■極私的! 月報・青学陸上部 第3回

―― 日本学生陸上競技個人選手権大会。

 6月11日午後3時前、青山学院大学陸上部の選手たちがShonan BMWスタジアム平塚にやってきた。この日は、5000mのタイムレ−スに1年から4年まで総勢32名が出場する予定になっている。

 チ−ムの待機場所はバックスタンドの東側の下にある。1時間以上前からマネ−ジャ−が青いシ−トを敷き、選手たちの到着を待っていた。

 やってきた選手たちはすぐにマットを敷いてストレッチを始めた。ある選手は音楽を聴きながら、ある選手は黙々と、各自リラックスして体を解(ほぐ)している。ストレッチが終わるとスタジアム周りをジョグし始めた。ここまではまるで大会時のル−ティンらしく隙なく、スムーズだ。選手がアップをしている中、小関一輝マネ−ジャ−が行動予定表を手に忙しく動いている。

 体育会の運動部にはおおよそマネ−ジャ−が存在するが、青学陸上部(長距離ブロック)にも男女合わせて10名が在籍している。しかし、不思議なことに女子は2、3、4年生がいるのだが、男子は3、4年生のみでわずか4名しかいない。

 これには理由がある。

 学生たちの多くは駅伝を走り、そこで結果を出すために入部してくる。彼らの最大の目標である箱根駅伝は10名しか走れない狭き門だが、選手はその椅子を掴もうとしのぎを削るのだ。しかし、箱根駅伝優勝を目指すほどの陸上部には当然、求められるレベルがあり、そこには厳然とした「掟」がある。青学には2年終了時までに関東インカレ2部5000mの標準B記録(14分35秒)を超えるという部内基準があるのだ。それを超えられない場合、選手としての登録を諦め、マネ−ジャ−に転身することを勧められる。4年でマネージャーを務める小関は、そのひとりだ。

「僕がマネ−ジャ−になったのは、3年の8月です。2年の終わりまでに部内基準を突破しないといけないんですけど超えられなくて......。3年の前期までチャンスをもらったんですがダメでした。そこまで選手としてしっかりやれたと思いますが、やはり悔いは残りますし、走りたい気持ちもありました。でも、その時の自分の実力を考えると、選手としてよりもマネ−ジャ−になってチ−ムを支えた方が貢献できると思ったんです。それで3年の夏合宿からマネ−ジャ−になりました」

 3年生の途中からマネ−ジャ−に転向したが、最初は仕事をどう処理していいのか戸惑い、原晋監督によく怒られたという。

「最初は勝手がよく分からなくて、例えば、ひとつの案件を確認しようと監督のところに行くんですが、すぐにあれもこれもっていう感じで何度も監督のところに行き来したんです。そうしたら『おまえは考えがまとまっていない。まとめてからこい』ってよく怒られました(苦笑)」

 マネ−ジャ−の仕事は多い。日常の練習では1ヵ月の練習メニュ−が出ており、それをその日その日に確認し、練習前に選手に伝える。また、陸上部の広報として選手への取材を調整したり、選手の大会エントリ−を分担して進め、関東学連や大会事務局と連絡を取って打ち合せをする。大会のときは事前に行動予定表を作り、現地に入ると、それをベ−スに動いていく。5月の関東インカレでは毎日朝7時半スタジアム集合で対応していた。この日の大会も行動予定表を手にテキパキと動き、レ−ス前は選手招集所に急遽欠場した田村和希らの不出場届けを出しに行き、レ−ス中はスタンドから大きな声で選手にタイムを知らせていた。

「最初はいろんなことに慣れなくて大変でしたね。特に一緒にトレ−ニングをさせていただいているトレ−ナ−の中野(ジェ−ムス修一)先生がすごく忙しくて、そのサポ−トとか、打ち合せが結構多いんです。そういう調整とかやったことがなかったので、大変でした。今はもう大丈夫です。日常の練習や打ち合せもそれほど問題なくできているし、選手が練習に打ち込める環境作りはできていると思います」

 充実した表情には自分の仕事に対する自負が伺える。

 昨年、箱根駅伝2連覇を達成したときはマネ−ジャ−としてのやりがいも感じられるようになったという。

「昨年の箱根での連覇をマネ−ジャ−として経験できたのは大きかったですね。やっぱり大会で選手がいい結果を出して終われると、マネ−ジャ−としてよかったなぁと思いますし、すごく安心するんです。4年生とマネ−ジャ−の関係もいいお手本になりました。

