東海東京フィナンシャル・ホールディングス社長CEO 石田建昭

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■「やってみたい」「ならやってみろ」

1987年5月、東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)の国際財務開発室長になった。金融の超緩和が進み、バブル経済が膨張し、日本各地でリゾート開発やゴルフ場の建設などに巨額の資金が投じられていく。あふれた「ジャパンマネー」が、米国の高層ビルや豪華ホテルの購入に、流れ出す。まさに、日本中が浮かれ始めたころだ。41歳。そんな喧騒を横目に、日本の金融界で先端的とされた試みに、挑戦を重ねていく。

部下に、新進気鋭の12、3人を集めていた。世界の動きを注視し、海外の紙誌や資料を取り寄せて読み、解説する。知らない分野のことでも、ともかく話してみると、他人に教えることで自分も磨かれていく。そして、「やってみたい、やってみる価値があると思うなら、やってみろ」と背中を押す。これは、いまでも同じだ。

「やってみたいこと」は、次々に現れた。例えば「ジャパニーズ・レバレッジ・リース」という手法で手がけた航空機リース。商社と組み、2機を100億円単位で中東の航空会社に提供した。日本の銀行では、初めてだった。

若手の面々に教え、自らも学んだ一つに、M&Aもある。お客は愛知県に本社を置き、布を織るときに必要なゴマ油で世界シェアの6、7割を持つ老舗企業で、米国企業を買収した。外国の金融機関と組むことなく、単独で海外でのM&Aの代理役を務めたのも、邦銀では先行したのではないか。

子どものころは、引っ込み思案で、人前で話すのが苦手だった。小学6年のとき、先生に勧められて児童会長に立候補したが、演壇に上がったら、緊張のあまり記憶したはずの演説が出てこない。中学では意を決し、校内弁論大会に出て、3年のときに優勝した。こうして経験を積んでいくうちに、自分の意見や知識を人に伝えることが、むしろ自分に向いている、と知る。他人の評価など気にしないことも、身に付いていく。

国際財務開発室では、夜遅くまで議論や作業を重ね、深夜になってカラオケ店へ繰り出した。そこで仕事の話が弾むと、午前1時や2時に、また職場へ戻る。そんな夜も、少なくなかった。企画した案件は、ほぼ、そのまま銀行内を通る。担当の役員も部長も知らない世界で、おそらく、よその銀行の面々も「あそこは、何をやっているのか」と訝しがっていただろう。多くの企業でタクシー券が使い放題だったころ、全く別種の盛り上がりが続いた。

「自適其適」(自ら其の適を、適とす)――人は、本当に心に適ったことを、自らに適したこととして追求すべきだ、との意味だ。中国の古典『荘子』にある言葉で、他人の評価によって喜び、悲しむこともない、と説く。「やりたいこと」を、自他ともに求め続ける石田流は、この教えに重なる。

1946年1月、北海道函館市で生まれる。近くには、青函連絡船の乗員が多く住んでいた。船乗りの父も一時、連絡船の機関長だった。8歳の年の9月、台風の直撃で連絡船「洞爺丸」が遭難、港外へ避難したはずの4隻も沈没して、多数の死者・行方不明者が出た。外航船の船長に転じていた父は難に遭わなかったが、地域は悲しみに覆われた。これは、いまでも忘れられない出来事だ。

函館中部高校から小樽商科大へ進み、ここでも「自適其適」を貫く。国際経済のゼミに入り、金・ドル本位制が揺らぐなか、図書館に届く東京銀行(現・三菱東京UFJ銀行)の月報を読み、卒論のテーマに国際通貨制度を選ぶ。

自然、就職は東銀を希望した。ところが、入社試験が早かった東海の募集に誰も手を上げず、学生課が「誰か受けろ」と言い出す。聞くと、往復の飛行機代が出る、という。生まれてから、一度も飛行機に乗ったことがなかった。友人3人と一緒に「それならば」と思って応募し、学校推薦を得て札幌から名古屋へ飛び、試験を受けた。翌日、自分ともう1人に合格通知が届く。当時は、学校推薦を得て受けた先から内定が出ると、他社の試験は受けられない。「仕方ない」と思い、決めた。

■意識を変える「わくわくギネス」

68年4月に入行し、名古屋市の内田橋支店に配属される。一緒に赴任した同期は名古屋大卒で、主要な部署を次々に経験し、2年ほどで転勤していった。自分はおカネを数える出納係に2年いて、窓口担当も務めて4年目に入る。「学歴による差別」を感じた。

そんなとき、若手の海外研修制度ができて、支店も受験者を出すように促された。条件を満たすのは、内田橋で自分を含めて数人。ただ、銀行には、そういう試験に落ちるとバツが付き、一生に影響すると言われた時代。誰も受けたがらず、上司に「もうバツが付いているのだから」と指名された。合格して、ロンドン支店へ8カ月いき、帰国後にバンコク勤務を告げられた。タイと米国の銀行と3社で金融会社をつくることが決まり、その準備と開業に、上司と2人で赴任する。主な仕事は日系企業への融資で、3年半いた。

本社へ戻った後、80年にロサンゼルスの加州東海銀行へ出向する。都市銀行の中で米銀の買収に出遅れ、「お前がいって、どこかを買ってこい」と送り出された。見つけ出して話をまとめたのが、アルハンブラにあるコンチネンタルバンク。個人取引が中心で、不動産担保ローンに強かったが、翌年の不動産不況で深い傷を負う。ロスには6年半いたが、焦げ付いたローンの処理が続く。

国際財務開発室などを経て、ロンドンの欧州東海銀行の頭取になった。2001年、東海が三和銀行、東洋信託銀行と経営を統合してUFJホールディングスができると、欧州の子会社同士の合併を進めるために、3度目のロンドンも経験した。その任を果たし、「そろそろ関係会社に出るのかな」と思っていた04年にかけて、東海東京証券の社長から電話が入り、「うちへきてくれ」と誘われた。

東海東京では、三和系の証券会社との合併が進んでいなかった。東海系と日興証券系が合併した会社で、それなりの規模があったから、小規模の三和系に主導権を握られることを嫌がる。もめているうちに、UFJは10%あった持ち株を半分売り、日興も10%の保有株を全部手放した。自然、独立色が強まり、「やってみる価値がある」と思う。古巣の「東海」の名が残っているところがここだけだった点も、心を動かした。

顧問、副社長を経て、05年3月に社長に就任、翌年にはCEOにもなった。転入してみると、社内はまだ「株屋さん」と言われた時代の文化のまま。日本の株式には詳しくても、世界の市場を知らない。「いまの時代、これでは生き残れない」と痛感したが、人材はいた。市場部門に集めて勉強させ、システムも拡充する。

全社の意識改革も急いだ。すぐに決めたのが「わくわくギネス」の開始。社員それぞれが、仕事以外の分野で「やってみたい」と思う目標を申告し、それに挑戦して実現したら表彰する制度だ。昨年はグループ2700人のうち約800人が申告し、「キリマンジャロの登頂」を目指して達成した女性が、金賞に輝いた。この制度の底流にも、「自適其適」がある。

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東海東京フィナンシャル・ホールディングス社長CEO 石田建昭
1946年、北海道生まれ。68年小樽商科大学商学部卒業、東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)入行。92年欧州東海銀行頭取、94年取締役、96常務。98年東海投信投資顧問社長。04年東海東京証券入社、副社長を経て、05年社長。09年社名変更により現職。

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(経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥)