『中上健次 池澤夏樹=個人編集 日本文学全集23』河出書房新社
参考資料=市川真人、月報=東浩紀+星野智幸、帯写真=蜷川実花。

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昨年末に池澤夏樹=個人編集《日本文学全集》(河出書房新社)の第1期第1回配本、池澤訳『古事記』についてレヴューを書いた(「『古事記』は「ジョジョ」4部のあのエピソードのルーツでもある? 話題の新訳を読んでみた」)。
あれから3か月以上経って、第4回まで配本されたので、1点ずつ取り上げていきたい。

きょうはまず、第2回配本、第23巻『中上健次』。

中上健次(1946-1992)は、昭和のラスト3分の1から平成初期、わずか四半世紀とちょっと、というごく短い期間に活躍した小説家だ。『岬』(1976、同題作品集はのち文春文庫)で芥川賞、その続篇『枯木灘』(1977、のち河出文庫、また『枯木灘 覇王の七日』小学館文庫)で毎日出版文化賞、芸術選奨新人賞を受賞している。

中上が活動していた時期は、東京オリンピックからバブル崩壊までの日本だ。大学進学率が上がり、急速に小綺麗なサラリーマン社会になっていく日本。地縁・血縁の共同体がぼろぼろに拡散・崩壊していった時期であり、そのいっぽうでまだインターネットが民間に普及していない時期だった。
サラリーマン社会化の波に乗り切れない、被差別の立場にある人たちを、中上はさかんに取り上げた。しばしば作者自身の故郷である和歌山県の新宮周辺が舞台となり、複雑に絡み合ったいくつかの家族(浜村家・西村家・中本家など)と、それを取り巻く人々が、さまざまな長篇・短篇に散らばっている。これらの作品群を一般に「紀州サーガ」と呼ぶ。
この書きかたは、米国の小説家フォークナー(1897-1962)が南部ミシシッピ州の架空の「ヨクナパトーファ郡」を舞台に、因襲と近代化とがせめぎ合う世界を実験的な方法で長短の作品を30年以上にわたって(のちの中上の全キャリアを超える期間!)書き続けたことに影響されたとされる。

フォークナーのこの手法に影響された作家に、「マコンド」を舞台に大小の作品を書いたコロンビアの小説家ガルシア・マルケスがいる。とはいえ、中上が紀州の「路地」環境を主題にしはじめたときには彼はまだ日本ではあまり紹介されていなかった。また10年以上年長の大江健三郎も、四国の森を継続的に舞台にするようになったのは、中上とさほど変わらない時期だったのではないだろうか(違ってたらごめん)。
「土地の力」を応用するこういった手法は近年では、一連の阿部和重作品の山形県東根市、古川日出男の福島県、舞城王太郎の福井県「西暁町」といった設定に、意識的に受け継がれている。そういう意味で、中上は現在の日本の小説にとっての、重要な影響源ということもできる。
このタイプの書きかただと、複数の作品に共通する人物が登場する。しかもそれがふつうのシリーズものと違って、多くは妙にさりげない再登場のしかたをする。違う名前で呼ばれたり、名前すら呼ばれずに、行為や属性から同一人物だとわかったりするケースがある。漫画やアニメと違って字しかないので、読んでも気づかずに通り過ぎることも多い。
読んでいるほうとしてはこちらが他作品との関連に気づかずに読み落としているのではないかというのが気になる。僕はそのあたりの記憶力が弱くて、同じ長篇小説のなかですら、中盤を過ぎたら「この人出てくるの初めてだったっけ? それとも冒頭に出てきた人だったっけ?」なんてことになるから、紀州サーガではいろいろ損してる気がする(そういうのも含めて読書なんだけど)。
しかも中上作品のキャラクターは、人を好きになったら一直線、憎むときにもしつこく憎む。何度も結婚したり婚外性交渉をおこなったりして、そのたびに子どもができてちゃんと育つ(「ちゃんと」、っていうのも変だけど)。だから人間関係が『枯木灘』一作のなかだけでもじゅうぶん複雑で、そのために『枯木灘』の本には必ず、歴史小説に出てきそうな家系図がついている。便利。
でも『枯木灘』は紀州サーガのなかではわりと最初のほうに書かれたものなので、登場人物はその後どんどん繁殖・拡大・複雑化していった。『枯木灘』の家系図だけでは「この人だれだったっけ?」という問いになかなか答えられない。