 ただ、あまりにも強い4年生だったので、今年は本当に自分たちがやっていけるのか心配な部分もあったんです。でも、ここにきて(今の)4年生がチ−ムを引っ張る雰囲気が出てきています。4年生の僕らの代は、昨年のようにみんなが深く関わる感じじゃないですが、いざという時の団結力は昨年の4年生に負けていないと思います。たまに4年生だけで食事に行ったりしますが、そのときは結構深い話をしたりして、ここまで4年間やってきたことへの深い信頼と絆があるなと感じているので。それを軸に駅伝3冠、箱根3連覇を達成できるように頑張っていきたいです」

 小関は、そういうと足早に待機場所に戻っていった。

 現在のマネ−ジャ−はひと昔のような"パシリ"でも単なる雑用係でもない。チ−ムを滞ることなく前に進行させていくために、その舵取りや調整など全体のマネジメント能力が求められる。また、全体を俯瞰し、各選手の調子や問題点を把握することも必要だ。知らないと選手が調子を落として困ったとき、的確なアドバイスができないからだ。マネ−ジャ−は全方位的な視野が確保できないと、やっていけない実にタフな仕事なのだ。

 5000mのタイムレ−スは第1組、第2組ともに青学と東海大の一騎打ちになった。

 青学の32名に対して東海大も18名の選手を送り込んできたのだ。天候は曇りだが気温24度、湿度71%でちょっと蒸し暑い。夏になり、気温が上がると長距離レ−スはそれこそ"地獄"になる。カンカン照りは容赦なく選手の体力を奪い、力が抜ける感覚になる。今日は日差しがない分、まだマシな方だが、それでもレ−ス後半はかなりキツイだろう。

 第1組では東海大がワンツーフィニッシュを決め、青学は2年の橋詰大慧(たいせい)が3位、14分29秒34という平凡なタイムに終わった。

 2組の下田裕太、中村祐紀ら主力が参戦するレ−スに期待が高まる。

 第2組がスタートし、先頭に立ったのは4年の秋山雄飛だった。一際大きなストライドで順調に走っているように見えたが、1000mのラップを取ると、まるでそこでガス欠したかのように遅れ出し、2000m通過時点で最下位に転落した。2月の福岡クロカン(日本陸上選手権大会クロスカントリ−競走)から調子が上がらず、最近の部内記録会で持ち直した感があったが、まだまだ本来の調子に戻せない厳しい状況が続いている。

 キャプテンの安藤悠哉もスピードが上がらずスタ−トから遅れ、2000m通過時点でブ−ビ−だった。春先から故障で苦しみ、関東インカレ前からようやく練習を始めたが、完全復帰にはもう少し時間が必要だ。

 レ−スは主力の下田、中村祐ともにペースが上がらず、最後は東海大の関颯人と青学2年の梶谷瑠哉(りゅうや)がラスト200mで熾烈なデッドヒートを見せた。関を差すことができずに終わった梶谷は、14分05秒38で2位。自己ベスト更新はならなかったが、最後は粘り強い走りを見せてくれた。

 レ−スが終わるとウェアなど自分の持ち物を入れた青いビニ−ル袋を探し出す。袋には大学名、名前、ゼッケンが書かれているが人数が多く、同じ大学名が多いとなかなか自分の袋を見つけられず、時間がかかる。見つけると袋の中からタオルを取り出して汗を拭き、水分を取る。片手にビニール袋を持ってゴ−ルエリアから出てきた下田は体の汗腺から汗という汗が吹き出たようにびっしょりだ。「あぁ、ダメだ。またやっちまった。夏合宿からやり直しですね」と11位に終わり、タイムも14分16秒67と平凡に終わった悔しさを噛み締めていた。

 この日、5000mのメンバ−リストを見るとエ−スの一色恭志の名前がなかった。関東インカレ2部の10000mでは駒沢大の中谷圭佑に敗れ、「肝心なところで勝てない」と自分の勝負弱さに少し呆れたような悲しい笑みを見せたが、5000mではゴ−ル直前でムソニ・ムイル(創価大)を抜き、優勝した。

 その後、日体大記録会に参加したが、この日の大会にはエントリ−せず、来たるべき日本選手権(5000m)に向けて調整を続けている。プロ、実業団など日本の陸上界のトップが集うレ−スだが、果たしてどんなレ−スを見せるのか。この時期、秋山や安藤ら4年生の走りがやや物足りない中、4年で青学のエ−スとしての意地を日本選手権という大舞台で示すことになる。

(つづく)

佐藤 俊●取材・文 text by Sato Shun