『皆殺し映画通信 天下御免』(柳下毅一郎/カンゼン)は、有料WEBマガジン

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世の中には「こんなに面白い映画なのに、なぜDVDスルー?」という“隠れた傑作”がある一方で、「いったい誰が観に行くのだろう?」と不思議になるような、制作意図のまったくわからない映画が存在する。

『女子ーズ』(テレビで宣伝しているのを見た)、直木賞候補作家・万城目学原作の『ホットロード』(本屋で予告編がかかっていた)など、わずか10本。自分の不勉強ゆえだろうが、本当にそれだけなのだろうか?

2011年、映画やコンサート情報をまとめた雑誌『ぴあ』が休刊し、上映情報を得るには映画館に置かれたチラシに頼らざるを得なくなった。もちろんネットという手段もあるが、現状では網羅的に情報を得るのはなかなか難しいところがある。本書の著者である映画評論家の柳下毅一郎は、そうした状況のなかで、日本映画の公開本数が増えすぎて、誰も知らない映画がこの世に氾濫していることを実感したという。そして、こんな疑問に突き当たる。

その後もひたすら公開本数は増えてゆき、ますますわけのわからない映画が作られて、誰にも顧みられぬまま公開されて消えてゆく。なぜこんな映画は作られてしまうのか? 商業映画なのだから誰かに見せようと思っているに違いない。だがいったいどんな客に見せようと思って、こんな映画を作ってしまうのだろう?

「誰も見ていない、誰も知らない映画には途方もない映画表現が眠っているかもしれない」と、未知との遭遇についつい期待してしまうのが映画ファンの性。しかし現実はそう甘くはなく、本書で取り上げられる「見えぬけれどもあるんだよ」な作品群は、情け容赦なくメッタ斬りにされていく。そして、その痛快な斬り芸こそが本書の醍醐味だ。

柳下にとっての許されざる映画とは、「人の知性を蔑む妥協の産物」のことである。つまり観客を、ひいては映画そのものを舐めた映画ということだ。

「まあこんなものでいいだろう」と適当に手を抜いて、コネとなあなあで仕事をし、その結果どんなものができようとも知ったことではない。どうせ自分が責任を取るわけではないのだし。まさにそうした態度こそが文明の退廃を招く(後略)

とはいえ、本書が書かれたモチベーションは、「そこらへんで公開されているけど、誰も見むきもしない映画」への興味や、見る者を知的退廃へと導く映画への怒りだけではない。読めば、著者の映画という文化への愛情が、文章の端々から感じらるはずだ。それがなければ、仕事とはいえ、ここで紹介しているような“駄目な”映画を毎週毎週見にいけないではないか。

なお、『わたしのハワイの歩き方』より)

なんて書かれると、酔狂にも「ちょっと面白そうかも」とか思ってしまったりもするのだった。……きっと気の迷いだろう。
(辻本力)