今回の《日本文学全集》第23巻の巻末には、TBS「王様のブランチ」でおなじみ市川真人が作成した「作中登場人物系図」(見開き2頁)およびその「補足」(1頁)、「中本一統関連作品年代検証表」(1頁)、「系図内主要人物解説」(2段組2頁)がある。
これは、いままで中上の主要作品はひととおり読んだという人にも、またこの全集をきっかけに中上を読んでみようという人にもありがたい。コピーして、他の紀州サーガを読むときに本に挟んでおくとか、いっそ撮影してスマートフォンに入れておくとか、いろいろ使える。
今回、《日本文学全集》のために池澤夏樹が選んだ収録作は、

・長篇小説『鳳仙花』(1980)
・連作小説集『千年の愉楽』(1982)(全6篇)のうち「半蔵の鳥」「ラプラタ綺譚」の2篇
・連作小説集『熊野集』(1984)(全14篇)のうち「不死」「勝浦」「鬼の話」の3篇
・ルポルタージュ『紀州 木の国・根の国物語』(序章+23章+終章)のうち前半にある「古座」「紀伊大島」の2章

『鳳仙花』は「紀州サーガ」の中心人物・秋幸の母フサの生涯を描く。紀州サーガのなかではもっとも古い時代を書いているもののひとつなので、未経験の読者にとってはこれから入るのがいいという判断だろう。
『千年の愉楽』(抄)は「路地」の人々を知悉する産婆・オリュウノオバの視点から、土地の男たち(イケメン多し)の生き死にを語る。題名がガルシア・マルケスの『百年の孤独』へのアンサーになっているとおり、微妙にマジックリアリズムな感じもある。
この二作を読むと、表面上荒っぽくて男っぽい紀州サーガが、じつは女の視線によって支えられていることがわかる。
学生運動の終結後、1970年代から80年代初頭にかけて全共闘世代の願望の受け皿になったのが、民俗学だった。その影響だろう、半村良や五木寛之、諸星大二郎らの伝奇エンタテインメント作品も広く支持された。
新左翼運動の世代に属する中上にも「日本の裏歴史」への夢はあっただろう。『熊野集』(抄)は怪異譚の連作であり、『千年の愉楽』と並んで幻想味のある作品だ。『紀州』(抄)は紀伊半島の土地パワーをめぐるルポルタージュで、宮本常一の『忘れられた日本人』を思わせる。

中上の文章は、小説でもエッセイでも、暑苦しくて人懐こく、そして強がらない文章で書かれている。だから、読んでいる側は(太宰治とはまた違った意味で)、自分の感情をうっかり投影してしまう。ついつい語りたくなってしまう作品が多い。そのせいか中上は、第2次世界大戦敗戦後に生まれた日本の小説家のなかで、村上春樹に次いで研究書が多い作家なのだ。
文学全集も紙の本である以上、収録作にはつねに分量の問題がついて回る。『熊野集』『千年の愉楽』のような連作集や『紀州』のようなノンフィクションから「つまんで」抄録するということが、文学全集ではどうしても起こってしまう。苦渋の選択だ。
この文章を書いている現在、『千年の愉楽』(河出文庫)、『熊野集』(講談社文芸文庫)、『紀州』(角川文庫)はいずれも新刊として入手可能だ。古書なら『紀州』朝日文庫版と小学館文庫版、『熊野集 火まつり』小学館文庫版もある。池澤セレクションで読んでみて気になったら、一冊全体を読んでみることを、もちろんお勧めする。
また『鳳仙花』(新潮文庫版は品切中)で紀州サーガに興味を持った向きには、そのあと作中時系列に沿って『岬』→『枯木灘』→『地の果て 至上の時』(1983、のち新潮文庫)と進むもよし、それともいきなりメインディッシュの『枯木灘』に挑んでガツンとやられる、それもまた人生かと思います。

中上の小説は、読んでいるさいちゅうや読み終わった直後よりも、読んでいったん忘れたあとなにかの弾みで思い出したときに、じわっときてしまう。これ、なんなんだろうなー。
次回は第3回配本『樋口一葉 夏目漱石 森鴎外』で会いましょう。
(千野帽子)