「真田丸」三成死す日(2年ぶり12回目)歴代大河ドラマ、この「関ヶ原の戦い」が凄い

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9月11日に放送された大河ドラマ「真田丸」第36回(きょう13時5分から総合テレビで再放送あり)では、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い前夜、家康嫡男・秀忠(星野源)率いる徳川軍が、真田信繁(堺雅人)とその父・昌幸(草刈正雄)らの立て籠もる信州・上田城を攻めた、いわゆる第二次上田合戦が描かれた。


思えば、本作の真田昌幸役の草刈正雄は、ちょうど5年前の大河「江〜姫たちの戦国〜」では、秀忠(演じたのは向井理)に同行した徳川家重臣・本多正信を演じていた。そのときの攻める立場から、今回は逆に攻められる立場に転じたことになる。

第二次上田合戦は、昌幸・信繁親子が石田三成率いる西軍についたことに起因する。上田城の攻略に失敗した秀忠はまもなくして真田討伐を中止し、家康と合流するべく西へ軍を向ける。三成との戦いがいよいよ風雲急を告げたからだ。関ヶ原の戦いはそれから6日後、9月15日に起きたが、秀忠は木曽路を迷走しているうちについに戦いにまにあわなかった。

大河ドラマ、関ヶ原シーン“最短記録”は?


さて、「真田丸」のくだんの回では、肝心の関ヶ原のシーンはわずか50秒、その結果も直接描かれるのではなく、忍びの佐助(藤井隆)のセリフとして伝えられた。あの日本史上の大事件がこんなあっさりとした扱いとは! などと、ネットでも話題を呼んだ。

ちなみに前出の「江」では、ヒロイン・江(上野樹里)の夫である秀忠の足跡を中心に追った結果、関ヶ原の戦闘シーンは正味1分40秒ほどにとどまった。それより短い例を歴代の大河ドラマから探すなら、「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」(2002年)で関ヶ原の戦いが出てきたのは最終回のわずか14秒である。ただしこの作品の関ヶ原は、ほとんど後日談的な扱いで、三成が死んだことにさえ触れられていない。

「真田丸」では家康と三成の対立が、決戦にいたるまで描かれてきたにもかかわらず、関ヶ原が1分未満の扱いとなった。「利家とまつ」を例外とすれば、大河ドラマ史上最短ということになるだろうか……と、思いきや、それを上回る作品があった。1987年放送の「独眼竜政宗」である。同作には家康も三成も登場するし、劇中で慶長5年9月15日という日も迎える。だが、関ヶ原の戦いのシーンは一切出てこないのだ。

関ヶ原が出てこない大河史上最大のヒット作


「独眼竜政宗」の第36回のサブタイトルは「天下分け目」。どうしたって関ヶ原の戦いが出てくるものと思うだろう。しかし、主人公の伊達政宗(演じるのは渡辺謙)はそもそも関ヶ原には出陣していない。慶長5年の春、家康(津川雅彦)による会津の上杉攻めに加勢した政宗は、その後、上杉と和睦するものの、相手の動きを封じ込めるべく奥州にとどまっている。そこへ来て、政宗母・保春院の実家である最上氏の領地・山形に、上杉景勝の重臣である直江兼続の軍が侵攻した。このとき、政宗は最上からの援軍の申し入れに応じる。その日こそ、まさに関ヶ原の戦いの当日であった。

続く第37回「幻の百万石」では一応、アバンタイトル(オープニング前のシーン)で関ヶ原の戦いについて、現地の映像やCGなどを用いて解説されているが、これはドラマ本編とはあくまで別物。オープニング後にはすでに戦いは終わっており、政宗は半月後の9月30日になってようやく東軍の勝利を知らされる。三成(奥田瑛二)処刑の前日だ。

ちなみに「独眼竜政宗」では、本能寺の変もアバンタイトルでのみの扱いだった。それでもこの作品は大河ドラマ史上最高の平均視聴率(39.7%)を記録している。本作は、たとえ歴史的大事件を真正面からとりあげず、ローカルなできごとを中心に描いても、話が面白くて役者に魅力さえあれば、視聴者はついてくるという好例だろう。

関ヶ原の戦いとあわせて描かれた局地戦


「真田丸」もまさにこの系譜に位置づけられる。一昨年の「軍師官兵衛」でも、黒田長政(松坂桃李)が関ヶ原の戦いに東軍として参戦するさまが描かれるとはいえ、本筋は長政の父親で主人公の黒田如水(岡田准一)が、家康と三成の戦いに乗じて九州制覇をめざし進撃を続ける過程にこそあった。

