無冠の人気作家の初挑戦は? 書評家・杉江松恋が第154回直木賞受賞作を予想する

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今回も★で本命度を表しますが、作品の評価とは必ずとも一致しないことをお断りしておきます(5点が最高。☆は0.5点)。


■青山文平『つまをめとらば』
青山は第152回の『鬼はもとより』が最初に候補となった作品で、これが2回目である。しかし第154回直木賞は、これ以外の候補作がすべて初お目見えという意外な事態になったため、期せずして『つまをめとらば』シフトという形になった。しかも青山以外は、すべて女性作家の作品である。
本書は6作を収めた短篇集である。巻頭の「ひともうらやむ」は、とある地方藩の物語だ。文字通りひともうらやむ美貌の主と結婚することになった男が、それゆえに変事に巻き込まれてしまうのである。続く「つゆかせぎ」は妻の朋に先立たれた「私」が主人公だ。朋は密かに戯作の筆を執っていた。実は彼女とも俳諧が縁で結ばれたのであり、朋は「私」に侍を捨てて専業の俳諧師、業俳になることを勧めていた。妻は自分に失望したまま旅立ったのかもしれない。そう思う「私」は、ふとしたことで一人の女と出会う。
こうした形で、妻を娶った男たちが話の中心人物となる連作集である。妻と対峙しながら男は、自身の中に弱さがあることに気づく。そうした形で男たちの本性を浮かび上がらせることに主眼のある作品集だ。前回の『鬼はもとより』は江戸時代を舞台とした経済小説の性格を持っていた。それに当たるものは「武」に対する「文」だろう。ここに登場する男たちは皆士分だが、時代が変遷する中で、たつきを他に求めなければならないことに気づいて行く。変化へと向けて足を踏み出すことが作品のもう一つの主題になっているのだ。
ちなみに表題作は、過去に女性がらみで苦い体験をしたことがある男二人が、老境に入って大家と店子の共同生活を送り、このままやっていけるかどうか、と気を揉むという話である(なにそのBL)。滑稽味もあり、とても好きな一篇である。ヒロインの魅力を楽しみたい向きには「ひと夏」をお薦め。「ほらっ」の一言にしてやられました。
省略の技法が効いている文章も素晴らしく、特に「ひと夏」は、ヒロインであるタネの強烈な色気や、本書の中では唯一の殺陣描写などが秀でている。もちろん娯楽性も十二分で、直木賞にはふさわしい。ただし時代小説には一家言ある選考委員も多いので、思わぬところから批判票が入る場合もあるだろう。その場合は番狂わせもあると予想する。しかし予想としては、あくまで★★★★としたい。

■梶よう子『ヨイ豊』
梶よう子は2008年に『一朝の夢』で第15回松本清張賞を受賞し、以降時代小説の書き手として着実に地歩を固めてきた作家だ。シリーズキャラクターものの軽い作品から本書のような重厚作まで幅広く手がけている。
前回の候補作となった澤田瞳子『若冲』、第148回受賞作の安部龍太郎『等伯』などと同様、芸術家の生涯を題材とした時代小説である。舞台となるのは幕末期だ。黒船来航が1853(嘉永6)年、そこから日本の激動期は始まったが、絵画の世界もまた別の意味で揺らいでいたのだった。1858(安政5)年、初代歌川広重没。1861(文久元)年、歌川国芳没。1864(元治元)年、三代歌川豊国没。江戸絵の本流を守ってきた花形絵師たちがこの世を去り、歌川一門は危機に晒されていた。主人公の清太郎は三代の豊国に入門し、物語の始まる1865年頃は師の前名である二代国貞を襲名していた。その彼を視点人物として採用し、人間としての姿を作者は描いていく。
清太郎こと二代国貞には内と外にそれぞれ懊悩の種があった。内のそれは、弟弟子・八十八(国周)だ。一回りも下の弟弟子ながら、その才能は清太郎を凌駕しかねないものだった。師の跡を継いで歌川一門を背負うべき立場ではあるが、才能のことは自分がよくわかる。外のそれは、国貞という名が版元から侮られることだった。歌川一門を衰微させないためには、四代豊国を襲うしかない。しかし、自分はそれにふさわしい人間なのか。
『ヨイ豊』は、理想と現実とが乖離した場所にいる人の苦悩を描いた小説である。時代小説であり芸術小説であるが、この主題は圧倒的な普遍性をもって読者の胸に迫る。時に自暴自棄となり弱い部分をさらけ出す清太郎の姿はおおいに共感を呼ぶはずだ。
実在の人物、滅び行くジャンルを描いた小説としては申し分ない。弟弟子八十八への清太郎の感情はもっと黒いものではないと綺麗ごとに過ぎるのではないか、と私は感じたが、これはあくまで好みの問題だろう。ただ清太郎と八十八の画風を際立たせるような場面はもう少し盛り込んでおいたほうがよかったようには思う。初候補ということも勘案して評価は★★★。

