーになって調子にノッてたなって思うし、同時に誰かにポジションを奪われるかもしれないって焦りもあった。結局、あれから五輪(代表)の試合にはひとつも出てませんからね。流れを戻せずに来ちゃったってことです。

 でも、今回の経験で、また初心に戻れたなって思う。勝ちつづけたら挫折を感じられないし、やっぱ負けってのを知らないとダメだから。僕はエリートでもないし苦労人でもない。ただ淡々とやってきて、練習なんかも『このへんでいいかな』って考えてるところがあった。そういうとこから徹底的に直さないといけないし、どんな形にせよ参加したオリンピックに、なにか意義を見いだすならそこになるはずだし。

 無駄にはしたくないですよ、この悔しさは。ある意味では刺激的でしたからね。こういう経験をしたヤツでしか成長できない部分がある。いまはそう感じてます」
 
 他の五輪代表メンバーが束の間のオフを消化するなか、遠藤は帰国の翌日からサンガの練習に加わっている。
 
 まず声をかけてきたのがキングカズだった。「ストレスが溜まってただろう?」と、温かい言葉で迎えられたという。久々の実戦形式を楽しみ、まるで自己の存在意義を確認するように、すべてのプレーに最大限のエネルギーを注ぎ込む。
 
 あるがままの自己を受け入れ、再浮上への一歩を踏み出した瞬間だ。
 
「あの青いユニフォームは、またいつの日か絶対、袖を通したい。バックアップのメンバーとも話してたんですよ。『オレらだけにしか味わえないものがあった。2年後、今度はオレたちが逆転してやろうな』って。変に団結しちゃってたかな(笑)」
 
 年代別の「世界」を、もう経験することはできない。これからは無制限にして最高峰の舞台、フル代表へのチャレンジとなる。
 
 アジアカップ出場でリードを奪っている選手はいるが、2002年までの2年という期間がいかに長く、アプローチと伸びの違いで陣容は容易く変わるのだという事実を、五輪代表の誰もがよく理解した。ここに至るまでの日々を思い起こせば、簡単に分かることだ。
 
 シドニー五輪に出場した23歳以下の日の丸戦士たちにとって、アデレードという地は、自らのサッカーキャリアにひとつの線引きをする場所となった。
 
 それはバックアップメンバーの4人にとっても、同様であったはずだ。

<了>

取材・文:川原崇(サッカーダイジェスト)