子を産み、子を育て、家を守る。

昔からあるべき女性の姿とされてきた、“良妻賢母”。

しかしその価値観は、現代においてはもう古い。

結婚して子どもを産んでも、男性と同等に働く女性が増えた今こそ、良妻賢母の定義を見直す時だ。

家庭も、仕事も、子育ても、完璧を目指すことで苦しむ東京マザーたちが模索する、“現代の良妻賢母”とは、果たしてどんな姿だろうか。

育休から復帰し、時短勤務がスタートしたレコード会社勤務の佳乃。上司であるゆり子から、雑用のような仕事を任され時短勤務の難しさをさっそく痛感したのだった。




佳乃が復職した初日、彼女のデスクに置いてあるバッグを見て、ゆり子の胸の中では黒くてどろりと重たい感情が広がった。

おそらく買って間もないであろう、セリーヌのラゲージ ファントム。端からは、パステルカラーの動物がプリントされたタオルが覗いてた。

その不似合いな組み合わせに、ゆり子は大きな違和感を覚えた。

さらに、こちらもおろしたてのように綺麗な、5cmはあるヒールを履いている。

―え、これで保育園の送り迎え……?

今まで何人もの、育休あけの女性を見てきたゆり子だが、佳乃のように育児には不適切な服装で戻ってきた人を、ゆり子は知らない。

「佳乃さん、さっそくだけどミーティングできる?」

いろんな思いがごちゃまぜになった感情を押し殺すように、明るく言ったつもりだが、佳乃に悟られたのではないかと少々心配になった。

こんな風に苛立ってしまうのは相手が佳乃だからだろうか。

ふとよぎった考えを振り払うように、大きく息を吐いて自分のデスクへ急いだ。


ゆり子とは一体、どんな女なのか?




ゆり子は、佳乃より3歳年上の37歳。大学卒業後、2年間のアメリカ留学を経ていくつかの会社で働いた後、現在勤めているレコード会社に転職してきた。

住んでいるのは世田谷区桜新町にある、親が所有するマンションの1室。

両親はこの周辺に数棟のマンションを持っており、その中のひとつ、ゆり子の部屋から徒歩5分の場所にあるマンションの最上階に住んでいる。

バブル期に貿易会社を立ち上げた父親は、バブルが弾けた厳しい時期も乗り越え、少なくない富を築いた。70代になった父は会社をたたんだが、ゆり子が働かずとも豊な暮らしを送れる程度の資産は十分ある。

ゆり子自身、若い頃からあくせく働く自分が想像できずにいた。アメリカ留学だって、体の良い遊学である。

留学から戻ると父親の会社で事務をしたり、企業の受付をしたりと、仕事は片手間程度のスタンスで、遊び中心の派手な生活を送っていた。

そして、受付をしていた当時に知り合った人から今の会社を紹介されて、軽い気持ちで転職したのが約10年前。

そこで初めて仕事のやりがいを知ったゆり子は、遊びに求めていた刺激を、仕事から得るようになった。

音楽業界という、少し派手な業界もゆり子には合っていた。

どちらかというと細かい仕事よりも業界での人間関係の構築に力を発揮して、36歳で課長に昇進した。

「愛想だけで今の地位にいった人」

そんなやっかみを言われているのも知っている。だが、そんなことで傷つくような女ではない。

仕事は順調、父も母も優しく、人並み以上の暮らしを送っている。

ただ、結婚はまだ一度もしていないし、現状ではその予定もない。そのことが、大好きな両親を心配させる原因になっており、ゆり子自身も不安に思っていることではある。


ゆり子が佳乃への不満を爆発させる……!




佳乃が復職した3日後、ゆり子は残業していた希を誘って四谷の『メゾン ド ミナミ』へ行った。

3種のグラスワインとペアリングを楽しめるのが好きで、ゆり子がよく行くレストランのひとつだ。

「だいたいね、今までと同じ仕事ができると思ってる方がおかしいのよ」

アルコールが入ったゆり子は、いつにも増して饒舌になる。佳乃が希を可愛がっていることは知っているが、ゆり子だって希を可愛がっている。

希は、誠実でまじめな女の子だ。口が堅く陰で悪口を言うタイプの人間ではないため、ゆり子もつい本音を漏らしてしまうことが多い。

「確かにね、時短っていう制度はあるわよ。でもね、制度があるからってそれを盾に大きい顔されても、周りにしわ寄せがいってるのは確かなんだから、そこもきちんとわかってくれないとね」

今日の話題は、もっぱら佳乃のことだった。

彼女が復帰してまだ3日しか経っていないが、ゆり子の中ではすでに相当のストレスが溜まっていた。

「セリーヌのバッグから、可愛らしいタオルが出てるの見た?あんなのセリーヌに失礼よ。それに、セリーヌを買うお金があれば、お子さんのために使ってあげた方が有意義だと思わない?」

希は、イエスともノーともつかない曖昧な相槌を入れながら、静かに話を聞いている。

「それにあのヒール。結婚して子ども産んでも、まだ女でいたいなんて、欲張りなのよ。お子さんのことを第一に考えるんだったら、スニーカーに、斜めがけできるようなトートバッグが一番でしょ」

部下にこんなに愚痴をこぼすのが、スマートでないことは十分わかっている。だがそれでも、ゆり子は自分の中に溜めこむことはできなかった。

「資料整理をお願いしたのだって、感覚を取り戻してもらうためよ?なんか、あからさまに嫌な顔されたけど」

佳乃の復職初日の出来事を思い出して、ゆり子は僅かに眉根を寄せた。

時短勤務で働く女性に、どれほどの期待をしろというのだろうか。

彼女たちは、子どもの熱がでれば飛んで帰らなければならず、すぐに休む。いくら本人にやる気があっても、彼女たちは仕事よりも優先しなければならないことがある。

重要な案件で「時間が足りずにできませんでした」となってしまってからでは遅いのだ。こちらがそのことを指摘すればマタハラだ、パワハラだと騒ぎたてられる可能性だってある。

文句を言う前にせめて、もっと自覚してほしいのだ。自分たちがどれだけ守られているか、気遣われているか、まわりにどれだけの負担を強いているかを。

希がお手洗いに行った時、クールダウンしたゆり子は佳乃の夫、紀之の顔を思い出して、はあっと大きくため息を吐いた。

―もしかしたら、私が佳乃の立場だったかもしれないのよね。でも、私だったらもっとうまくやるのに……。

もう、紀之とのことは遠い過去の話だ。今さら考えても仕方がない。

ただ、佳乃に対してこんなに愚痴が出るのは、やはり紀之のことがあるからだろうか。もしそうだとしたら、自分はなんて愚かなのだろう……。

考えれば考えるほど、ゆり子は自己嫌悪という沼に、ゆっくりと沈んでしまうのだった。

▶NEXT:5月4日 木曜更新予定
ゆり子と紀之の関係を希が語る。