『堀辰雄/福永武彦/中村真一郎 池澤夏樹=個人編集 日本文学全集17』河出書房新社
月報=堀江敏幸+島本理生、帯装画=舛次崇「土の人形と瓶とポンプ」(部分)。

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池澤夏樹=個人編集《日本文学全集》(河出書房新社)の第1期第4回配本は、第17巻『堀辰雄 福永武彦 中村真一郎』。
のすごく個性がはっきりした巻だ。
そして、この巻の巻末解説を読むと、池澤がこの全集をどのように編んでいるかがはっきり書いてある。セレクトの方針をはっきり文字化している。これはもう一種の声明文だ。池澤は本全集における日本近代文学のチョイスの方針を〈モダニズムという原理〉に置いた、と書く。

〈ぼくはそれを丸谷才一に負っている。
丸谷に依ればモダニズムの文学とは──
●伝統を重視しながらも
●大胆な実験を試み
●都会的でしゃれている
ということ〉

こうやってまとめると、なんだか西陣織のデザインの話みたいな感じがするけど、これはよくわかる。
そしてこう続ける。

〈丸谷のモダニズムには仮想敵があった。
その名は、自然主義私小説〉

私小説vs.モダニズム、という図式だ。この両者は必ずしもつねに相互排除的であるとも対立場であるともかぎらないのだけれど、とりあえず大きな図式としてこの二項を対比することで、たしかに見えてくるものがある。
ちなみに、もしこの二択だったら、僕は丸谷のいう「モダニズム」のほうがむかしは圧倒的に好きだった。けど、30代にはいってからは私小説には私小説のおもしろさがある!と強く思うようになった。
僕はそういう、どっちも好き、という節操のない読者なので、小谷野敦さんや西村賢太さんのように私小説の実作者と研究者(小谷野さんは私小説だけを研究してるわけではないが)を兼ねている人が、池澤版全集とまったくカブらない私小説重視派の日本近代文学全集なんていうものをもし編んだら、そっちも全巻読むに決まっている。
さて、それはそれとして、伝統を見すえつつ実験的でシャレオツな堀辰雄・福永武彦・中村真一郎の作品から、池澤が選んだのがこちら。

●堀辰雄=短篇小説(連作として読める)「かげろうの日記」(1937)「ほととぎす」(1939)
●福永武彦=短篇小説「深淵」(1954)「世界の終り」(1959)「廃市」(1959)
●中村真一郎=長編小説『雲のゆき来 或いは「うまく作られた不幸」』(1966)

堀辰雄といえば「風立ちぬ」が宮崎駿の同題作品(2013)のいわば原案のひとつだった(これについては記事を書いた)。
しかし今回採られたのは「かげろうの日記」「ほととぎす」。いずれも藤原道綱母『蜻蛉日記』(975?、川村裕子訳、角川ソフィア文庫)の一部分をもとに書かれた小説だ。

内外古典の二次創作やスピンオフ的なオリジナルストーリーは、芥川龍之介、太宰治、石川淳、中島敦、花田清輝など、大正・昭和の作家の「いい仕事」だと思う。原典に比較的忠実なものが多いけど、なかには大胆に改変したものもある。
堀の「かげろうの日記」「ほととぎす」の特徴は、原作中の事象や展開をほとんど変えず、地の文も忠実な「現代語訳」に近いのに、語り手兼主人公の心理や思考を大幅かつ大胆に補っているところだ。

フランス文学伝統の明晰な心理分析小説の方法で、平安朝日記文学をアレンジ(というかオーケストレーション)「してみた」的な、なんというかニコ動の「職人」みたいな「堀P」の仕事を味わえる。堀とは軽井沢で親交があった先輩・室生犀星の『かげろうの日記遺文』(1959、講談社文芸文庫)と読み比べるのも楽しい。
福永武彦は池澤の(生前ほとんど交流がなかった)実父である。つまり池澤春菜の祖父ってことね。この巻の3人のなかでは、僕は福永がいちばん好きなんだよなー。

「深淵」ではひとつの時間の流れを、男と女とが交互に語る。カトリック信徒の女子事務員は二階から飛び降り、賄い夫に自分の身体を救われたが、その男こそ放火犯だった──。
 フランスのカトリック作家(ジョルジュ・ベルナノスとかジュリアン・グリーン)あたりの、暗く静かだけど激しい世界を思わせる。これは後年、作者自身の手で『夜の三部作』(1969、のち講談社文庫)の第2部とされることとなった。