また、「天地人」(2009年)では、前出の直江兼続(妻夫木聡)を主人公に、「独眼竜政宗」で描かれた上杉方による最上領侵攻が、今度は攻める側より描かれた。当該の回(第38回)は「ふたつの関ヶ原」と題され、同時期の関ヶ原の戦いとあわせてとりあげられている。だが、大半の時間は“本戦”である関ヶ原の場面に割かれ、兼続たちの戦いが描かれるのはほぼ後半の約9分のみ。それも最上方の長谷堂城を取り囲んだ上杉の陣営における兼続や上杉景勝(北村一輝)のやりとりに終始し、合戦そのものの描写はない。物語の主眼はあくまで三成と兼続の関係に置かれていたとはいえ、せっかくのテーマがもったいないと思ったのは、私だけだろうか。

商人の視点から描かれた関ヶ原


大河ドラマで最初に関ヶ原の戦いがとりあげられたのは、1971年放送の「春の坂道」である。徳川家に仕えた剣術家・柳生宗矩(演じたのは中村錦之助=のちの萬屋錦之介)を主人公とした作品だ。しかし、NHKには視聴者から録画テープが寄贈された最終回を除いて映像が残っておらず、肝心の関ヶ原のシーンを見ることはできない。

関ヶ原のシーンの映像が現存する最古の作品は「黄金の日日」(1978年)だ。戦国を生きた堺の商人・助左衛門(市川染五郎=現・松本幸四郎)を主人公とするこの作品では、関ヶ原の戦いもまた堺の商人の視点から描かれる。

三成(近藤正臣)が挙兵すると、その兄・石田正澄(内田稔)も加勢するため堺の奉行をやめる。これにより堺は、織田信長の支配下に置かれてからというもの奪われていた自治を取り戻した。三成と家康(児玉清)の争いでも堺の人々はあくまで中立を貫くのだが、関ヶ原から敗走してきた西軍の島津義弘(平泉征=現・成)に薩摩へ帰る船を貸し与えたことから、家康ににらまれてしまう。これが続く最終回における堺の町の終焉の伏線となる。

香川照之のデビューは関ヶ原だった


豊臣秀吉の正室・ねね(北政所、高台院)を主人公とした「おんな太閤記」(佐久間良子主演、1981年)、さらに同じく橋田壽賀子のオリジナル作品である「春日局」(大原麗子主演、1989年)では、主に小早川秀秋にスポットを当てながら関ヶ原の戦いがとりあげられた。これは秀秋が、ねねにとって甥、春日局(おふく)にとっては夫・稲葉正成の主君にあたり、ヒロインに近い存在だったためだろう。なお「おんな太閤記」では、秀秋に大和田獏、その実兄の木下勝俊に大和田伸也が扮し、兄弟共演となった。

「春日局」では、秀秋が家康・三成双方から自分たちの側につくよう甘言を弄される。とりわけ三成(伊武雅刀)より関白を任せたいとの条件を提示されると、すっかりその気になってしまう。家康方につくよう勧める稲葉正成(山下真司)から諭されても、聞く耳を持たない。

このとき秀秋を演じたのは、当時23歳で、本作が俳優デビューとなった香川照之だ。このときの香川のセリフ回しは、率直にいえば後年の彼とくらべると当然ながら拙いし、板についていない印象すら与える。しかしそれがかえって、確固たる自我がなく、他人の言うことに惑わされがちな役柄にぴったり合い、妙なリアリティを感じさせるのもたしかだ。

山下真司と香川照之は、それから11年後、「葵 徳川三代」(2000年)で、それぞれ東軍の黒田長政と西軍の宇喜多秀家に扮し、関ヶ原で衝突する。さらに香川は「功名が辻」(2006年)で、のちに山内一豊(上川隆也)に仕える六平太という甲賀忍者を演じ、関ヶ原では小早川秀秋(阪本浩之)に東軍への寝返りをうながす役目を担った。

同じ劇団出身のスター俳優が関ヶ原で激突


香川照之と並び、大河ドラマで関ヶ原の戦いに赴く役を3度演じているのが平泉成だ。「春日局」で香川演じる小早川秀秋を家康方につけようと説得したのも、平泉演じる本多忠勝だった。平泉はこのほか先述の「黄金の日日」の島津義弘役、それから「徳川家康」(1983年)では東軍の井伊直政の役で関ヶ原に出陣している。