■深緑野分『戦場のコックたち』
深緑野分は2010年に東京創元社のミステリーズ!新人賞で佳作をとってデビューし、2013年にその受賞作を含む短篇集『オーブランの少女』を初の著書として上梓した、まだ新人の域に入る作家だ。2冊目の著書である本書を候補としたのは事務局の慧眼を讃えるべきだろう。
少女の登場するミステリーをまとめたデビュー作とはうってかわって、本作は男くさい長篇小説である。舞台となるのは第二次世界大戦下のノルマンディー地方である。ナチスドイツ支配下のフランスに連合国が上陸作戦を決行し、見事に領土を奪還したあの戦闘である。主人公のティモシー(ティム)・コールはルイジアナの田舎町から志願兵としてやって来た青年だ。連隊の管理部付きコックとして、戦友たちの餓えを満たす仕事をしている。食いしん坊のティムと、味音痴だが判断力と料理の腕は優れているエドがコンビを組んで連隊の中で起きるさまざまな出来事に対処していく、という連作形式の物語である。
「日常の謎」という形式がミステリーにはある。殺人などの犯罪ではなく、もっと身近な謎を探偵が論理的に解き明かすのだ。ティムとエドのコンビが最初に取り組むのもそういう事件なのだが、次第にその内容が変化していく。当然だろう。彼らがいるのは前線であり、戦争は継続中である。毎日のように戦局は変化し、大量に死者が出るのだ。そうした非日常の中で日常の謎を解き続けるという楽しみがあり、さらには日常を超える大きな問題をティムは解かなければならなくなる。論理だけではなく、別種の力も必要なのである。その局面に至って読者は初めて、作者がこの歴史的な戦場を舞台とした真意に気づかされることになる。
骨太の小説で、新人の作品としては異例に柄が大きい。将来が楽しみだが、若書きゆえの瑕ももちろんある。いちばんのそれは、作者が書きすぎていることだろう。書ける範疇を超えてディテールを書き込んでいるため、一部バランスが崩れている箇所がある。そうした点は選考ではマイナス要因になるのではないか。また、史実を扱った内容ということで、厳しく接する選考委員もいるだろう。おそらく今回の受賞はないと思うのだが、逸材としてぜひ注目していていただきたい。★★☆。

