オリックス社長 井上 亮(いのうえ・まこと)1952年、札幌生まれ。75年中央大学法学部卒業、オリエント・リース(現・オリックス)入社。89年同社は「オリックス」に社名変更。2005年執行役・プロジェクト開発本部長、06年常務、09年専務、10年副社長。11年より社長・グループ最高執行責任者(COO)。

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■ロスで改革断行 ボス以下を一新

1995年5月、米国のリース子会社のロサンゼルス支店長に着任した。ほどなく、古いファイルに綴じられた書類を開いて、驚いた。ロスでは、かつてイベントや宣伝用に、飛行船のリースも手がけていた。3年前に事故があり、打ち切ることになって、ようやく飛行船の売却が決まった。その事故報告書だ。

現地社員が書いた内容は、ずさんだった。東京の本社へ出したであろう日本語の報告書を探したが、みつからない。仕方なく、それまでの経緯を含めて、自分で新たに報告書を書き、本社へ送る。すると、「これは何だ?」と問い合わせがきた。説明すると、そんな事故があったという報告書は出ていない、という。

再び驚いて、35人いた現地社員に聞くと、ロスの案件は事故などがあっても、いっさい本社へ報告していなかった。10万ドルから20万ドルの小口リース案件が不良債権化しても、同様だ。現地社員たちは、本社に報告するルールがあることも知らず、支店長に話せば終わり、と思っていた。社内ルールは日本語で書かれたものしかなく、支店長が教えようとしなければ、米国人たちは知りようもない。

「これではまずい」と思い、ルールの説明を始めると、古くからいる社員たちは「イエス・サー」とは言っても、やろうとはしない。日本人の部下が1人いたが、多様な仕事を抱えていた。結局、自分で100件ほどあった問題案件の報告書を、英語と日本語の両方で書く。43歳になる秋口に、すべて終えた。

そのころ、3度目の驚きに遭遇する。本社の人間に電話をしたとき、「あなたは、東京の関係部署を不幸にしています」と言われ、なぜかと尋ねると、「たかが10万ドルの事故報告でも、全部、誰かに担当させて、上へのリポートを書かせねばなりません。それは不幸なことです」と言う。「おい、冗談じゃない、会社のルールじゃないか。では、東南アジアの拠点はどうなのだ」と聞くと、「東南アジアからは、事故報告など一件もきません。完璧な仕事をしています。そんな事故報告がくるのはロスだけです」と答えた。

「そんなはずはない、よく調べてみろ」と言って電話を終えたが、それっきり、何も言ってこない。2年後、アジア危機が起きた。すると、アジアの拠点でも、不良債権化の報告を本社に出さず、現地で勝手に処理していたことが判明する。拠点が相次いで苦境に立つ。「言った通りじゃないか」と言いたかったが、よそのことに構ってはいられない。ロスでの業務改革が、続いていた。

渾然一体となっていた営業と審査の部隊を切り離すなど、組織を大幅に見直した。ここでも、古参社員たちが抵抗する。「お前よりシニアの面々がつくってきた組織を、何で変えるのか」と、声を張り上げた。意識改革には、メンバーを一新するしかない。そう決断する。

1人ずつ面談し、何で辞めてもらうのかを説明し、再就職先も提示した。つたない英語で言質をとられないように、腐心する。けっこう、緊張した。2年間で、すべてを仕切っていた現地社員のボスを含めて25人が去り、新しい陣容が整う。

ただ、副作用も出た。古くからの社員を切ったことに、ニューヨークの子会社で顧問をしていた米国人が怒り、本社に抗議したらしい。顧問は、オリックス創業時からの恩人。だが、引き下がらない。4年目の冬に帰国の内示が出た。でも、壁が厚く、高くなるほど、闘志が湧く。

「断而敢行、鬼神避之」(断じて敢行すれば、鬼神も之を避く)――断じて行うとの気構えで臨めば、鬼神も道を避けて意に従うとの意味で、司馬遷がまとめた『史記』にある言葉だ。何かを為すときには、断固たる意思とやり抜く意気込みがなければならない、と説く。立ちはだかる壁をものともせず、目標貫徹に注力する井上流は、この教えに重なる。