「徳川家康」では、主演の滝田栄に対し、三成役には鹿賀丈史と、いずれも劇団四季出身(鹿賀のほうが1年先輩)で、同じく1950年生まれの二人が関ヶ原で激突した。従来の狸親父のイメージを覆すように、滝田演じる家康は先の先まで読む理論家として描かれた。理論家ということなら三成も引けを取らなかったが、基本的に他人を信用できない性格ゆえに、人心掌握術に長けた家康に最終的に敗北するというのが、本作のキモである。

冒頭に書いたとおり、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠が遅参し、けっきょく家康は本隊を欠いたまま決戦にのぞむことになった。だが、「徳川家康」ではこのことさえ、自分がたとえ死んでも徳川家を存続させるための家康の策略として描かれている。ただ、史実からすれば、やはりそんなことは考えにくい。実際のところは、「葵 徳川三代」で描かれたように、家康は関ヶ原に来なかった秀忠に激怒したのではないか。


「葵 徳川三代」が「真田丸」に与えた影響とは?


「葵 徳川三代」では、第1回で「総括関ヶ原」と題してその戦いの全貌を描いたあと、第2回よりいったん豊臣秀吉の逝去直後にまでさかのぼり、時間を追って第11回でふたたび関ヶ原に行き着く。ちなみに戦いのシーンでは、若き日の宮本武蔵も一瞬登場する。武蔵はこのとき西軍の雑兵として参戦したとの言い伝えがある。2003年放送の「武蔵 MUSASHI」(市川新之助=現・海老蔵主演)冒頭の舞台も戦いの終わった関ヶ原だった。

さて、「葵 徳川三代」では、関ヶ原の戦いで勝利した家康(津川雅彦)のもとへ、秀忠(西田敏行)が這う這うの体でやっと到着し、面会を求めるも拒絶される。このあと、家臣らのとりなしもあり、秀忠は土下座してやっと許してもらうのだが、そこにいたるまでの描写は哀しくも滑稽だ。あきらかに笑わせようとしている部分も多々ある。

この「葵」における秀忠遅参のくだりは、いまにして思えば、「真田丸」で家康(内野聖陽)が本能寺の変の直後、堺から領地の三河に戻るべくボロボロになりながら伊賀越えを敢行するシーン(第5回)のヒントになっているような気がするのだが、どうか。

具体的なヒントを与えたかどうかはともかく、三谷幸喜作品へと通じるシリアスななかにもコメディタッチを交えるという大河ドラマの一路線を敷いたのは、「八代将軍吉宗」(1995年)とそれに続く「葵 徳川三代」という一連のジェームス三木作品だったように思う。

ただしいずれもコメディ色の濃い作風とはいえ、ジェームス三木と三谷幸喜の手法は微妙に異なる。たとえばジェームスは、「葵」で語り部に家康の孫にあたる水戸光圀(中村梅雀)を据え、ときには家康たちの時代にタイムスリップしたり、セリフに現代用語を交えたりと、時空間を超越した立場から解説をさせた。これに対して、三谷幸喜の大河作品にはそこまで融通無碍な設定の人物は出てこない(「真田丸」で長澤まさみの演じる「きり」にそれっぽいところがあるとはいえ)。三谷はやはり、時代などの制約のなかで物語を組み立てることにこだわっているのだろう。

関ヶ原の戦いにしても、ジェームスがさまざまな有名なエピソードを散りばめて「総括」してみせたのに対し、三谷は真田家の視点にほぼ限定して描き出してみせた。とはいえ、一方で、「独眼竜政宗」で関ヶ原を一切描かず、あくまで奥州にとどまった主人公を中心に物語を展開させたのもまたジェームス三木だったというのが面白い。

歴代の大河ドラマにおいて石田三成は、その死がはっきりと描かれない「利家とまつ」と「武蔵 MUSASHI」を除けば、「真田丸」までじつに12回も死んでいる。「独眼竜政宗」「葵 徳川三代」「功名が辻」では、処刑直前の三成と柿をめぐる有名なエピソードも出てきたが、はたして「真田丸」にも登場するのか。それも含めて、明日放送の第37回で描かれるであろう三成の最期が、いまから気になってしかたがない。
(近藤正高)