フランスW杯予選を戦った当時の日本代表【写真:Getty Images】

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“勝負運”を持っていた加茂が最後に目指したW杯出場の夢

「代表はクラブと違って選手を育てることはできないけれど、いつでも取り替えられる。しかし結果については、クラブの何倍も厳しく跳ね返ってくる」―加茂周

 加茂周は叩き上げで日本代表監督に上り詰め、指導者を志す下の世代に大きな希望を与えた。実際に現役時代に輝かしい実績がなくても、加茂を目標に研鑽を積み、指導者として成功した人物も少なくない。

 加茂は監督の醍醐味を次のように語っていた。

「集団を自分の意思で動かせて、しかも短期間で答えが出る。それが満員のお客さんの前で日本代表の試合ともなれば、大きな責任感とともにやり甲斐を感じますよ」

 人生では、努力が結果として開花するまで大きな時間を要する。一方サッカーの世界では、人生の何倍ものスピードで結果が判明していく。おそらく加茂は、このスピーディーなサイクルに魅了されたのだろう。

「私は運ひとつで生きて来た男ですから……」

 そう言って笑った。

 監督生活を通して、一発勝負のカップ戦には滅法強かった。天皇杯を5度制し、日本代表でもダイナスティカップやキリンカップで強豪国を下し優勝を経験している。

絶対に失敗が許されなかったフランスW杯予選

 そんな自他ともに強運を認める加茂の最後の挑戦が、当時未知の世界だったワールドカップ(W杯)への出場だった。

 日本が最もサッカーに熱くなっていた時期だった。1993年にJリーグが開幕し空前のサッカーブームが到来するなかで、日本代表は同年にW杯初出場への道を突き進むが、手にしかけた切符を土壇場でつかみ損ねた。「ドーハの悲劇」である。

 一方で2002年には、日韓W杯の開催が決まっていた。W杯の歴史を通しても、本大会出場経験なしで開催した国は皆無だった。つまり98年フランス大会は、そんな汚名を避けるラストチャンス。日本中が成否に殺気立っていた。

 カタールのドーハで集中開催となった93年とは異なり、97年フランス大会のアジア地区最終予選は10か国が2つのグループに分かれ、ホーム&アウェー方式で行われた。グループ首位なら、そのまま本大会への出場が決まる。2位なら、もう一つのグループ2位とのプレーオフが待っていた。

 日本は1勝1分で迎えた3戦目にライバル韓国と東京・国立競技場で対戦し、1-2で痛恨の逆転負けを喫した。この時点で暗雲が立ち込め、続くカザフスタンとのアウェー戦では終了間際に同点弾を許して1-1で引き分ける。

 日本にとっては、絶対に失敗が許されない予選だった。日本サッカー協会(JFA)は遠征途中で加茂の解任を決め、続く敵地ウズベキスタン戦からは、コーチだった岡田武史に指揮を執らせる決断をする。

韓国に逆転負け後、敵地カザフスタンでの痛恨ドローが決定打に

「東京での韓国戦が大きなヤマだと思っていました。そこでああいう負け方をしたことで、クビが飛んでも仕方がないなと思いました。次のカザフスタン戦は3-0くらいで勝てた試合だった。ところが時間が進むにつれて、もしかしたら危ないかもしれないと……。そうしたらロスタイムが7分もあって……。予選途中とはいえ、思ったとおりの結果が出ていないのだからと、腹を括りました」

 この解任劇は、JFAがW杯予選の途中に監督を代えた唯一のケースとなった。

 岡田が引き継いだ後も、日本が東京での第6戦で、2位の座を争ったUAEに1-1で引き分けると、一部のファンが暴動を起こした。

「結果については、クラブの何倍も厳しく跳ね返ってくる」

 それはクラブで成功し、日本代表では歴史上でも最も大きな責任を背負った加茂ならではの、実に重い言葉である。

(文中敬称略)

加部究●文 text by Kiwamu Kabe

◇加部究(かべ・きわむ)
1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(ともにカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。