『エキストラ・イニングス 僕の野球論』(松井秀喜/文藝春秋)
ユニフォームを脱いで3年、引退後初の著書。

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「僕は言葉の力を信じる」

巨人、ヤンキースなどで活躍した稀代の大打者・松井秀喜が先月上梓した『エキストラ・イニングス 僕の野球論』の中の綴った一節だ。

現役時代はメディアと友好的な関係を築き、比較的そのコメントがファンに届く選手だった松井。
だが2012年の現役引退後、そのままアメリカで生活を送るようになると、松井の言葉はずいぶんと遠くなった印象がある。

だからこそ、引退後初の著書となる本作で綴った野球論、そしてこれまで関わってきた野球人にまつわるエピソードは、どこを切り取っても読み応えが満載だ。

たとえば、
・イチローと比較されることについて。
・落合博満とバリー・ボンズの打撃コンセプトが同じであること。
・唯一、ライバルとして意識したのは高橋由伸であること。
・阿部慎之助が球界を代表する選手になるとは思っていなかったこと。
などなど、これまでの著作でも語られていなかったエピソードは多い。

なかでも長嶋茂雄監督との関係性の深さは、改めて感じ入ってしまう。

「俺は35歳の時が一番良かった。35は技術も体も一番いいときだ」といわれた35歳のシーズンに日本人初となるワールドシリーズでのMVPを獲得したこと。
そして、現役引退をした年がどちらも38歳だったことなど、本人も気づかないうちに師の足跡を辿っていたことを振り返るページは、読んでいるこちらまで感慨深くなる。

松井の言葉が現役時代よりも遠くなってしまった要因のひとつに、今後の人生をどう歩むべきか、その選択に慎重になっているからもあるだろう。

ファン、そして巨人関係者からの「次期監督は松井で!」という期待と思惑。
一方で、メジャーでも確かな足跡を残した男に対して、ヤンキースも2年連続でスプリングキャンプのトレーナーに招待。
他にも野球の五輪競技復帰を目指す上での親善大使的な活動も求められている。

個人的には特定の球団の監督よりも、もっと大所高所的な立場から球界全体を盛り上げる役が松井ほどの人物ならふさわしいのでは?と思っていた。
だが、本書を読んで「指導者・松井秀喜」の姿も見てみたい、と思うようになった。

「教え上手と教わり上手」という項目では、「指導者が圧倒的に強い立場にいて従うのが当たり前」という日本のスポーツ界に警鐘を鳴らし、指導者と選手の間でなぜ齟齬が生じるのかを的確に解説していたからだ。

《打撃や投球の感覚をどんなに説明されても、それは自分とは別な肉体を持つ人が語る言葉だ。互いに自分の肉体を通した感覚しか知らないのだから、言葉を表面的に受け止めて分かった気になると誤解が生じることになる。(中略)言葉を漫然と受け入れるのではなく、自分で解釈して具体化しないとアドバイスは身にならない。》

ここでもやはり、「言葉」の重要性と難しさを解く。同時に、指導者の課題にも言及する。

《教え上手な人は、自分を選手に置き換えられる人だと思う。(中略)外から見た目でしか教えられないと「何で分からないんだ」となる。そこがコーチと選手の間の溝になる》

松井自身は高校時代も特別な打撃指導を受けたことはなく、自分の感覚でプロ入りを果たした異能な才の持ち主だ。
そんな人物が、感覚的、と称されることが多い長嶋茂雄のマンツーマン指導、いわゆる「松井秀喜4番千日構想」の日々を血肉化させてプロとしての打撃スタイルを築きあげていった。

松井自身は長嶋監督の指導スタイルを「言葉は確かに独特かもしれない。ただ言葉がわかりにくいと思ったことは一度もなかった」と打ち明ける。
誰もが「感覚的」と称する指導を言葉で理解することができたからこそ、日米を代表する大打者にまで登りつめることができたのだろう。

本書では他にも、スポーツに取り組む上での心構えなど、松井秀喜の指導理論のベースになりそうな考えが随所に登場する。
たとえば昨夏、松井秀喜の母校、星稜高校が地区大会決勝で8点差を逆転勝ちした試合を例に出し、あえて敗者にスポットを当てる場面が印象的だ。

《誰も永久に勝ち続けることはできない。敗戦は付きもので、スポーツは人生の早い段階でそういう感情を乗り越える訓練をする場でもある。(中略)野球で起きたことは何らかの形で日常生活に生きるはずだ。グラウンドで直面した厳しい現実を心にとどめて別の道を歩むことは、もしかしたら野球を続けて雪辱を図る以上に意義のあることかもしれない》

こんなことをサラリと言える指導者ならぜひ見てみたいなぁ……と思っていたら、ヤンキースのゼネラルマネジャー(GM)特別顧問に就任するというニュースが飛び込んできた。今後、ヤンキースのマイナーリーグを巡回して打撃面のアドバイスを送ることになるという。

いよいよ次の道を歩みだすときが来たのか? その場所が日本ではなかった、というのが少し寂しい。
(オグマナオト)