SEKAI NO OWARI……じゃなくて「世界の終り」には、ハードボイルド・ワンダーランドはついてこない。これも語りのモードが作中で変化する作品だ。4章中最初と最後の章はちょっと変わった女性の一人称。けれど彼女は、読者の目を見て「語っている」わけではない。彼女の頭のなかを実況中継するような文になっている。こういう語りかた自体はむしろ現代の一人称小説(とくにエンタテインメント)ではむしろ主流かもしれない。

「世界の終り」が特殊なのは、女性がほんとに読者のほうをほぼまったく意識していないように見えること。これは19世紀終盤のフランスと20世紀前半の英米でさかんに書かれた「内的独白」という手法だ。
この手法は僕はあまり好きじゃない。ただしその語り手(というか脳内実況中継されてるキャラクター)がひょっとしたら妄想を抱えているのではないかというような感じを匂わせるケースにおいては、かなり効果的な手法だ。「世界の終り」の彼女もそうだ。
近代小説、とくに日本のそれは、大なり小なりメンヘル気味の若い女性を好んで書きたがる。この問題は本が1冊書けてしまう大問題なので、指摘するだけにしておきます。

「廃市」は大林宣彦の同題映画(1983、小林聡美主演)の原作。大学生の〈僕〉は、柳川に世紀末ベルギーの作家ロデンバックの『死都ブリュージュ』(1892、窪田般彌訳、岩波文庫)を足したような、美しい運河の街に一時滞在する。滞在した家の明るい娘・安子、その美しい姉・郁代、その婿・直之という魅力的な3人の人生を、〈僕〉は垣間見る。

僕は歴史のある美しい町を舞台にした小説、というだけでグッときてしまう甘ちゃんなので、これはもう大好物。なにかと比較される『死都ブリュージュ』(コルンゴルトの歌劇『死の都』[1920]の原作でもある)と比べても、こちらのほうが数段好みだ。今回読み直して(中学時代以来!)、ライトノベル度の予想外の高さに驚いた。深夜アニメ化を希望します。

最後の中村真一郎は東宝の依頼に答え、先の福永武彦と堀田善衛と3人で『発光妖精とモスラ』(のち筑摩書房)を書いた。言うまでもなく本多猪四郎監督『モスラ』(1961)の原作だ。
中村真一郎は批評はどれもおもしろい。小説は6篇ばかり読んでみて、必ずしも好みなわけではないので、5冊ほど積んだままにしていた。ところが、今回『雲のゆき来』を初めて読んでみて、滅法おもしろいので驚いた。「中村真一郎は批評でしょ」なんて決めつけてた自分が恥ずかしい。お見それしました。
でも『雲のゆき来』がおもしろい理由のひとつが、小説ではあるけど語り手兼主人公が作者本人を思わせるモテモテの文学教養人で、分量的に言うと語りの半分くらいが、彦根藩士上がりの僧侶で漢詩人の元政(げんせい、あるいは日政[にっせい]、1623─1668)を中心に現代文学を含む和漢洋文学にかんするエッセイになっているから、というのはあるかもしれない。

ストーリー部分はというと、若い美人女優・楊(ヤン)嬢(ドイツ系ユダヤ人と中国人のハーフ)が、わけあって父の愛人だった女たちを訪ねるために来日し、それをさっきのインテリである〈私〉がアテンドする、という話。
 無理やり喩えると、批評部分がミラン・クンデラで、小説部分がパトリック・モディアノ+アントニオ・タブッキ+村上春樹+ポール・オースター、みたいな感じ。電話がきっかけで探偵行為に巻きこまれるなんて、『ガラスの街』とか『ねじまき鳥クロニクル』みたいだ! でもその電話がかかってくるまでの漢詩の話が長いんだけどね。

この巻はいままで出た4巻のなかで、丸谷才一の言うモダニズムの第3の条件〈都会的でしゃれている〉がいちばん際立っている巻。買おうかどうしようか迷っているなら、まずは店頭で福永の「廃市」を立ち読みしてみたらいいと思う。

次回は第5回配本『南方熊楠 柳田國男 折口信夫 宮本常一』で会いましょう。
(千野帽子)