山あり谷ありの半生記『情と笑いの仕事論』を出版した、吉野伊佐男・吉本興業会長

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■“吉本で一番おもろない男”に会った

自らを“吉本で一番おもろない男”と呼ぶ現会長・吉野伊佐男氏。第一印象は確かに「吉本興業」という社名から想像するような、ギラギラしてアクの強い人物像からは程遠い、非常に柔和な雰囲気の人物である。

「そもそも僕が吉本に入社したのは、学生時代のアルバイトの延長。お笑いは好きだったけど、吉本でトップになろうだなんて思っていなかったし、社長になるギリギリまで自分にそんな大役が回ってくるとは思ってもいなかった。もとは経理や総務の部署や、CM営業をしていたなんです。“流された”場所で仕事を楽しむようにしていたら、こんなことになりました。頼りないリーダーだとまわりが育つし、いいこともあるんですよ(笑)」

と恵比須顔で語る。

しかし、この“流される”という言葉はネガティブなものではない。吉野氏は現在、新入社員に対して、むしろ「流されよ」と言っているのだ。一見、会長の言葉にはふさわしくない台詞のように思えるが、一体どういう意味なのか。

「僕自身、稼ぐことが好きだったので、最初に配属された経理や総務の仕事は不本意でしたし、その後しばらくやっていた制作の“よろず屋”のような仕事も、自分から志願したわけじゃありません。誰もする人がないからやっていただけ。でも、会社から与えられたポジションがあるなら、3年なり5年なり、流されて一度は取り組む価値があると思います。自分の経験からいって、適性なんて自分ではわかりません。評価はまわりがしてくれるもの。どんなに最初は面白くなくても、真面目に頑張っていればちゃんと評価が伴ってきて、自分の行く先は自ずと決まってきます」(吉野氏)

最近の若い人は、離職までの年数が非常に短い人も多い。しかし、どんな時代のどんな仕事でも“面白くないこと”は必ずある。そこでいちいち辞めるのではなく、一度は“流されてみる”こと。不本意な仕事にも力を注ぎ、面白味を見出すことができれば、その時間は決して無駄ではなく、自分の財産になるのだ。吉野氏自身も、経理や総務という裏方仕事を経験したことで、会社全体を見る目が養われたと語る。

■“よそさん”に欲しがられる人材になれ

また、吉野氏にはもう一つ独特な持論がある。「吉本興業40歳定年説」である。

「どんな会社にも言えることではありませんが、吉本のように新しいことを作っていくエンターテインメント企業では、40代以降の頭と感性は通用しません。もちろん、そこまで培ってきたキャリアは若い人にはないもので、非常に意味のあるものです。でも、第一線ではやっていけないと思っているんです。だから、自分の部下には『よそさんから欲しがられる人間になれ』『40歳で定年だと思え』と言っています。吉本の看板や、ポジションにこだわるんじゃなく、経験を糧にキャリアアップしていけるような人材になってもらいたいんですよ」(吉野氏)

吉野氏の教えのとおり、優秀な部下はみな40歳前後で他社に引き抜かれたり、新しいビジネスを始めたりして、巣立って行くという。ともすれば優秀な人材を社外に流出させているようなものではないかと思ってしまうが、心配は無用だ。

「デキる社員は、立つ鳥あとを濁さず。円満退社して、吉本のいい情報を持って外に出て行ってくれるので、それを聞いた優秀な人が『そんな吉本に入りたい』と言ってたくさん入ってきてくれるんです。だから僕は、部下たちを拍手して送り出しています」(吉野氏)

優秀な人材が育つには、それ相応のすばらしい環境が必要だ。それをわかっているからこそ、優秀な人材が出ていけば、次の優秀な人材が吉本の門を叩いてくれる。デキる社員を送り出すのは、人材の良い循環を起こすことでもあるのだ。

次回は、吉野氏が吉本興業ならではの接待術・コミュニケーションテクニックについて語る。

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吉野伊佐男
吉本興業株式会社代表取締役会長。1942年大阪府生まれ。関西大学を卒業後、65年に吉本興業入社。総務部、制作部を経て、営業部CM企画課長に。87年に広報室長、94年にセールスプロモーション部チーフプロデューサー、2001年に取締役、そして05年に代表取締役社長となり、09年4月より現職。

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(大高志帆=文 堀隆弘=写真)