■宮下奈都『羊と鋼の森』
本屋大賞などの候補となったことはあったが、意外にも直木賞で名前が挙がったことは過去にない。無冠の人気作家が初挑戦である。
とても美しい音楽小説だ。主人公の〈僕〉こと外村は、高校2年生のときのある出会いによって人生を変えられてしまう。町の楽器店から体育館のピアノを調律するためにやってきた人がいた。その人、板鳥宗一郎がピアノに命を吹き込む過程を外村はずっと見守り続けたのだ。高校卒業後に専門教育を受け、外村は板鳥の務める江藤楽器店に就職する。彼が成長していくさまを作者は静かな筆致で描いていく。
ピアノ調律の世界を熟知している小説読者はそれほど多くないはずだ。ゆえに外村が受ける衝撃は、そのまま読者のものとして共有されることになる。先輩の1人である柳は言う。「なるべく具体的なものの名前を知っていて、細部を思い浮かべることができるっていうのは、案外重要なことなんだ」と。一見関係ないように思われる視覚的な知識が、漠然とした感覚を明確な形をもったものへと落とし込むための例示として用いられる。そのようにして外村は柳から対象を具体的に想像する技術を学んでいく。また板鳥は、小説家・原民喜の文体に関する発言を引用して、自身の目指す音を外村に伝える。その言葉は実際に小説を読んで確かめてもらいたいが、大きな木片にのみを数回振るって求める形を取り出すときのような、繊細な切っ先を持ったものである。そのようにして外村は調律の概念を教えられる。また、そりの合わない先輩だと思っていた秋野は、外村に仕事の厳しさを別の面から示してくれる。
ピアノの弦を叩くハンマーには羊毛のフェルトが用いられている。『羊と鋼の森』というのは、その繊細な内部構造を示すものであると同時に、北海道の山地で育った外村の内的世界に広がる、音の広がりのことでもある。最初のそれはごく限られたものなのだが、外村が調律師として成長していくうち、豊かに育っていく。外村が都会っ子ではなくて山奥で育った素朴な青年として設定されているのがこの小説の仕掛けで、無垢なる者が世間の複雑さに出会うという構造が隠されているのである。
言葉によって美を描くという困難な課題に取り組み、見事に成功した作品である。純粋であるゆえの脆さも感じさせるが、ぜひ読んでもらいたい一冊だ。対抗として★★★☆。

■柚月裕子『孤狼の血』
柚月はミステリー畑の出身だが、第15回大藪春彦賞受賞の実績があり、著作の映像化などで一般層にも知名度が上がってきている作家だ。今回の候補作も『戦場のコックたち』同様年間ランキングの上位に入り、2015年の話題作となった。本作はいわゆるマル暴、暴力団対策に挑む刑事を描いた警察小説である。
広島県警呉葉東署捜査二課に、新任の刑事が配属されてきた。その男、日岡秀一は大上章吾という先輩と組まされることになる。捜査二課には暴力団係と知能犯係がある。大上は暴力団係一筋に生きてきた男だ。これまでに大小合わせて100以上の表彰歴があるが、訓戒処分も現役ワーストという噂がある。暴力団の世界は特殊で、ずぶずぶに浸からなければ刑事もやってはいけない。どぶどろの中で踏み越えてはいけない一線をまたいでしまう者もいるということだ。大上も過去に、情報漏洩を疑われて左遷された経歴があった。
まるで本職顔負けに荒っぽく、おまけに平気で違法捜査を行う大上に日岡は度肝を抜かれる。服務規程などあって無きが如き振る舞いなのだ。しかしその中に一本筋の通ったところがあることに気づき、日岡は次第に大上に惹かれていく。
物語は師弟コンビというべき刑事2人の関係を軸として進んでいく。物語の推進力となるのは、2つの組の抗争だ。加古村組の息がかかった金融会社から、カタギの社員が行方不明になっていた。その背景には間違いなく暴力団による犯罪が絡んでいるのだ。大上が捜査のため突き進んだことが、思わぬ事態を引き起こす。抗争回避のために奔走する刑事たちを嘲笑うように、硝煙と血飛沫の臭いは強まるのだ。広島弁が多用されることもあり、かつての東映映画を観ているような錯覚を感じる読者は多いのではないか。
謎の力で牽引する部分もあるが、第一の魅力は正攻法のスリラーであることだろう。小細工を弄さない物語運びには好感が持てる。作者はちょっとしたサプライズを仕掛けているのだが、それはあくまでおまけ。大上章吾の行動によってプロットがねじれるところが楽しみどころである。青山が外れた場合、本作と宮下の同時受賞はありうると思う。★★★☆。
(杉江松恋)

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