1952年10月、札幌で生まれる。父は商社マンで、生後数カ月のときに大阪へ引っ越した。さらに名古屋から東京へ。東京・中野の社宅から小学校、中学校へ通い、中大付属高校から中大法学部へと進む。

就職活動でオリエント・リース(現・オリックス)へいき、「リースって何ですか」と質問して、面接官をあきれさせた。でも、宮内さんは資格欄に「PADIのインストラクター」とあるのに興味を持ち、「これは何ですか?」と質問した。米フロリダにあるスキューバダイビングの国際組織で、試験も英語だったと答える。「英語ができるのか」と思われたらしく、入社すると、国際部に配属された。実は、読み書きはともかく、英会話は全くできなかった。

■シリア企業と攻防脅迫にも屈せず

75年4月に入社。国内外の船舶リース担当で、早速、上司に短い英文を渡されて訳すように言われる。でも、四苦八苦。机に向かうだけの2年間に「辞めようか」と思うが、やがて世界のビジネスに触れて「国内のしきたりより、海外の流儀のほうが性に合う」とのめり込む。

6年目の夏、香港へ赴任する。日本を出る前、社長になった宮内さんに「きちんと、英語の勉強をしてこい」と言われた。入社時の誤解は、もう消えていた。1年半いて、新設されたギリシャ事務所へ異動する。ギリシャ人の運転手と女性秘書の3人世帯。海運不況が長引き、船の差し押さえや訴訟などタフな仕事が続く。このあたりから、「断而敢行」の井上流が、随所に顔を出す。

85年、タンカーをリースしていたシリアの企業で内紛が起きて、社長が交代した。その後、リース料が滞り、電話で催促したら「カネは、アラーの神の思し召し次第だ」と断られた。「それでは、タンカーを差し押さえる」と言うと、「こちらには、いっぱい暗殺者の友人がいる。いつでも、そちらに送るぞ」と脅された。屈せずに、「送るなら、送ってみろ」と言って電話を切る。

インドネシアにいっていたタンカーの差し押さえ合戦、機関銃を持った警官らの登場、秘密警察による追跡と、スリル満点の展開を経て、タンカーはシンガポールで相手側に抑えられてしまう。その間、本社の担当者は「お前がやったことだ、知らないぞ」と冷たい対応に終始した。弁護士が「もうダメだ」と言った翌朝、「船が解放された」との知らせが届く。シリア企業が船を差し押さえた弁護士に費用を払わず、弁護士が怒って差し押さえを解いてしまっていた。漫画のような結末ではあったが、すべて「断而敢行」の気構えがもたらした成果だった。

2011年1月、社長に就任。社内報で「役員会にも出てきて課題はわかっているので、それをどう解決していくかと、ROE(株主資本利益率)10%の達成が、自分のミッションだ」と語った。ROEは、リーマンショック後のどん底からは回復したが、目標達成は簡単でない。でも、個別にみると、海外事業のように順調なものもあれば、不動産などROEの足を引っ張っているものもある。不動産で言えば、物流拠点やショッピングモールなど、いい値になっているものは抱え込まず、売却して利益を確定すればいい。ゴルフ場も、低収益なのに、一度持ってしまうと手放そうとしない。新しい資産に入れ替えていけばいいのだ。

オリックスは、ロスでやめた飛行船のように事業を打ち切る例は、少ない。互いに関連するサービスが多く、ものづくりのような「選択と集中」は難しい。でも、事業部門同士の連係プレーがなさすぎる。ゴルフ場とホテル、生命保険と介護サービスなど、少し組み立て直し、付加価値を高める工夫があっていい。

どこを、どうすればいいのかは明確だ。社長になったといえども、これからも「断而敢行」の気構えを、引っ込めるつもりは全くない。

(経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥)